2014年、スウェーデンのストックホルムでの日朝協議を終え、経由地の北京で報道陣に対応する北朝鮮の宋日昊・朝日国交正常化交渉担当大使(当時)(写真・共同)

岸田文雄首相が最近、北朝鮮との関係改善を呼びかける発言を繰り返している中、北朝鮮で8年前に出された本が注目を集めている。長らく日本との外交交渉に携わり、日本での人脈もある宋日昊大使の本だ。なぜ、彼の本が関心を持たれているのか。

岸田文雄首相が北朝鮮との関係改善に乗り出す発言を繰り返している。2023年5月27日に、拉致被害者関係の集会で「私(岸田首相)自身、わが国自身が主体的に動き、トップ同士の関係を構築していくことが極めて重要」であり、「条件をつけずに金正恩委員長(総書記)と直接向き合う決意であり、自分が直轄してハイレベルでの協議を行っていく」と述べたことがその嚆矢だ。

また6月21日にも、「首脳会談を早期に実現すべく、私直轄のハイレベルで協議を行っていきたい。拉致問題の解決に向けて、全力で果敢に取り組んで行く」と述べた。

北朝鮮は故・安倍晋三元首相が「前提条件つけずに首脳会談を行いたい」との意思表明を行って以降、それでも拉致問題の解決に言及し続けたため、「すでに条件をつけているではないか」と反発を続けてきた。そのため岸田首相の一連の発言にも、「言葉と行動が違うのではないか」と疑っているようだ。

故・金日成主席と日本人との深い交流

では、日朝間での話し合いの接点は生じるのか。そのためには何が必要なのか。

それを考えるために、北朝鮮ウォッチャーの間で最近、1冊の本が注目されている。それは北朝鮮外務省の宋日昊(ソン・イルホ)大使が2015年に北朝鮮で出版した『金日成主席と日本』(北朝鮮・曙光編集社)だ。

著者の宋大使は日本との外交交渉などに長く従事し、「日朝国交正常化担当大使」を務めた、北朝鮮の外交関係者では数少ない日本専門家だ。安倍元首相も2023年に出された『安倍晋三回顧録』の中で、「北朝鮮外務省の中でも『日本との交渉は大事だ』と考えている人物であり、日本との交渉をまとめようという意欲があった人物」と言及している。

余談だが、宋大使は安倍元首相の父である故・安倍晋太郎元外相が入院中にお見舞いに訪れた時、安倍元首相とも簡単にあいさつを交わしたことがあるという。1980〜1990年代に宋大使は日本をしばしば訪れ、政界を中心に日本とは太いパイプを持っていた。

そんな宋大使が『金日成主席と日本』の中で何を言っているのか。本書の大部分は、故・金日成主席と、訪朝するなどした日本の政財界、文化人との生前の交流エピソードを紹介した本だ。それは、<1945年8月15日から70年という長い年月を経た今日、新たな視座から歴史を振り返るとあれほど大きな傷跡を残してきた日々にも、多くの年輪を刻んだ巨木さながらに、今も燦然ときらめく、心温まるエピソードが多々あることを見逃すべきではなかろう。>と考えたためのようだ。

現時点で読み返したうえで注目すべきは、宋大使が前書きで日朝間の懸案を直接指摘し、とくに在日コリアンの処遇に言及している点だ。<反共和国(北朝鮮)勢力の世論操作により、拉致・核・ミサイル問題が両国の関係改善を拒む基本的障害であるかのように喧伝され、今なお不信と敵対感情、地域的緊張が解消されていないのは、悲劇というほかない。>と指摘している。

そのうえで、<日本在留が4代を数える今日に至っても、在日朝鮮人が不当な政治的理由をもって差別され、迫害され、あまつさえ人間憎悪と弾圧の対象となり、基本的人権さえ蹂躙されている>と付け加えている。

このような宋大使の著述には、日本は北朝鮮を少しでも理解しようとし、かつ日本人と身近な在日朝鮮人の問題や処遇を改善してほしいというメッセージが込められている。現在、高校教育無償化や幼稚園・保育園の無償化といった措置が、朝鮮学校系の教育機関には適用除外とされている。こういった在日朝鮮人に対する政治的な措置をまずはやめてほしいという意味にも取れる。

実は、冒頭で紹介した岸田首相による一連の発言は、北朝鮮にとって好意的に受け止められている(「岸田首相のメッセージに反応した北朝鮮の意図」参照)。一方で、北朝鮮は「やはり言葉に行動が伴わないのでは」とも考えているようだ。

2023年6月29日、北朝鮮外務省・日本研究所は「国連は主権国家を謀略にかけて害する政治謀略宣伝の場になってはならない」という文章を発表した。これは同日開催された拉致問題に関するオンライン国連シンポジウムに当てたものだ。

「拉致問題は解決済み」姿勢崩さぬ北朝鮮

同研究所はここでも、<「拉致問題」については、すでに逆戻りできないように最終的に、完全無欠に解決された><「前提条件のない日朝首脳会談」を希望すると機会あるたびに言及している日本当局者の立場を自ら否定することと同様である>と指摘し、日本に対する強硬姿勢は変わっていない。

宋大使の著書の内容には、日朝間が厳しい時期でも日本のさまざまな分野の人との対話があったことを記録している。現在でもそのような対話こそが必要だというのが1つのメッセージのようだ。


宋日昊大使が2015年に出版した『金日成主席と日本』。日本語版と朝鮮語版の各上下巻で刊行された (写真・曙光編集社提供)

これまで、拉致問題は解決済みで、核開発・ミサイルも自衛手段だというのが北朝鮮の立場だ。一方の日本は拉致問題を2002年の時点から完全解決に向けて前進させ、核開発・ミサイルといった安全保障上の問題をも取り除きたいという立場だ。双方の主張は互いにかみ合っていない。

宋大使は本書の最後で日本に対し、「戦後も日本政府は過去を反省、侮悟することなく、厚顔無恥な朝鮮敵視政策を追求し、いまなおこれに熱を上げている」と批判する。

ただ、「こうした状況下にあっても、真理と正義を重んじ、変わることなく朝鮮との友好親善をはかり、不断の努力に傾注してきた多くの日本の友人たちがいることをわれわれはよく知っている」とも述べている。

これは北朝鮮の強硬な対日姿勢を維持しつつも、そういった日本の良心に応える用意はあるのだという、いわば柔軟な考えも持っているということだろうか。

いずれにしろ、北朝鮮の論理はこのようなものだろう。ここから北朝鮮を日本側に呼び寄せることができるように、岸田首相が主体的に、直轄してハイレベルの協議をどうやっていくのか。安倍元首相の発言や「戦略的忍耐」という無策を続けたアメリカのオバマ元大統領やバイデン大統領とは一線を画し、日朝関係を本当に動かしたいのか。発言した以上、それは問われる。

(福田 恵介 : 東洋経済 解説部コラムニスト)