ケンコバが憤ったグレート・ムタの「黒歴史」 無理やり化身対決にされた越中詩郎は「犠牲者です!」
ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(9)前編
(連載8:ブロディ、ハンセンら史上最高の「世界最強タッグ」大阪大会。、天龍源一郎が出るメインカードに「がっかり」した>>)
子供の頃からあらゆる団体の試合を見続け、各メディアで"プロレス愛"を披露してきたケンドーコバヤシさんが、独自の目線で名勝負を語り尽す連載。第9回は、今年2月21日に東京ドームで引退した武藤敬司の化身「グレート・ムタ」の黒歴史を振り返る。
不完全燃焼に終わった、グレート・ムタvsサムライ・シロー
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――今回の語り継ぎたい「名勝負」はどの一戦でしょうか?
「ここ最近のプロレス界はいろんなことがありすぎて、さまざまな試合が思い浮かんだんですが......あらためて、今年2月に引退した武藤敬司さんに敬意を表する意味でも、1990年9月と1992年12月に行なわれた、グレート・ムタと馳浩さんの2試合について語ろうと思います」
――その2試合は、1990年9月14日に広島サンプラザ、2年後の12月14日に大阪府立体育会館で行なわれた一騎打ちですね。特に広島の初戦は、ムタが覚醒した一戦として、今も多くのファンや関係者が「名勝負」と絶賛しています。
「そうです。俺もムタvs馳は『素晴らしい作品だ』と思っています。ただ、その名勝負を話す前に絶対に触れなければならない試合があるんです」
――それは?
「グレート・ムタvsサムライ・シローです。ムタvs馳の話をする時に、この試合は避けては通れないんです」
――ムタvsサムライ・シローは、1990年9月7日に大阪府立体育会館で行なわれました。この一戦は、グレート・ムタが日本マットに初降臨した試合です。「武藤敬司」の化身である「グレート・ムタ」に合わせて、対戦した越中詩郎選手もメキシコ時代のリングネーム「サムライ・シロー」で登場しました。
「今年2月、武藤さんの引退試合を見るために東京ドームを埋め尽くした観客の中には、信じられないファンもいると思いますが......実はムタは、日本初見参の時は人気がなかったんです。その理由が、このサムライ・シロー戦にあったんですよ。ムタにも黒歴史があったんだということを、今のプロレスファンにも知ってほしいんです」
――この試合で、何があったんでしょうか?
「俺は当時、『まず、マッチメイクがダメやな』と思いました。なぜならグレート・ムタは、武藤さんが1989年にWCWでペイントレスラーとして変身した、完全に『武藤敬司』とは別人格の新しいキャラクター。一方でサムライ・シローは、単なるリングネームで、越中さんが別人格になったわけではなかったからです」
――確かにそうですね。
「越中さんは1984年3月、三沢光晴さんと共にメキシコへ武者修業に旅立ちました。そこで授かったリングネームが『サムライ・シロー』。ただ、現地の人もわかりやすい日本人っぽい名前というだけで、別のキャラクターに変身したわけじゃないんです。ムタには、武藤敬司にはない毒霧などオリジナルムーブがあるじゃないですか。だけど、『サムライ・シロー』には独自の動きなんてない。なのに、ムタの日本デビューだからといって無理やり『化身対決』みたいにされたんです」
――全然、化身対決じゃないですね(笑)。
「そこに俺は、切なさを感じましたよ。しかも、ムタもあの日だけはなぜか、いつもの『武藤敬司』のような戦い方だったんです。日本で初めて『グレート・ムタ』として試合をするわけですから、あれほどの天才でも戸惑いがあったんやろうなと。だからこの試合は、ただのペイントした『武藤敬司』と、名前が少し変わっただけの『越中詩郎』の試合になってしまったんです。
そんな試合をどうやって見ればいいのかわからず、感情移入ができなくて......試合はムタが勝ったんですけど、ファンからは大不評で専門誌でも酷評されたんです。当時の俺も『何でこんなことになるんや! マッチメイカー連れてこい!』って嘆きましたよ。日本デビュー戦でコケてしまったことでムタの株は大暴落し、すぐには人気が出なかったんです」
――しかも相手は、ケンコバさんが大ファンと公言している越中さんですからね。
「だから余計ですよ。俺が越中さんに惹かれたのは、全日本の若手時代。当時の全日本は若手の試合がテレビで中継されることがほとんどなかったんですが、若手選手のリーグ戦『ルー・テーズ杯』の決勝戦(1983年4月22日、札幌中島体育センター)の三沢光晴さんとの試合は放送されたんです。
その試合の越中さんを見て、『むちゃくちゃ動くなぁ。全日本に、こんなに素早く動く選手がおるんや』と魅了されたんです。そこからメキシコ修業を経て、紆余曲折の末に全日本を離れて新日本のリングへ。そこからは『越中の試合は誰とやっても間違いない』となり、欠かせない選手になったんですよ。
それなのに、あの『サムライ・シロー』で一気に評判を落としてしまった......。無理やり『サムライ・シロー』でリングに上がった越中さんは犠牲者です! 当時も『何のためにルー・テーズ杯を勝って、メキシコ行って、アジアプロレスを立ち上げたんや! 全日本を離れる時、あいさつをした天龍(源一郎)さんから背広のポケットに突っ込まれた札束はなんだったんや!』って嘆きましたよ」
――お気持ち、お察しいたします。対するグレート・ムタも、日本デビューが大きく期待されていましたね。
「当時は、今のようにインターネットもありませんから、海外マットの情報は専門誌と東スポ頼み。その写真を見る限り、ムタはペイント、ポージングも含めておどろおどろしいキャラクターに変貌を遂げていて、『ザ・グレート・カブキの息子という設定があるらしい』とも知って、『いったい、どう変わったんや』と想像を膨らませていました。
当時の新日本プロレスは、アントニオ猪木さんの時代から藤波辰爾さん、長州力さんが中心になっていく時期でしたが、ムタに対してもファンは『時代を変えてくれ。風穴を開けてくれ』と期待していたんです。それまでの新日本にはいなかった斬新な存在になると。でも、サムライ・シロー戦では、いつもの『武藤敬司』と変わらないキレイなレスリングだったので......今でも引っかかるものがありますよ」
――ムタ、越中さん双方にとっての「黒歴史」ですね。
「あの試合以降、もしかしたら武藤さんと越中さんの間には、『顔を合わせたくない』という空気ができてしまったのかもしれません。あの2人がシングルで戦った試合は、武藤さんが優勝した1995年のG1クライマックスなどもあるんですが、かなり少ないんです。『グレート・ムタvsサムライ・シロー』は、我々ファンも含め、関わった人たち全員にとって消したい過去になっているかもしれません。
ムタの歴史は『大コケ』から始まったという事実に、今年2月の武藤敬司の引退試合に集まったお客さんの何人が気づいていたのか......。ムタはその後、稀代のスーパースターになっていきましたが、その陰に"犠牲者"となった越中さんがいたということを、これを機に多くのファンに知ってもらいたいです」
――最悪のスタートから、ムタはよく巻き返しましたね。
「このサムライ・シロー戦の失敗を、見事に生かした男がいたんですよ。その名は、馳浩です」
(中編:ムタの日本デビュー戦の失敗に、馳浩は「俺が盛り上げてやる」 大流血の死闘を締めた「担架へのムーンサルト」>>)