「1万円で足りるかな？」飲み会で必ずタクシー代を女性に渡す男。ある日、それを断られて…
スマートウォッチが全盛の今、あえてアナログな高級時計を身につける男たちがいる。
世に言う、富裕層と呼ばれる高ステータスな男たちだ。
ときに権力を誇示するため、ときに資産性を見込んで、ときに芸術作品として、彼らは時計を愛でる。
ハイスペックな男にとって時計は、価値観や生き様を表す重要なアイテムなのだ。
この物語は、高級時計を持つ様々な男たちの人生譚である。
▶前回：「何がまずかった？」彼女を初めて家に呼んだ翌日、女と音信不通に…。彼が犯した過ちとは
Vol.12 保険代理店経営・誠（43歳）の出会い
「やっぱり西麻布は24時からが本番だよな」
会員制バーの個室で、誠は、経営者仲間の男性や美女たち8人でシャンパンで乾杯をした。
誠は10年前から、法人向けの保険代理店を経営している。
地元の千葉で創業し、業績が上がったことで六本木に会社を移転した。
移転当初は、港区特有の雰囲気に馴染めなかった誠も今ではすっかり“港区の住人”だ。
派手な宴で盛り上がるなか、今日初めて会った聖人が、誠の時計を見ながら言った。
聖人は、IT関係の経営者で誠より一回りほど若い31歳だ。
「誠さんの時計、すごいですね。フランク ミュラーですか？」
「そうだよ“フランク ミュラー ヴァンガード ダイアモンド”。知り合いの時計店で買ったんだ」
フェイスの周りに贅沢に配されたダイヤモンドや個性的で遊びの効いたデザインが、誠は気に入っている。
「でも僕は、シンプルなデザインの時計が好きだけど…」
聖人が呟いた言葉に、奥で静かに飲んでいた梨花という女性が反応した。
「…それってダサくないですか？」
「梨花ちゃん、ダサいって…、まさか俺の時計のこと？」
「あっ、違います。誠さんじゃなくて、聖人さんに“ダサい”って言ったんです。だって“すごいですね”って皮肉ですよね？内心バカにしているように感じたので」
梨花のひと言で、聖人が放った言葉の真意に誠は気づく。
― もしかして、俺って他の経営者仲間にバカにされてるのか？
聖人は、気まずい空気に耐えられなくなったのか「すみません」と謝って帰っていった。
― それにしても、梨花って物怖じしない女性だな、普通は空気を読んで適当に合わせるのに。
誠は、改めて今日初めて会った彼女を見つめる。
ニットに、デニムパンツとスニーカーという、カジュアルなファッションに身を包んだ梨花は、20代前半くらい見える。
周りの気合が入った女性たちのファッションに比べると、彼女は異質だ。
「私のせいで空気悪くなっちゃいましたね。すみません」
店内にいた他の客に謝り、梨花はお金を置いて去っていった。
「あ、待って！」
誠は梨花を追いかけて、西麻布の交差点まで走った。
「はぁ、梨花ちゃん歩くの早いね。このお金は受け取れないよ」
「このお金は、場の雰囲気を悪くした迷惑料なので受け取ってください」
誠は、若いのに芯があり、気風の良い梨花に感心する。
「これはタクシー代に使って。嫌な気分にさせちゃったね。お詫びに、今度2人で飲もうよ」
「…いいですよ」
梨花とLINEを交換し、誠はまた飲み会へと急いで戻る。だが、会場の空気はすでに冷え切っていた。
そしてテーブルには、高額な会計の伝票が一枚置かれていた。
誠は、伝票を手に取り金額を確認する。
「高いな」と思いつつも、誠はブラックカードで会計を済ます。そして、女性陣にはタクシー代を1万円ずつ渡した。
普段であれば、このあと行きつけのバーへ繰り出す誠だが、この日は次へと行く気になれず六本木のタワマンへ帰宅した。
ワインセラーから取り出したヴィンテージワインを手に、エルバイタリアのレザーソファに誠は腰を下ろした。
そして、ローテーブルに置かれたクレジットカードの明細の山と、銀行からの借り入れの督促状を見つめ、ため息をついた。
誠の連日連夜の派手な生活は、限界がきていた。
会社の業績が下がり、段々と金銭的に余裕がなくなっているにもかかわらず、誠は派手な生活から抜け出せずにいた。
ワインを飲みながら、広いリビングの大きな窓から、明かりの消えた東京タワーを見つめる。
そのとき、誠は会社もプライベートも充実していた、東京に出てきたばかりの頃のことを思い出していた。
― あの頃見ていた東京タワーはもっと輝いて見えていたのに。
テーブル上に無造作に置かれたお気に入りの時計を見る。
― この時計を手に入れたときは、何でもやってやるってエネルギーに満ちあふれていたな。
感傷に浸りながら、誠は明かりの消えた東京タワーをいつまでも眺めていた。
◆
1週間後。
誠は、西麻布『焼肉テン』の個室で、梨花と向かい合っていた。
この日の梨花は、仕事帰りらしくノーカラーのジャケットに膝丈のタイトスカートという、コンサバないでたちだった。
先日のカジュアルなスタイルとは違う、大人な雰囲気に誠は思わずときめく。
「改めて、今日は楽しく飲み直そう！シャンパンでいいかな？」
「はい。頂きます。先日は空気を悪くしてすみませんでした」
梨花は、申し訳なさそうな表情で謝る。
「いや、気にしないでください。でも、梨花ちゃんってひょうひょうとしてるよね。この間の飲み会にいた他の子たちとも雰囲気違うし。一体何者なの？」
「実は先日の飲み会は友人に頼まれて、人数合わせに連れていかれたんです。それにしても聖人さんたち、感じ悪かったですね」
そう言いながら、梨花は誠の腕時計に視線を送る。
「昔、私もフランク ミュラー着けてたんです」
「意外だな。ブランド物とか興味なさそうなのに…」
「…驚かないでくださいね。私、数年前まで派手に遊んでいたんです」
梨花は大学時代にバイトしていた接客を伴う飲食店で、裕福な年上の男性に見初められた。
彼に甘えて、ブランド品を買ってもらったり、高級マンションの家賃を払ってもらったりと派手な生活をしていたという。
目前にいる梨花からは想像できない意外な過去に、誠は衝撃をうけた。
「どうして、その生活をやめたの？」
「私、地元が東北の田舎なんです。そこでの暮らしがイヤで大学への入学を機に上京しました。でも、大学を卒業してプラプラしていたころに、地元に帰ったんです。
そうしたら、地元の友人たちは、結婚して子どももいたりしてすごく幸せそうに見えました。身の丈に合った生活をしてるっていうんですかね。
それを見て、目が覚めました」
梨花は東京にすぐ戻り彼に別れを告げた。そして夜の世界も卒業し、必死に就職活動をしたと語った。
話が一段落すると当時を懐かしむような表情で、梨花は、また誠の時計を見つめる。
「私は、今度は自分で稼いだお金で高級ブランド品を身に着けたいなって思ってます。だから、成功して自分のお金で好きなものを身に着けている誠さんは素敵だと思います。
誠さんに、その時計は似合っています」
梨花は、そう言って笑った。
フランク ミュラーは、他の高級時計とはひと味違う独創的なデザインが特長の時計だ。
それゆえ、世界のセレブにも愛好家は多い。
誠も輝きを放つダイヤモンドに魅了され、この時計を愛していた。
だがあの日以来、本当に自分に似合っているのか自信が持てなくなっていた。
― 今の俺に足りないのは、余裕だったか。
それに気づいた誠は、誰にも話さない胸の内を、梨花に明かしていた。
「俺、東京って、見栄をはって生きなきゃダメな街だと思ってるんだ。弱さを見せると付け込まれるって。
東京暮らしも長くなってきて、自分の本来の姿を見せないように生きるのに慣れた気がしてたけど、最近はそんな毎日に疲れてきた気もするんだ」
「なんだか…その気持ちわかります。でも弱いところを見せても自分から離れていかない人たちは、東京にもいますよ」
梨花はニコッと笑う。
― 俺には、自分が落ち目になっても、離れていかない人はいるのだろうか？
そんなことを誠が考えていると、「明日も仕事が早いのでそろそろ…」と梨花が帰宅の準備を始めた。
いつものように誠がタクシー代を渡そうと、1万円を差し出すと梨花は拒んだ。
「お金はいりません。そのかわり、またぜひ誘ってください。今夜は電車で帰ります」
梨花は、颯爽と店を出て行った。
誠は梨花と別れ、西麻布から六本木の自宅までの道のりを歩く。
六本木交差点で信号を待つ間、眩い光を放つ時計に目を落とす。
フランク ミュラー ヴァンガードは、ちょうど12時を指すところだ。
と同時に、明かりがパッと消える東京タワーが目の端に映る。
自分の時代が終わったことを告げる合図のように、誠は感じた。
― 俺も、そろそろ現実と向き合わなきゃな。
誠は、会社がうまくいっていないこと、私生活も金銭的に限界がきている現実を見ないようにしていた。
だが梨花の話をきっかけに、ようやく自分と向き合う覚悟ができた気がする。
誠が愛用するフランク ミュラー ヴァンガードのコンセプトは、新たな“時”。
いまこそ新たな時だ…。そう、時計が語りかけているように誠には感じた。
― 少しの間、華やかな生活とはおさらばだ。家も引っ越して、車も売ろう。でも…この時計だけは、大切にしたい。
梨花は、変わることを恐れないフラットな生き方と、自分らしくいることの大切さを誠に気づかせてくれた。
若い奴にバカにされようが構わない。俺はこの時計が好きなんだ。
改めて時計に目を落とすと、フランク ミュラーが12時5分を指していた。
その煌めきが、誠の新しい門出を照らしてくれていた。
▶前回：「何がまずかった？」彼女を初めて家に呼んだ翌日、女と音信不通に…。彼が犯した過ちとは
▶1話目はこちら：「いかにもって感じ」高級時計を愛用する男に女性が痛烈な言葉を浴びせたワケ
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