「君は、誰とも幸せになれない」人生楽勝だと思っていた東大出身女を苦しめた、男の言葉とは
「海外で、挑戦したい」
日本にいる富裕層が、一度は考えることだろう。
そのなかでも憧れる人が多いのは、自由の街・ニューヨーク。
全米でも1位2位を争うほど物価の高い街だが、世界中から夢を持った志の高い人々が集まってくる。
エネルギー溢れるニューヨークにやってきた日本人の、さらなる“上”を目指すがゆえの挫折と、その先のストーリーとは？
現状に満足せず、チャレンジする人の前には必ず道が拓けるのだ―。
Vol.3 留学で結婚が遠のいた女
玲奈（31歳） 大手弁護士事務所所属（NYで研修中）
「そんなんじゃ玲奈は、この先も誰とも結婚できないし幸せになれない」
マンハッタンのミッドタウンイーストにあるアパートメントの一室で、昨日、FaceTime越しに言われた“婚約者の捨て台詞”を思い出した。
彼は私より一回り年上のバツイチ。同じ大手法律事務所で働いている弁護士だ。
仕事ができて大人の余裕があり、私から先に好きになった。
ライバルが多いなか、後輩の立場を利用して、徐々にアプローチした。だから、付き合えることになったときは、とても嬉しかった。
それから3年付き合ったタイミングで、私は、事務所の制度を利用してニューヨークに留学することになった。
“NY州の弁護士資格”を取得し国際弁護士になるためだ。
当初は、1年間のLL.M .（法学修士）を終え資格を取得した後、帰国して、そのタイミングで彼と結婚する予定だった。
でも、私は、こっちで勉強し始めてもっと学びたい気持ちが強くなり、そのまま日本に帰るのが惜しくなった。
OPT制度というニューヨークで1年間研修できる機会を利用して、こっちで研修をしてみたくなったのだ。そこで、日本の事務所の所長にお願いして、こちらでの研修を受ける許可をもらった。
そして、事後報告で悪いと思いながらも婚約者にもう1年待ってほしい、と伝えたのが昨日。
そこで喧嘩になったのだ。
「君はいつも仕事を何よりも優先するけど、この先、子どもが産まれたら、そんな姿勢じゃ困る」
前の奥さんとは子どもができなかった彼は、子どもを強く望んでいた。でも、それはあくまでも“妻が育児をする”ことが前提だ。
「2人で協力すれば良いじゃない。なんとかなるよ」
「家族の幸せを一番に考えられない君とじゃ、子どもが生まれてたらやっていけない」
彼は冷たく言い放つ。
事後報告をしてしまった自分も悪い。でも、これは大きなチャンスだった。
私はつい「別れるしかないかもね」と口にした。
すると彼はあっさりと同意した。
そして、最後に彼から言われたセリフが「君は、誰とも結婚できない」という悲しい言葉だった。
― どうしてあんなこと言われなきゃならないのよ！
怒ってはみたものの、婚約するくらい好きだったから、簡単に気持ちの整理もつかない。
私は今の状況に目を向けたくなくて、仕事の資料を隅から隅まで読み込んだ。
半年後
私は、NY Bar Exam（NY州の司法試験）を無事にパスし、弁護士事務所で研修をしながら、プロボノ（専門性を活かしたボランティア）活動を始めた。
NY州の弁護士になるためには、司法試験に合格するだけでなく、要求事項がいくつかある。その一つが、このプロボノ活動だ。
あの後、婚約者と何度か話し合ったが、彼は私の仕事への情熱を理解してくれず、結局別れた。
女性がキャリアを積むことを、頭では理解している男性は多い。
だが、実際、妻となる女性がキャリアを積むことを“本当の意味”で応援できる男性は少ない、という現実を突きつけられた。
彼は今、同じ事務所の秘書と仲良くしているらしい。私がこちらに来た直後から2人は親密だったと聞いた。
かなり落ち込んだが、仕事に夢中になっているうちに少しずつ寂しさが薄れてきている。
でも、最近、私の心の拠り所でもある仕事でも壁に直面している。
― さっきの会議、ああ言えば良かった…。
帰国子女でもなく独学で英語を習得した私は、細かいニュアンスを伝えたり日本語のように言いたいことを表現することに苦戦していた。
日本では、言葉で場の雰囲気を操るのが得意だった私が、今はそのスキルが活かせず、上司から「消極的」だと評価された。
そのうえ、日本では“先生”と言われてバリバリ仕事をしていたのに、ここでは資格も発言力もないただの研修生。
― 大丈夫。きっとすぐに周りの信頼を勝ち取ってやる。
そう自分を励ますが、簡単ではなかった。
正直、これまでの人生は順調そのものだった。
現役で東大に合格し、在学中に司法試験に合格。大手弁護士事務所に入り、そこでも成果を上げた。
彼氏とも婚約し、若くして留学制度の対象となった。
人生努力さえしていれば楽勝だと、本気で思っていた。
けれどニューヨークに来てから、私の高く伸びた鼻っ柱は見事に折られた。
恋人に愛想をつかされ、仕事では悪戦苦闘の日々。
「はぁ…」
大きなため息をついた時、喉の奥に違和感を覚えた。
幸い今日は土曜日。寝たら治るとベッドに潜り込むが、その夜40度近く発熱した。
コロナの抗原テストをしたところ、陽性が出た。
「気をつけていたのに…」
事務所や濃厚接触者に連絡を入れ、急ぎの仕事は他の人にお願いした。
朦朧としながら必要なことを終えた後、気絶するようにベッドに倒れ込む。
咳で細切れにしか眠れず、数日間寝込んでも症状は良くならない。
食糧も薬もないことに気がつき、ネット注文をしようと試みるも、普段使っていなかったため、カードや個人情報登録の時点で頭痛がひどくてできなかった。
暗い部屋の中で「このまま1人で死ぬのかな…」と悪い想像が頭をよぎる。
― 誰かに頼もうか…。でも誰に…？
マンハッタンには仕事仲間や知り合いはいる。でも、こんな時に頼れる人が思いつかない。
弱った私の心は、鍵をかけて胸の奥底に埋めていた元彼の言葉を呼び起こした。
― 誰とも幸せになれない。
世界から取り残されたような孤独と死に対する恐怖で、身体が硬直する。
その時、ベッドの脇に置いてあるスマホが、光っているのに気がついた。
確認すると、雅也さんから何件かテキストと電話が来ていた。
「もしかして出張中ですか？何日も連絡がつかないので、少し心配になって…」
その文面を見た途端、なぜだか涙が溢れ出る。
ニューヨークに来てから、私はずっと気を張っていた。
世界中から人が集まるここで、埋もれてしまわないように必死だった。
さらにヘイトアジアのニュースを聞く度、弁護士として守りたいという気持ちと、自分もいつその対象にされるかという恐怖が、常に頭の片隅にあった。
― ここまで来たんだ、負けるもんか。
嫌な目にあっても、気力で何とか乗り越えてきた。でも健康面がやられた今、私の心までヤワになってしまったみたいだ。
「大丈夫です。ちょっとコロナにかかってしまって」
返信すると、すぐさま電話が来た。
「大丈夫ですか？医者には？必要なものは家にありますか？」
焦ったように必死な彼の口調に安心感を覚える。
何と答えたか覚えていないが、気がつけばドアの前に水や解熱剤、その他ヨーグルトや果物に5種類のスープが置き配されていた。
スマホのメッセージを見ると「勝手に送らせてもらいました。他に必要なことがあればいつでも連絡ください」と残されていた。
スープについては「どれが食べられそうかわからなかったから」と。
「ふふ…頼みすぎ」
“私を心配してくれている人がいる”そう思えた途端、張っていた糸がふっと緩んだ。
頼んでくれた『Chicken Noodleスープ』を温め直して飲んでみる。これまで何も受けつけられなかった体に、栄養が染み渡っていく。
気持ちが楽になったおかげか、それから泥のようにぐっすりと眠り、徐々に回復へと向かった。
◆
1ヶ月後、完治した私は、お礼を込めて雅也さんを『La Grande Boucherie』に食事に誘った。
私を見た彼は、心からホッとしたように微笑んだ。
食事を楽しみながら、話の流れでアメリカの法律の話になった。
「アメリカって、驚く法律がありますよね。ピクルスは飛び跳ねる物でないとダメ、とか、耳の中にコインを入れてはいけない、とか」
「そうそう、州によって様々ですよね。目隠しをして運転してはダメとか犯罪者は防弾チョッキを着てはダメだとか」
雅也さんは可笑しそうにケラケラ笑って言った。
「法律ですら、州や市が変われば色々な価値観があるんだから、各個人なんてもっと多種多様な考え方がありますよね。
こっちに来て色々なバックグラウンドがあってもいいって思えるようになったし、そんな人たちの価値観に寄り添って、1人ひとり問題を解決して幸せにする弁護士さんって、すごいですよね」
何気なく言った彼の“各々価値観が違ってもいい”という言葉が、なんだか胸にスッと溶けていった。
― 誰とも幸せになれない。
私を苦しめていた元婚約者の言葉。
確かに、私は彼とは幸せになれなかった。
でも雅也さんの言う通り、人の価値観はそれぞれだ。“幸せ”の価値観だって。
私は私が思う“幸せ”を掴めばいいのだ。
彼がお手洗いに立った時、スマホで仕事のメールをチェックすると、担当しているクライアントから「相談がある」とメッセージが来ていた。
彼は初めのミーティングで、資格を持つ弁護士と共に同席した私を“アシスタントだから”と目も合わせてくれなかった。
それが今はメールのTo宛に、私だけの名前を入れていたのが嬉しかった。
― 大丈夫、私はこれでいい。
私はクレームブリュレと共に、“今ここにいられる甘美な幸せ”を堪能した。
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