国枝慎吾「国民栄誉賞」受賞インタビュー

「みんな上手! 僕がみんなくらいの年齢の時より、ずっとうまいよ」

 車いすを漕ぐ少年・少女たちに、語りかける笑みがとても柔らかい。以前よりも白くなった肌が、現役から離れた3カ月の長さを映すようだった。

 ただ、それらの変化は逆説的に、戦いの最前線に身を置く日々が、いかに濃密で切迫していたかを物語もする。

 今年1月に引退を表明した国枝慎吾さんは、去る4月末に福岡県飯塚市で開催された、車いすテニスのジャパンオープン会場を訪れていた。

 決勝戦の表彰式ではプレゼンテーターを務め、続いて同会場で行なわれた『ITF・UNIQLO車いすテニスクリニック』では9歳から17歳の14名のジュニア選手たちの指導にあたる。

 国民栄誉賞を授かるほどに眩しいキャリアに幕を引き、次世代へとトーチを手渡す国枝さんは、引退後の日々をどう過ごしてきたのか? 今の胸中を、そして未来に託す想いを、誠実かつ力強い言葉の数々で綴ってくれた。

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国枝慎吾さんに引退後の心境を語ってもらった

── 引退を表明してから約3カ月。どのように過ごし、今、テニスに対しどのように感じていますか?

「そうですね。やっぱり引退を決めた直後は、喪失感はありました。20年以上、テニス中心の生活をしてきたところから一転、遠征をしない生活に対して、当然、寂しさも感じました。

 現役中ってその日その日に勝負して、次の大会、その次の大会と、毎日目標を持ちながらの生活だった。そこから離れたことで、最初は、どう毎日を過ごせばいいのかわからないなという感覚が、実際のところありましたね。

 それは今でも、ちょっと思うことはあります。毎日の目標がなくなる難しさも感じていますが、同時に、もう遠征に行かなくていいな、という開放感もありました。現役の最中はテニスしか見ていなかったし、テニスがすべてというふうに思っていたところもありました。

 でも実際には、人生のなかの1ページとは言わないまでも、何ページもあるうちの一部分だったんだなっていうのを、引退してから特に思いましたね。長い目で見て、そういう感じに今は捉えています」

── 引退後の喪失感ということで言うと、1月の全豪オープン直前に引退表明し、いわゆる引退試合はしませんでした。全豪に出て終わるという考えはなかったのでしょうか?

「そこはけっこう、迷いましたね。実際、引退を決めた直後が一番つらい時期というか、『本当にこの決断がよかったのかな』と悩む時期でもあって......。

 もちろん引退は決めていたんですが、さっき言ったように、何をやったらいいのかわからない状態になってしまうと、『果たしてテニスを辞めたことがよかったのか? 今から全豪オープンに向かったほうがいいんじゃないのか?』という思いも正直ありました。でも僕のなかでは、昨年のウインブルドンで優勝したあとに、やりきったという思いがすごく強かったんですね。

 それまでは、(唯一取っていなかった)ウインブルドン・シングルスのタイトルや、東京パラリンピックの金メダルへの熱がずっとあった。それがなくなってしまった時に、このまま目標がないなかでテニスを続けていくことは、今まで自分がやってきたことに反しちゃうなという思いが、まずひとつあった。

 熱のない空気のままやることは、自分のポリシーに反する──。引退の決め手となったのも、そのような思いだったので、今ここで全豪に行って仮に優勝したとしても、その空虚さが埋まることはないだろうなと思いました。

 今回の引退は、富士山を見た時に決めたんです。これまでひとつの山を登ってきたけれど、違う山を見つける作業もまた、すごくチャレンジングだと思うんですね」

── 国枝さんは常々「車いすテニスをスポーツとして認められるようにしたい」とおっしゃってきました。引退を決意した背景には、その目標が達成されたとの思いもあるのでしょうか?

「そうですね。この飯塚の大会も、僕が最初に出始めた頃より何倍もお客さんが来るようになりました。楽天オープンは2019年から車いす部門が健常者と同時期・同会場開催になりました。

 それは10年間くらい、ずっと訴え続けてきたことですし、さらに昨年は有明コロシアムのセンターコートで決勝戦ができた。本当に一歩一歩進みながら、障壁をクリアしてきたのかなと思います。自分自身もその過程のなかで、車いすテニス選手に興味を持ってくれる方がどんどん増えてきたことも実感できました。

 そのきっかけとして一番大きかったのは、やはり東京パラリンピックかなと思います。テレビ中継を通じて多くの方々に見てもらえたことで、自分のなかでの満足度も生まれました。あそこで『車いすテニスがスポーツとして認められた』と感じたので、昨年1年間は純粋にテニスそのものに向き合えたんですね。

 そこから10月の楽天オープンで、多くのお客さんの前で試合ができたことで、パラリンピックで得た感触を確認できた。今までやってきたことの答えが、ちゃんとあそこで出たかなっていう思いがありました」

── そうやって国枝さんが用意した、車いすテニスがスポーツとして認められる舞台で、もっと長くプレーしたいという思いはなかったのでしょうか?

「それも正直、思いました。せっかくね、ちょっと注目されるようになってお客さんも増えてきたなかで、自分自身が辞める決断を下すのは、やっぱり引っかかる点のひとつではありました。でもなかなか、そこから先のエネルギーが沸いてこなかったですね。

 たとえば、昨年ウインブルドンで優勝していなかったら、もしかしたらあと1年やっていたかもしれないです。あのウインブルドンを取ったことで、どうしても熱以上に満足感が心を占めてしまった。アスリートとしての達成感と、車いすテニスをスポーツとして認めさせたいという理念の両方が、あそこで噛み合い、達成された。

 そういう意味では、いろいろな巡り合わせもあったじゃないですか。2020年(コロナ禍により1年延期されて2021年開催)の東京パラリンピック開催が決まり、現役ギリギリで参加して金メダルが取れた。同時に、もしそれが5年早かったら、車いすテニスが認められたなかで、もう5年間やれたのかなと思う自分もいますよ。

 ただ逆に、(小田)凱人や(上地)結衣ちゃんが出てきて、これから車いすテニスを盛り上げていく人たちにバトンタッチしてもいいかな、と思えるタイミングでもありました」

── そのようななかで、先月には国民栄誉賞を受賞されました。これまでの国枝さんの実績や理念が国から認められた、という思いはあるでしょうか?

「そうですね。それも思いましたが、同時に思ったことは、僕が車いすテニスを始めた時に、すでにそれが可能な環境があったということです。その事実に、ものすごく感謝しました。

 僕が始めた頃(1995年)には日本に車いすテニスの大会がすでにいくつかあり、TTC(吉田記念テニス研修センター)に車いすテニスプログラムがあった。それがなかったら、おそらくテニスそのものをやってなかっただろうと思います。

 本当にそれまでやってきた先人の選手たちや、その活動をサポートしてきた方々がいたからこそ、こうして最後に国民栄誉賞をいただけた。受賞式でも言いましたが、本当にそういった人たちの頑張りがここにつながったんだなと、心から思いますね。だからこの賞は、自分がもらったというよりは、そういった方々と一緒に受賞したという思いが何より強いです」

── 日本における車いすテニスの環境面、ということではどうでしょうか? まだ行政区によっては、車いすの使用を禁じているテニスコートも少なくないと聞きます。

「そうですね......もちろん車いすが使えるコートがもっと増えるほうがうれしいです。うれしいですが、それでも僕が車いすテニスを始めた30年前に比べたら、相当、使えるようになったと思うんですね。

 だから、使えないことを批判してしまう風潮はありますが、同時によくなってきたことを認めてあげなきゃフェアじゃないかな、とも思います。ひとつのダメなところを批判することで、10あるよくなったところを見ないというのは、アンフェアだというか。

 日本のなかでも車いすテニスができる環境がいろんな場所で増えてきて、全体としてはポジティブだと思うんです。たとえば、凱人は東海地区を拠点として強くなったし、結衣ちゃんは兵庫県ですよね。30年前は、選手が出てくるところといったら、ほとんどTTC(吉田記念テニス研修センター)だったんですよ、そこしかなかったから。

 逆に今は、TTCだけ見れば車いすテニス選手の人数は減っていると思います。でも、それは全国でできる場所が増えたからで、そういう見方をすれば、同じ現象でもポジティブにとらえられる。パブリックコートで車いすが使えることも大事ですが、民間のテニスクラブで車いすのレッスンが受けられる動きも、広まりつつあると思います」

── 関係者にうかがった時、そのような動きが広まった最大の理由は「国枝さんの存在」だと皆さん口を揃えます。ご自身がこのような変革の起点になったという自負はあるでしょうか?

「そのように言ってくださる方が多いというのは、うれしいですね。自分がこうやって活動したり、国民栄誉賞を受賞したことで、いわゆる一般のテニスと車いすテニスの垣根がまた低くなったのであれば、本当に受けた意味があると思います。

 パブリックのテニスコートであっても、車いす利用者がもっともっと受け入れられるようになってほしい。そういった施設が増え、トイレなどのバリアフリーの問題も改善していこうみたいな流れになると、賞の意味があるなと思います」

── 最後にうかがいます。引退会見時で「今後は未定」とおっしゃっていましたが、今は何か見えてきたでしょうか?

「テニスを離れてから、バスケットボールや水泳など、いろんなスポーツを始めたんです。改めて『自分はスポーツが好きなんだな』って感じました。テニスでしか満たされない欲もあるかもしれないけれど、自分のやりたいことの欲には、素直に従いたいなって思っています。

 そのなかで、もう少し英語力をつけていくと、視野もできるフィールドもより広がるなということは、少し見えてきています。なので今は、いろいろと充電中。いつか出力する時のために、力を蓄え、自分のレベルを上げているところです」

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 奇しくもというべきか、あるいは必然か。国枝さんが9度の優勝に輝き、今回イベントのために訪れた飯塚市開催のジャパンオープンは、日本で最も古い歴史を誇る車いすの国際大会だ。

 産声を上げたのは、国枝さんの誕生翌年の1985年。その第2回大会を訪れて感銘を受けた吉田宗弘・和子夫妻が、吉田記念テニス研修センターに車いすプログラムを盛り込んだ。

 先人たちの意志を受け継いだ国枝さんは、その20年のキャリアで、日本のみならず世界の車いすテニスシーンをも変えてみせた。

(了)


【profile】
国枝慎吾(くにえだ・しんご)
1984年2月21日生まれ、千葉県柏市出身。9歳の時に脊髄腫瘍による下半身麻痺のため、車いすの生活となる。2007年に史上初の車いすテニス男子シングルスの年間グランドスラムを達成するなど、ずば抜けた「チェアワーク」を武器に世界の頂点に君臨。グランドスラム優勝50回(シングルス28回、ダブルス22回)は男子世界歴代最多。パラリンピックではアテネ〜東京の5大会で金メダル4個(シングルス3、ダブルス1)獲得。