2023.1.16/東京都千代田区のプロフェッショナルバンク本社にて

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 【東京・内幸町発】兒玉さんの前職、パソナの創業が1976(昭和51)年、そして人材派遣という雇用・就労形態を可能にした労働者派遣法の施行が1986(昭和61)年。つまり、人材業界の歴史は昭和末期に始まったと見ていいだろう。その半世紀足らずの短い歴史の間に、日本は激しい経済の浮沈を経験してきた。人材業界に飛び込んだ兒玉さん自身も、おそらくさまざまな浮き沈みを経験しているはずだ。でも、「人が好き」で「陰を見るより、日向を見よう」という性格が、この仕事に打ち込む原動力になったように思える。「労働力」を扱うのではなく「人」と向き合うビジネスだからだ。

(創刊編集長・奥田喜久男)

●海外に出たい一心で

就職先企業を選択する



 兒玉さんは、新卒時に当時のテンポラリーセンター(現・パソナグループ)に入社されていますが、当時から人材ビジネスに着目しておられたのですか。

 いいえ、実は海外に出たい一心で入社したんです。人材業界に限らず、海外に多くの拠点を持っている他業種の会社も視野に入れていました。当時は、一日でも早く海外に駐在させてくれる会社はないかと就職活動をしていたんです。

 それでパソナを選ばれたと。

 私は1987年4月の入社ですが、前年の86年に労働者派遣法が施行され「人材派遣って何だろう?」と関心を持ったのがパソナとの出会いです。この年、そのパソナが一気に海外10カ国に事業展開したため、そんなにたくさん拠点があるのなら早く海外に出られるだろうと思って入ったんです。だから、あまり褒められた話ではないんですよ。

 大学での専攻は?

 外国語学部の英語学科です。

 なるほど、それで海外に出たいと。英語を好きになったきっかけは何だったのですか。

 中学生の頃、洋楽を聴いて英語が好きになりました。まだレコードの時代ですが、中学生にとっては高価でなかなか買えないので、貸しレコード屋で借りたLPをカセットテープにダビングし、歌詞カードと訳詞カードをコピーしたりしていましたね。

 どんなミュージシャンの曲を聴いていましたか。

 世代的には少し上ですが、友達のお兄さんなどの影響で、ビートルズを聴くことが多かったですね。だから、英語の勉強はまったく苦にならなかったんです。

 それで、実際に海外に出られたのは?

 入社して以来、ずっと海外に出たいと言い続けていたのですが、90年2月、入社3年目の最後にオーストラリアに赴任することができました。

 願いがかなったのですね。

 はい。そのときはうれしかったですね。私が立ち上げに参加したオーストラリアの拠点は現地の人材会社に50%出資する形のジョイントベンチャーで、人材派遣をやろうと意気込んで行ったのですが、これがなかなかうまくいきませんでした。人材派遣の場合は私たちが雇用主になるわけですが、いわゆる白豪主義的な考えからアジア人に雇われることが忌避されてしまったわけです。

 90年代になっても、そういう空気は残っていたのですね。

 でも当時のオーストラリアは、輸出入ともに相手国の1位は日本だったんです。だから、日本なしにはやっていけない状況にあり、そうそうたる大企業の国際部の中に「日本チーム」をつくる動きが進んでいました。そこで、そうした企業向けに人材紹介の事業をするようになったのです。

 ところがその3年後、バブルが弾けたことにより、現地に駐在していた全員が東京に戻されました。撤退せざるを得なかったのです。

●オーストラリアで実感した

「社会をよくしたい」という若者の志



 3年間、オーストラリアに駐在する中で、何か得たことや感じたことはありましたか。

 人材紹介の事業で、国営のカンタス航空で日本語のできるオーストラリア人CAの募集をしたことがありました。当時のオーストラリアは日本なしでは立ち行かないとお話ししましたが、この時期、カンタス航空は日本便を増便させようとしていたのです。けれども、日本航空や全日空がすでに就航しており、その2社に伍していくためには日本語に堪能なCAがどうしても必要でした。

 日本人客は、JALやANAを選びがちですものね。

 それでこのとき、朝から晩までCAの面接をしていたのですが「あなたの人生の究極の目的は?」とたずねると、7割ほどの人が「社会をよくしたい」と答えるのです。

 7割ですか?!

 日本語を学ぼうとする人のレベルは高く、個人の社会との関わりや国際交流などを大事にするお国柄とはいえ、本当にそう思っているのかと、少し斜に構えて話を聞いていました。でも、口先だけでなく、週末にはボランティアなどに真剣に打ち込んでいるんです。当時の日本の若者は私を含めてバブルでだいぶ浮かれていましたから、その彼我の差を実感しましたね。

 いまはバブルなど遠い昔の話で、生活そのものの様相もだいぶ変わってしまいましたが、兒玉さんはいまの若い人たちの傾向をどう捉えていますか。

 いまの若い人は、できないことをできるようになりたいという「成長願望」が強いですね。その時期を過ぎてひととおりのことができるようになると、それぞれの目標やゴールに向けた「達成願望」が出てきます。そして、職業生活が折り返しの時期を迎える頃には自分の仕事の意義を問う「貢献願望」を抱くようになります。つまり、自分は会社に貢献しているのか、クライアントに貢献しているのか、社会全体に貢献しているのかという自問ですね。これは成功している人に共通するマインドセットといえますが、総じて昔に比べて高い志を持っている人が多いように思います。

 そういうお話を、就職前の学生に聞かせてあげたいですね。

 でも、いまの学生は就職面接の際「将来、自分はどうありたいか」という質問にしっかりと答えます。私の若い頃は「そんなことわかるはずがない」と思っていましたが(笑)。ただ、その半面、「正解」を求めがちな傾向もみられますね。

 ところで、子どもの頃はどんなタイプでしたか。

 父親が転勤族だったので小学校だけでも4校行っているのですが、割合すぐに友達と仲良くなるタイプでした。どちらかというと、おせっかいな性格だったかもしれません。

 何回も転校したことが、いいほうに転がったのかもしれませんね。

 その頃からか、「ごめん」という言葉よりは「ありがとう」と言ったほうが得だということに気づきました。感謝の気持ちを示すと、相手と仲良くなれるんです。たとえばエレベーターで扉が閉まらないように押さえてくれる人に「すみません」と言っても反応してくれませんが、「ありがとうございます」と言うと何か言葉を返してくれるものなのです。

 それは一つの極意ですね。まさに「ありがとう」という感謝の言葉は、相手にエネルギーを与えるキーワードとなると。

 若い頃、飛び込み営業をする際にも「ありがとうございます!」という言葉をかけて先方の会社に入っていきました。「すみません」と言ってしまうと「忙しいから、また」と断られてしまうのですが、「ありがとう」だと話を聞いてくれたのです。

 すごい! 魔法の言葉ですね。でも、口先だけでなく常に感謝の念を抱いているからこそ、相手に伝わるのだと思います。

 日本企業の復活はなかなか容易ではありませんが、兒玉さんには人材ビジネスの立場から、これからもこの国の産業のために尽力していただきたいと思います。

●こぼれ話



「ありがとう」

 以前親しかった編集長との会話が記憶に残っている。彼は、「人は13種類に分けることができる」という。そのうちの一つは妻だそうだ。ということは、12種類の人に分類できるわけだが、詳細までは開陳してくれなかった。残念に思った。が、それ以上に、どんな要素で分類するのかも聞きたかった。確かに、人は変わる。それを“進化”に言い換えると、すんなり納得する自分がいる。ここで進化の有り様について、高名な人の進化話を綴ってみる。「令和」という元号の考案者とされる中西進さんだ。歴史学者の磯田道史さんとの対談録から紐解く。磯田さんの「万葉集でお好きな歌人は?」との問いに答えて中西さんの話は続く(口語文体を基調にして編集した)。

【中西さん】若いころはね、大伴家持。物足りなくなって、柿本人麻呂。頑張ろうと思う頃には高橋虫麻呂。くたびれると、山上憶良。もうちょっとくたびれると、旅人、そう今にすると、大伴旅人。

【磯田さん】やはり旅人ですか(と嬉しそう)。

 中西さんは、これだけの進化を一気に語る。お年のせいもあって、聞きにくいので聞き耳を立てる。あっという間にこの進化話は終える。もっと詳しく進化の過程について聞いていたいと思った。さて、万葉の歌人で5人。前出の分類からすると、あと7種類ある。人にはさまざまな特徴がある。職業的な要素、企業的な要素、役職的な要素、年齢的な要素、地域的な要素、お国柄もある。血液型は眉唾的だが話題としては興味津々だ。

 今回登場していただいた児玉彰さんは人材業界の創業経営者で、還暦を迎える。見るからに健康そうで成功者の雰囲気が伝わってくる。経営ビジョン、理念、事業計画、行動規範、企業文化の面から、完成している。この間20年だ。将来を見通すと事業承継が気になるところだが、児玉さんは言う。「今は10年先を見通せる企業などありません。策定できるのはせいぜい3年の中期経営計画までで、実際には3年先ですら読むことは難しい時代です」。人材ビジネスは経営そのものに直結するので、児玉さんの実感には重みがある。そんな児玉さんから思わぬことを学んだ。相手と仲良くなるキーワードは「すみません」ではなく「ありがとう」。このひと言は万葉の人々とも共通しよう。

 まずは、「ありがとう」からすべての事を始めよう。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。