安倍晋三元首相の襲撃直後、山上徹也容疑者宅を家宅捜索する警察官。彼は「テロリスト」なのだろうか(写真:写真:東京スポーツ/アフロ)

安倍晋三元首相が殺害されてから1年が経った。同氏の殺害と前後して、日本でも公人を狙うテロのような事件が相次いでいる。本来は単独行動のテロリストを意味する「ローンオフェンダー」という言葉も見かけるようになり、山上徹也容疑者もその一人とされる。

彼は、果たしてテロリストなのだろうか。

厚生労働省を退職してから、イギリスで安全保障、特にテロの研究をしていた筆者は、日本で近年取り沙汰される事件を、テロでも一般犯罪でもない「ラベルのない過激化」だと考えている。

具体的には、主義主張のないまま「公人や公的機関を攻撃」したり、「生活の延長線上で大量殺傷」するものであり、前者は安倍元首相殺害、岸田文雄首相襲撃、陸上自衛隊駐屯地での銃乱射、後者は2008年の秋葉原無差別殺傷事件、2019年の京アニ放火事件や2021年の大阪・北区の心療内科医院放火事件などである。

これらの犯人はいずれも政治・宗教的な大義がなく、むしろ社会から弾かれてしまった人たち、という背景が散見される。

狙われる対象も変遷した。2008年には「愛犬を保健所に殺された」という理由で元厚生事務次官が相次いで襲撃された。当時の悪役は「役人」だったが、最近は「政治家」のほうが悪いらしい。

欧米の感覚では安倍氏殺害は「テロ」ではない

欧米ではテロかどうかの区別は徹底される。安倍元首相殺害の報道でも、例えばイギリスのBBCは事件直後こそ、政治性のある「暗殺」と報じたが、事情がわかるにつれ「殺害」に表現を変えていた。政治的・宗教的な過激主義という「ラベル」がない限り、どんなにインパクトがあっても、彼らはテロとは呼ばない。

過激主義の「ラベル」が重視されるのは、対策を練るうえで相手を追いかけやすいという利点と、政権転覆などの最終目的がより重いという理由による。犯人も、大義を抱えて犯行に及ぶのが通常だ。過激思想のない銃乱射犯はいても、日本のように、大義なく公人を襲う例はあまりない。

こういった過激主義のラベルがない点で、近年の日本の例は世界的にも珍しく、海外の「ローンオフェンダー」とは似て非なるものだ。海外のテロ対策は「ラベル」があるゆえに機能しており、日本には向かないリスクがある。

例えばイギリスでは、世界有数の情報機関であるMI5や、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)公安部や政府通信本部(GCHQ)などが、テロ対策に従事している。過激なサイトにアクセスしようものなら、たちまち監視され、たとえ単独だろうと追跡される(初期段階での本人への警告も珍しくない)。

SNSなども、日進月歩で監視アルゴリズムが研究され、検知は時間の問題だ。「ローンオフェンダーは事前の探知が難しい」と指摘されるが、実はそれなりの数が未然に防がれている。

それでも対応が「こぼれる」のは、短期間に過激化する者たちだ。「昨日過激サイトを見て」とか「先週改宗した」というタイプには、事実上、過激派のラベルはなく、日本の近年の例に近い。

ローンオフェンダーと過激主義を掲げない銃乱射犯などを比較したアメリカ司法省の調査でも、銃乱射犯のほうが事前に計画を漏らさないことが指摘されており、その探知はより難しい。

対テロの基本は「早期発見・早期逮捕」だが

ケンブリッジ大学が開催する情報戦の夏季講座に参加した際、元情報部の教員から、対テロ戦の基本は「早期の検知と介入」だと聞いた。私は、「肝臓病の早期発見・早期予防みたいだな」と思ったが、彼が指すのは「早期発見・早期逮捕」のほうだった。

しかしここまで書いた通り、日本の「ラベルのない過激化」は大義を伴わないため、一般的なテロ対策で「早期発見・早期逮捕」を行うには限界があり、費用対効果も悪い。

日本でじわり猛威を振るう大義なき暴力と、私たちはどう向き合うべきだろうか。社会政策と安全保障学の両方に携わった経験から、筆者は、日本のような事例には、テロや安全の専門家の思考だけでなく、社会福祉的な思考も必要ではないかと感じる。

例えば、児童虐待の文脈で、「悪魔のような親から子供を守れ」と叫ぶ人にとっての「早期予防」とは「親の逮捕」を意味する。しかし、現場にとっては、そう単純でなく、虐待の兆候をなるべく早めに発見し、孤立していないか、子供を親から引き離さずに済む方法はないかと、まずは福祉的な思考で対応する(もちろん、緊急的な場合は別だ)。

ラベルのない過激化も、単純に「危ない奴の凶行」とみるのか、「社会課題への不満の暴発」とみるかで、考え方は変わるのではないか。

そもそもの大前提として、仮に何かに不満があっても、多くの人は暴力に頼らないし、暴力の方向もさまざまだ。悩んだ末に自分の命を断つ人もいれば、子供に矛先を向ける人もいる。公人を襲ったり、大量殺害に走るのは、ごくわずかだろう。

読者のみなさんは議員会館や官公庁に墨汁をぶっかけて回るおじいさんをご存じだろうか。理由は判然としないが、過去には年金制度の不満を訴えていたようだ。これもラベルのない過激化の一例だが、彼は灯油や包丁の代わりに、墨汁を使った。

もちろん、山上容疑者のような、事件を起こした者が法的に追及されるのは当然だ。動機が何であれ、英雄視されたり、賛美されたりするのは明らかにおかしい。それに、警備強化や不審者の探知という地道な警察活動も短期的には必要だ。

しかし、社会から弾かれ、鬱屈とした気持ちを抱えている人たちを、単に「危ない奴」で片付けるのは正解だろうか。少なくとも暴発前である限り、ラベルのない過激化を社会課題の延長と捉え、未然に防ぐことはできないだろうか。

実際、先ほどのアメリカ司法省の調査によれば、過激主義を掲げない単独犯はローンオフェンダーと比較して、「薬物乱用歴」や「恒常的なストレス経験」があり、「不当な扱いを受けてきた」と感じていることが多いと指摘される。

地域による包摂が解決策のカギかもしれない

残念ながら、自殺や虐待と同様、即効性のある対策はないが、地域社会による包摂は一つの解決策かもしれない。児童虐待の分野では、健診や保健師訪問などの際に予兆を発見する取り組みが自治体で進む。ラベルのない過激化に向かう者は、孤立感や疎外感、怒りのようなものを抱えていると考えられ、その対策はさらに複雑で緊張感を伴う。

しかし、地域への包摂を進めることは、全体のリスクを下げ、最終的に有効ではないか。イギリスには、貧困率や犯罪率などを町会単位で可視化した「複合的剥奪指数マップ」が整備され、福祉担当者の介入の参考となっている。日本でもこういった枠組みがあれば、一般の福祉施策はもちろん、ラベルなき過激化の予防効果を高めるのに有用かもしれない。

20万件以上の事件を集積した国際的なデータベースで比較しても、福祉国家で名高い北欧諸国は、テロ攻撃の件数が英米よりもはるかに少ない。英米の件数の多さは強硬な対外政策を理由に狙われ続けたことが主要な要因だが、自国民、特にローンオフェンダーの攻撃の台頭を考えると、安定した社会ほど過激な攻撃を抑えているようにもみえる。

この20年ほど、欧米社会はイスラム教徒を敵視するあまり、(白人全体はまともだという前提で)極右主義的な白人の暴力を「少し変わった人による例外的な行動」と軽く扱ってきたとも言われる。一方で、労働者階級の経済的不満や差別意識は解決できず、過激な極右主義者を増やしてしまった。

冒頭でも触れたように、安倍元首相の殺害を挟んでここ数年、日本固有のラベルのない過激化は、思い出したように私たちの日常を脅かしている。自分とは関係のない「変わった人」のことで終わらせず、一度立ち止まり、社会のあり方について考えるタイミングではないだろうか。

(郄橋 彰 : 政策コンサルタント)