馳浩が仕掛けたグレート・ムタ戦での布石に、ケンコバは「なんてすごい流れなんや!」 引退したムタの功績も振り返った
(中編:ムタの日本デビュー戦の失敗に、馳浩は「俺が盛り上げてやる」 大流血の死闘を締めた「担架へのムーンサルト」>>)
1990年9月14日、広島サンプラザで行なわれたシングルマッチで、グレート・ムタの悪の部分を引き出した馳浩。その2年後の再戦では、1戦目の展開が布石となり、また壮絶な試合が展開された。その試合や、武藤敬司やムタ、馳が残した功績、そのまばゆい光の陰で"犠牲者"になったレスラーについても語った。
ムタ(左)とシングルマッチ2戦目を戦った馳
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――ムタは1990年9月7日の日本デビュー戦、サムライ・シロー(越中詩郎)戦で大コケしたものの、次戦の馳浩さんとの試合で"悪"の部分が覚醒。そして2年後の1992年12月14日に、大阪府立体育会館で再戦します。馳さんとの2戦目は1戦目から「つながっている」とのことでしたが、それはどういうことですか?
「広島での試合では、馳さんが張り手のラッシュを見舞ってムタの顔のペイントを剥がし、ムタのビジュアルが『武藤敬司』になってしまった。しかし、そこでムタが悪に目覚めて馳さんを大流血に追い込んだんですが、大阪でも同じようなシーンが再現されたんです。
やはり馳さんが張り手のラッシュでムタのペイントを剥がしたんですけど、今度は馳さんが、素顔になったムタを大流血させたんです。その血が、結果的に真っ赤なペイントになって、『武藤敬司』が再び『グレート・ムタ』と化した。『なんてすごい流れなんや!』と感動しました」
――確かに、2年前に起きた大流血が見事につながっていますね。
「広島での大流血が、2年越しの再戦への大ヒントになっていたことに気づいたんです。すべては大阪への布石だったのかと。馳さんはムタとの初対決の前に、インタビューで『ムタは俺についてこい』と話しましたが、すべて主導していたと考えると......なんという二部作を作るんだという感じですよ」
――試合は1戦目をしのぐ大熱戦となり、ムタがムーンサルトプレスで勝利しました。
「この2戦で思うのは、馳さんの見事な演出力はもちろん、サムライ・シロー戦での失敗をふまえ、すぐにアジャストした武藤敬司のすごさ。まさに天才ですよ」
――その通りですね。ケンコバさんは、グレート・ムタがマット界に刻んだ功績はどこにあると思っていますか?
「絶大な影響力です。ファンだけでなく、数多くのレスラーにも影響を与えています。例えば、派生キャラの数。グレート・ニタ(大仁田厚)や、グレート・ボノ(曙太郎)......魔流不死(まるふじ/丸藤正道)を派生キャラとしていいのかはわかりませんが、ムタが "化身キャラ"を確立したがゆえですからね」
――ただ、ムタの"父親"であるザ・グレート・カブキさんは別格として、他の化身キャラは不発に終わった例が多かったように思います。
「結局、そこは武藤敬司という天才の"華"が成せる業だったんでしょうね。ムタは、あの小川直也とも異種格闘技戦(1997年8月10日、ナゴヤドーム)を成立させたんですから。あの小川戦も異様な試合でしたよ」
――WCWでの初登場から、今年1月22日に横浜アリーナで行なわれたラストマッチで魔界に帰還するまで、ムタはさまざまなドラマを見せてくれましたね。
「時代ごとにいろんな姿を見せてくれましたが......俺は『素ムタ』が好きでした」
――『素ムタ』とは?
「本当に初期で、入場コスチュームも甲冑などをつける前の、ニンジャマスク時代のグレート・ムタのことです。俺はこれを素のムタ、『素ムタ』と呼んでいるんですよ。あの頃は、馳戦のように試合中によくペイントが剥がれていましたけど、あれが逆によくて。
俺の記憶では、(リングアナウンサーの田中)ケロちゃんが入場で『グレート・ムタ見参』とアナウンスするようになってから、コスチュームで骸骨や龍などを背負い、派手に出てくるようになったんじゃないかと。そのあたりから、プロレスファン全員がムタを好きになっていくんですが、俺は派手になる前が好きなんです。今のファンたちにもその素晴らしさがわかるように、素のムタの活躍を集めたDVDを出してほしいですね」
――それは見たいですね! 絶大な人気を誇ったムタですが、初めて登場した当時は、アントニオ猪木さんが築き、ストロングスタイルを標榜してきた新日本プロレスでは異質なキャラクターだったと思います。純度100パーセントのアメリカンプロレスを新日のマットに持ち込んだ存在でした。
「それについては、俺も武藤さんと蝶野(正洋)さんに聞いたことがあるんです。すると、2人とも『それが一番わかってない』と言うんですよ。そして、『猪木さんが一番アメリカンプロレスだよ』と。
俺もその言葉の真意をはかりかねているところがあるんですが、レスラーから見たらそうかもしれないですね。猪木さんも、ムタのような狂気を身にまとっていましたから。しかもペイントなしで」
――そうかもしれませんね。
「あとは、新日本のストロングスタイルを支持する熱狂的ファンの心を"ほぐし"ましたよね。その結果、今の新日本はさまざまなプロレスが見られるようになりました。それも、武藤さんやムタの功績だと思います」
――そのすべての原点が、1990年のサムライ・シロー戦からの馳浩戦だったんですね。
「繰り返しになりますが、あらためて馳浩という男の才能のすごさを感じます。実際、武藤さんが2度目の凱旋帰国(1990年4月)をした際、蝶野さんとのタッグでIWGPタッグベルトを奪取し、『武藤・蝶野組でいくんやな』と思ったら、武藤・馳組になってIWGPタッグを奪った。
この頃、武藤さんが試合後のインタビューで『馳と組んだら、俺が動かなくていいから楽だよ』と言っていたのも思い出します。あの天才が信頼するほど、馳さんもやはりすごかったということですね」
――馳さんは、佐々木健介さんとの「馳健」タッグでも一世を風靡しました。
「そうですが......これは、あくまで俺の想像なんですけど、馳さんは健介さんとやっていくのはあんまり、と思っていたかもしれません。
なぜなら、健介さんは『闘魂三銃士』にコンプレックスがあったけど、馳さんはなかったから。『自分は誰よりもプロレス的に頭が切れる』と自覚していたから、馳さんは『リング上で放つ華は闘魂三銃士にはかなわない。それなら、俺は3人を動かしてやる』という思惑があったんじゃないかと。だから、馳さんが1990年代に裏方に回るとか、思い切ってそちらに舵を切っていたら、三銃士はもっとすごい存在になっていたかもしれません」
――想像をするだけでワクワクしますね。
「武藤さん、ムタについて話そうと思うと、ついつい馳さんのすごさを語ってしまうんです。ホンマに、この2人はすごい。ひとつだけ、ムタがブレイクする中で、俺が応援している越中さんだけ時代に追いつけなかった感があったのは残念でした。
武藤さんの現役時代を振り返ると、『黒歴史』と言われるのは異種格闘技戦のペドロ・オタービオ戦(1996年9月23日、横浜アリーナ)ぐらいだと思われがちですが、今回話したムタとしてのサムライ・シロー戦があったんです。そりゃあ、名前がリングネームに変わっただけだから無理ですよね(笑)。ムタという圧倒的な光の陰に、越中さんという最大の犠牲者がいたことを、みなさんも忘れないでください」
(連載10:「ハンセンがハンセンじゃなかった試合」全日本のリングで見せた珍しいファイト>>)