キリンの戦後最大のヒット商品「一番搾り」をはじめ、「ハートランド」「淡麗」「氷結」などのヒットを次々に手掛けた天才マーケター・前田仁。権謀術数が渦巻く巨大企業内のパワーゲームや子会社への左遷などの逆境の中でも、ブレずに信念を貫き続けたその波乱万丈のマーケター人生は、大ヒットドラマ「半沢直樹」をも彷彿とさせる――。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「半沢直樹」のような波乱万丈のサラリーマン人生

キリンの戦後最大のヒット商品「一番搾り」をはじめ、「ハートランド」「淡麗」「氷結」などのヒットを次々に手掛けた天才マーケター・前田仁(ひとし)。彼のサラリーマン人生は逆境の連続だった。

権謀術数が渦巻く巨大企業のパワーゲームの中で自分の信念を貫き、数々のヒットを生み出した前田の生涯を、『キリンを作った男』という1冊の評伝にまとめたところ、読者から「半沢直樹のような物語」という声が上がった。

自社の看板商品ラガーを叩き潰すというコンセプトで開発したハートランドをめぐる営業部との対立、「キリンのラスプーチン」との社内バトル、子会社への左遷……。ヒットメーカーである上、相手が役員だろうが上司だろうが平気で意見を言う前田はどうしても煙たがられ、攻撃を受けることも多かった。

一言居士(いちげんこじ)を貫いたヒットメーカー・前田仁は、戦後日本の最強企業の中で何と戦い、いかに立ち回ったのか――。

つねに時代の半歩先を読んだ前田仁の、ときに「半沢直樹」を彷彿させる波乱万丈のマーケター人生を紹介したい。

■自社の看板商品「ラガー」をぶっ潰す

キリンがハートランドを発売したのは、バブルが始まる直前の1986年秋。麦芽100%の生ビールで、専用グリーンボトル(500ml)が特徴だった。

「実はハートランドは、キリンの主力商品だったラガーをぶっ潰すために、開発された」(キリン元首脳)。

キリンは前年の85年まで、14年連続してシェア(市場占有率)6割超を記録していた。その大半を占めたのがラガーだった。キリンにとって、いや戦後の日本の産業界にとって、ラガーは成功体験そのものだった。ハートランドの開発を主導した前田仁、さらに彼の上司であり後ろ盾だった桑原通徳マーケティング部長は、ハートランドをもってラガーを破壊しようと企てたのだ。

なぜ、主力商品をぶっ潰そうとしたのか。

ラガーに代表される「少品種大量生産」は、当時の産業界では常識だった。一品を大量につくって売った方が、メーカーは利益を得やすい。しかし、消費者そのものの多様化が進行しているため、「一品を大量生産・大量消費する時代は終わり、これからは心を動かす製品の時代に移る」と、前田は読んだのである。

写真提供=キリンホールディングス
つねに時代の半歩先を読んでいた前田仁氏。 - 写真提供=キリンホールディングス

■保身と栄達だけを目論む魑魅魍魎たち

もう一つ、ラガーに安住したガリバー企業の体質を変えようとする目的も、ハートランドにはあった。

6割超のシェアを持つキリンは、努力や挑戦をしなくとも勝ち続けていた。この結果、会社にとって最も重要である“活力”が喪失されていたのだ。組織は奢り、みな内向きになり、何より変化を嫌った。

勝利しか知らないキリンは、“勝ちながら弱くなっていた”。変わることができないという、決定的な弱さを内包していたからである。

特に「本社は自身の保身と栄達だけを目論む魑魅魍魎(ちみもうりょう)で溢れていた」(当時30代だった元役員)という。彼らは超高学歴であり、給料も高かったが、働かないオジサンたちだった。

「どんな世代でも、会社という組織にあぐらを掻いている奴は敵だ。内向きの発想で人事にうつつを抜かし、往々にして本来の目的を見失う。そういう奴らが会社を腐らせる」(『ロスジェネの逆襲』池井戸潤著、文藝春秋)

大企業の病理を部下に説いたこの半沢直樹のセリフは、当時の前田の心境と重なるところがある。

■社内で圧倒的な力を持つ営業部との対立

ハートランドビールは、「量ではなく質を追求し、コアなファンにだけ愛されるビール」として、「東京限定」で発売しようと前田は企画した。価格はラガーと変わらないが、いまでいうクラフトビールのような尖ったビールを目指す。ところが、社内で圧倒的な力を持つ営業部が、東京限定発売に反対する。「神奈川や埼玉の酒屋から不満が出て、市場が混乱する」と。

そこで、前田が目を付けたのがテレビの料理バラエティ番組。番組用のビールとして86年9月に登場する。ネットのある現在と違い、当時テレビの影響力は絶大だったのだ。翌10月には現在の六本木ヒルズの建設予定地に直営ビアホールをオープン。この店でだけ提供するハウスビールとして展開を始める。

ところが、ビアホールに人が押し寄せたため、営業部はハートランドを缶ビールにして全国発売してしまう。前田は「量より質」を目指したのに、ラガーと同様に量を追ってしまったのだ。しかも、翌87年3月にアサヒビールが「スーパードライ」を発売してヒットさせると、対抗商品にされてしまう。やはり営業部によってだった。

結局、“打倒ラガー”は叶わなかった。それでも、キリンが80年代に発売したビールの中で、いまでも継続販売しているのはハートランドだけである。

■「キリンのラスプーチン」との社内コンペ

89年に入ると、大型商品「一番搾り」の商品開発を、前田はスタートさせる。ハートランドプロジェクトの後の88年頃から、前田は社内から商品開発を担うマーケターとなりうる若手人材の発掘を始めていた。

一番搾り開発では、工場の醸造技術者、若手営業マンが実質的にスカウトされる。いや、社内だけではない。ハートランドで培った社外人脈を駆使し、大手広告代理店の人選から、外部のアートディレクターやデザイナー起用まで、一番搾り開発では前田が決めていった。

だが、この後に前田にとっては屈辱的な試練が待っていた。

「スーパードライに対抗する大型商品は、いまのキリンには必要不可欠。よって、企画部でもマッキンゼーとともに大型新商品を開発する」

企画部から突然、このような提案がなされた。新製品開発はマーケティング部の仕事である。企画部の仕事は、組織・業務改革、会社全体の予算管理、さらに戦略立案など。その企画部、本来は黒衣のはずの外部コンサルティング会社マッキンゼーを巻き込み、具体的な商品開発を始めるという。

黒幕は、「キリンのラスプーチン」と呼ばれた企画部門の役員。「切れ者」「策士」と評される一方で、「米欧への出張に料金の高いコンコルドを使う」「他人の手柄を平気で横取りする」「『天皇』と称された本山英世社長(当時)に取り入って、虎の威を借りている」などとも言われた御仁だった。

結局、前田チームと企画部・マッキンゼーとを競わせ、両者がつくった新製品のどちらかを発売するということになる。

相手は大物の役員だったが、前田とすれば面白いはずはない。しかし、周囲に気にするそぶりを見せなかった。もともと前田は、自分の感情を表に表すタイプではなかった。特に、「他人に自分の弱みを見せない男だった」(キリン関係者)という。

前田チームが開発した一番搾りは、仕込み工程で得られた糖化液(もろみ)をろ過したとき最初に得られる、「第一麦汁」だけを使うビール。通常は、もろみに再度お湯を加え「第二麦汁」を得て、両方を使う(割合は第一が7、第二は3)。

第一麦汁だけを使えば渋みのないピュアな味を実現できる。しかし、高コストとなってしまう。このため、生産部門から猛烈な反対を受けるが、前田は半ば強引につくり上げていく。

一方、企画部マッキンゼー連合がつくったのは、ドライタイプのビール。パッケージデザインは、我が国広告史に名を残す超大物デザイナーが手掛けていた。

89年年末、社内コンペが実施される。複数回の消費者調査や社内テストの結果、一番搾りは圧勝する。

■出る杭は打たれた…突然の粛清人事

「前田さん、製造部技術課からマーケ部に本日付で配属されました坪井純子と申します。どうぞよろしくお願いします」
「実は俺、もうすぐ出るんや」
「エッ……」

現在、キリンホールディングス常務執行役員・人事総務戦略担当の坪井純子が、前田仁と初めて言葉を交わしたのは90年3月21日。前田の異動に、坪井は驚きを覚える。

一番搾りは、90年3月22日に発売された。流通からの仮受注、さらには市場調査から、ヒットするのは確実と発売前にわかっていた。なのに、前田は左遷されてしまう。

異動先は、規模の小さいワイン部門。花形である新商品開発のリーダーを外され、存在感の薄いワイン部門へ。誰の目にも「左遷」と映る人事だった。前田は40歳になったばかり。しかも彼はワインの門外漢。急な発令だった。

成果を上げたのに、なぜこんな人事が起こるのか。

「(コンペに負けた)ラスプーチンが、前田さんへの嫉妬から人事部を動かして前田さんを左遷させた」
「当時、営業部とマーケティング部は険悪な関係にあり、マーケ部で頭角を現していた前田さんを、営業部が切った」

どちらも事情に通じたキリン関係者の証言だ。が、いずれもはっきりした証拠はない。

ただし、もう一つ重要だったのは、前田の後ろ盾だった桑原である。このとき、常務大阪支社長だった桑原は、90年3月に3期6年の任期を終える本山に代わり、社長になるはずだったのが、なれなかったのだ。

スーパードライに押されたキリンは前年の89年、22年ぶりにシェア50%を割りこみ48.8%で着地する(ちなみにアサヒは24.2%)。これを憂いた本山は、1期2年の社長続投を決めてしまう。キリンは組織を重視する三菱グループの会社であるため、不規則なトップ人事は異例だった。

写真=時事通信フォト
前田氏が開発したキリンビールの「一番搾り」とライバルのアサヒビール「スーパードライ」 - 写真=時事通信フォト

桑原が社長になる芽は消えてしまい、突如として前田は飛ばされる。「出る杭は打たれた」形だが、桑原派の若手実力者が粛正されたとも言えよう。

当の前田は、左遷人事に対しても不平も不満も漏らさなかった。いつも通りに飄々(ひょうひょう)としていたそうだ。そればかりか、腐ることはなく独学でワインの猛勉強を始めていく。

しかし、さらに追い打ちをかける人事が、その3年後に前田を襲う。今度は子会社の洋酒メーカーへの出向を命じられたのである。

前田チームがつくった一番搾りは大ヒットし、スーパードライの勢いを止めていた。本来なら、その成果から実力を評価され、高い地位に抜擢されても不思議ではなかった。なのに、前田は執拗に外されていった。

いつも自然体な前田も、出向人事のときにはさすがにショックを受ける。同期入社で技術系の松沢幸一(後にキリンビール社長)と場末の飲み屋に入り、前田は言ったそうだ。

「キリンは、なんて酷いことをする会社だろう……」、と。

松沢は「やけを起こさず我慢してくれ。いつかきっと、会社が前ちゃん(前田)を必要とするときが来るから」と、慰めたそうだ。

■最年少部長として返り咲き

一番搾りの攻勢により、一時は勢いを失ったアサヒ。しかし、プロパー社長が誕生すると、94年頃からスーパードライに経営資源を集中させた“一本足打法”により再び盛り返し、シェアをアップさせていく。

気がつけば、キリンがアサヒに逆転されるのは時間の問題と思われた。

96年春にキリンの社長に就任した佐藤安弘は、発泡酒の商品化を就任時に決断する。社外秘で進められたプロジェクトだったが、遅々として開発は進まない。

にもかかわらず佐藤は、97年9月の記者会見で「発泡酒を98年早々に発売する」と発言してしまったのだ。“口を滑らせた”ようでもあった。

何もできていないのに、発売まで4カ月しかない。しかし、商品をつくらなければ、消費者からも株主からも厳しく指弾されてしまう。

「もう、あの男しかいない」

86年から97年までの12年間で、キリンは実に47もの新商品ビールを発売した。そのうち、現在でも販売しているのは4つ。最も売れたのが一番搾り、次に続くのがハートランドであり、いずれも前田の作品だった(ちなみに他の2つは、期間限定の秋味、プレミアムのブラウマイスター)。

97年9月末、前田はキリン本社に突然、呼び戻される。

しかも、約50人が所属する商品開発部(マーケ部)の部長として。このとき47歳。40代の部長は前田ひとりだった。

佐藤は実績のある前田に、発泡酒開発を託したのだった。

本社に復帰したときの前田の職能資格は副理事。本来、理事にならなければライン部長には就けない決まりだったが、佐藤は人事のルールを曲げて前田を登用する。基本給も成果給も一段高い理事に前田が昇格するのは、この半年後となった。

ワイン部門への異動から数えて7年半、前田の長い雌伏の期間が終わった。

■「淡麗」の大ヒットで名実ともに復活

最年少部長として本社中枢に復帰した前田には、再び結果が求められた。一番搾りのときのような。

結局、キリン初となる発泡酒「淡麗」は98年2月に発売され、大ヒットする。前田は大抜擢に、結果を出して応えたのだ。

当時を知るキリン関係者が解説する。

「部長の前田さんが、プレイングマネージャーとして一人ですべてやったから、短期間で商品開発できたのです。チームはありましたが、彼らは前田さんの手足でしかなかった。また、外部スタッフでも、一番搾り開発時と同じアートディレクターやデザイナーを前田さんは起用する。彼らは7年半の間に大御所になっていたけど、前田さんの元に集まってくれたのも成功要因でした」

また、別のキリン元幹部は指摘する。「マーケ部が発泡酒開発に苦戦していることを、前田さんは間違いなく知っていた。そこで、『自分ならこうつくる』という考えを、前田さんはある程度もっていた」。

実績という名の逆転ホームランにより、天才マーケター前田は名実ともに復活。その後も「淡麗」「氷結」「のどごし〈生〉」などキリンのヒット商品を数多く手掛け、キリンビバレッジの社長にまで上り詰める。

■マーケターは既得権益の破壊者

半沢直樹」のように、大組織のパワーゲームの中で、ブレることなく自身の信念を貫いた前田だったが、半沢と決定的に違うのは、対立した相手であっても前田は決して復讐をしなかった点である。

前田は後年、部下たちに次のような話をしている。

「マーケティングとは技術である。左脳の『論理』、右脳の『創造』、そして『適合』の3つの要素により成り立つ。右脳と左脳のかけ算で新商品だったり、新戦略は生まれる。

ただし、新商品や新戦略といった新しいものは、既存の何かを壊すことにつながる。このため、どうしても軋轢や戦いは社内で生まれてしまう。だからこそ、適合は求められていく。戦いで反対者をやっつけるのではなく、適合という形で、対立する向きもうまく巻き込んでいくのだ。3要素のマーケティング技術により、新商品のヒット、新戦略の推進は対立を生まずになされていく」

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

新しい商品をつくるマーケターは、どうしても既存勢力の標的になりやすい。既存勢力からすれば、既得権益の破壊者となってしまうから。しかも、マーケターは創造性を求められるため、自分を捨てた“イエスマン”にはなりにくい。

そもそも面従腹背の得意なヒットメーカーなど、どこの業界にもいないのではないか。

たとえ対立した相手であっても、前田が反撃をすることはなかった。それは、前田が常に見ていたのが、社内ではなく、「お客様」だったからに他ならない。

決して報復することなく、何事も受け入れ、ヒットを連発し結果を出し続けることで“倍返し”を果たした――。そんな私欲のない廉潔な男だったからこそ、いまも多くの部下たちから愛され続けているのだろう。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)