日本女子バレー界のレジェンド
大林素子インタビュー(2)

(第1回:中学1年の新人戦で1点もとれず。顧問の先生から「落ち込んでいるようだけど、そんな資格はない」>>)

 日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらう短期連載。第2回は、大林さんのバレー人生が「大逆転」した、日立の山田重雄監督に出した手紙とその後について聞いた。


日立、全日本で活躍した大林さん photo by「バレーボールマガジン」

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――大林さんのバレー人生を大きく変えることになった、中学時代の2つ目の出来事について聞かせてください。

「日立バレーボール部の監督を務めていた山田重雄先生に送った手紙がきっかけなんですが、送ったのは中学2年生の時ですから、1981年でしたかね」

――山田監督といえば、1974年の世界選手権、1976年のモントリオールオリンピック、そして1977年のワールドカップで「3冠」を成し遂げた名将ですね。Vリーグの前身の日本リーグでは日立を18回も優勝に導きましたが、どんな経緯で手紙を出すことになったんですか。

「当時、私は全日本でも活躍していた日立の江上由美さんのファンで、ファンレターを出そうと思ったんです。当時のバレー雑誌に日立バレー部の住所が掲載されていたんですが、なんと私の家から自転車で10分くらいの近さで。ますます気持ちが盛り上がりました。

 その雑誌には、選手へのファンレターが山積みになっている写真も載っていました。私は『ちゃんと手紙の返事がほしい』と思っていましたが、江上さんは特に人気が高かったので『読んでもらえないかもしれない』と不安になってしまって。だからといって他の選手に送ったら、もう江上さんのファンとは言えなくなる、といった変なこだわりもあったんです。本当に先輩方すみません(笑)。それで、『監督ならいいかな。ファンレターも少ないだろうし、読んでもらえそう』と考えて出してみたんです。山田監督すみません(笑)」

監督から電話「一度遊びにいらっしゃい」

――手紙はどういった内容だったんでしょうか。

「『日立が好きで、いつも応援しています。私は中学2年生で身長176cm、SJ(サージャントジャンプ=垂直跳び)は52cm。左利きです。どうしたらバレーが上手になれますか?』という内容でした。そして最後に、『p.s.選手のサインをください。江上さんのファンです』とつけ加えて(笑)」


当時を振り返る大林さん photo by 立松尚積

――戦略家ですね(笑)。反応はどうでしたか?

「手紙を投函してから3日後、山田監督が家に電話をかけてきたんですよ。完全にパニック状態で話をしたんですが、『家からも近いようだし、一度遊びにいらっしゃい。他のバレー部員が一緒でもいいですよ』と言ってくださって。本当に嬉しくて、現実と受け入れるまで時間がかかりました。それで翌日、中学のバレー部の作道講一郎先生に許可をもらって、全員で日立の練習を見学に行くことになったんです。

 私たちが"ミーハー気分"で体育館のドアを開けたら、山田監督はいったん練習を中止して私たちを迎え入れてくれました。私はキャーキャー言いながら写真を撮っていたんですが、山田監督が近寄ってきて、『せっかくだから練習していきなさい』と言うんです。実業団トップチームである日立の選手たちの練習に、バレー歴1年で技術もない私が入っても何もできないし、『無理です』と断りました。そもそも、江上さんに会いたくて来ちゃった感じでしたからね。

 でも、監督は女性マネージャーと一緒に『いいから、いいから』と私を更衣室に連れていって、『好きなユニフォームを着ていいから、着替えたら出てきなさい』と。そうしたらマネージャーさんも、『江上のファンなんでしょう? 着ていいよ』と言ってくださったんです。それで憧れの、江上さんのユニフォームに緊張しながら袖を通しました。シューズは......たぶんサイズが同じだった(中田)久美さんのものを履いたのかな」

「明日からうちの練習に来ていいよ」

――中田久美さんは、1980年に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本に選出され、翌1981年から日立でプレーしていましたね。

「日立には江上さんや久美さんなど、のちの1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得する方がたくさんいましたね。そうして"全身、全日本"な格好になった私は、やはりロス五輪銅メダルメンバーの小高笑子さんと同じライトに入りました。それで久美さんのトスを打つことになるんですが......そのトスが速くて、空振りっぽくなった時には久美さんに睨まれて(笑)。久美さんからすると、『私のトスが悪いの?』みたいな感じだったんでしょう。

 終始、何もできませんでしたけど、江上さんとハイタッチできましたし、2歳上の久美さんのすごさも感じることができた。久美さんは、最初は怖かったですが、練習が終わったあとに真っ先にサインをしてくれて、写真も一緒に撮ってくれました。結局は全員の選手のサインと、練習で使った江上さんのユニフォームもいただいて。更衣室でマネージャーさんに声をかけられず、違うユニフォームを選んでいたら一生後悔していたかもしれません(笑)」

――帰る際、山田監督とは何かやりとりをしましたか?

「本当に充実した時間を過ごさせていただいたので、心から『ありがとうございました』とお伝えしました。すると山田監督は、『練習を見させてもらったけど、正直なところまだ"使えない"。でも、君が本当にオリンピックに行きたかったら、明日からうちの練習に来ていいよ。そうしたら次のオリンピックに出られるかもしれない』という言葉をかけてくださったんです。おそらくお世辞だったと思いますが、その真意は山田監督に聞けずじまいでしたね。

 その言葉を真に受けた私は、『よし、本当にオリンピックを目指そう』と決意します。翌日から、中学の部活を終えたあとに自転車で日立の体育館に行って、夜の6、7時から練習をしました。あれだけ練習が嫌だった私が、サボることなく毎日です。当時の日立には中学生のクラブチーム『ロサンゼルス・エンジェルス』というチームがあり、そのメンバーの方々と練習していました。時には日立の3軍の選手たちと練習させていただくこともありましたね。中学2年生の時に出した1通の手紙で、バレー人生が大逆転しました」

(連載3:高校最後の国体を制覇→全日本入りで驚いた、名将のデータバレーと、いつもどおりプレーするための秘策>>)

◆大林素子さん 公式Twitter>>:@motoko_pink 公式Instagram>>:@m.oobayashi