少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた石井光太氏が、教育問題の最深部に迫った『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を上梓した。いま、子供たちの〈言葉と思考力〉に何が起こっているのか?

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国語力をめぐる現場の先生たちの強い危機感

――なぜいま〈国語力〉が問題なのでしょうか?

石井 長年、不登校や虐待の問題など、子供たちが抱えた生きづらさをめぐって、当事者や関係者に多くの話を聞いてきました。取材を通して感じたすべての子に共通する問題点は、「言葉の脆弱性」でした。


©平松市聖/文藝春秋

 あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまうんですね。これでは、より問題がこじれ、生きづらさが増すのは明らかです。

 以前はこうした実情を、〈うまくいっていない子〉に共通の課題だと認識していました。ところが数年前から、各地の公立学校に講演会や取材でうかがうことが増えるなかで、平均的なレベルとされる小・中学校、高校でも、現場の先生たちが子供たちの国語力に対して強い危機感をもっていることがわかりました。言葉によってものを考えたり、社会との関係をとらえる基本的な思考力が著しく弱い状態にあるという。

 そしてあるとき僕自身、都内の小学4年生の授業で、新美南吉の『ごんぎつね』を子供たちがとんでもない読み方をしているのを見て、衝撃を受けました。

社会常識や人間的な感情への想像力が欠如

――どんな授業だったんでしょうか。

石井 この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。

 兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

――「死体」を煮ているとは、あまりに突飛な誤読ですね!

石井 これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。

 単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね。

様々な要因で広がる家庭格差

――近年、PISA(国際学習到達度調査)の学力テストで、OECD諸国のなかで日本は読解力が15位だったことが大きな話題になりました。

石井 PISAの読解力テストはテクニック的な側面も大きいと思います。たしかに文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっているのでしょうが、それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です。現場の先生たちが強く憂慮しているのもその点です。

 こうした国語力は自然と身につけている家庭環境の子にとっては何の問題にもなりませんが、様々な要因で家庭格差が広がるなか、「できない子」にとっては著しい困難を伴います。本質的な国語力の衰退がいまや一部の子に限った話ではないことを認識しなければ、いくら教育政策で「読解力」向上に力を入れても上滑りしてしまうでしょう。

交際相手の行為を“恐喝”と思わない女子高生

――従来から言われている「読解力低下」問題とは違う次元の深刻さを感じますね。

石井 象徴的なのは、ある女子高生に起きた恐喝事件です。その子は、わりと無気力なタイプで、学校も来たり来なかったりデートの途中で黙って帰ってしまうようなルーズな面がありました。こうした態度に怒った交際相手の男子生徒が、非常識なことをしたら「罰金1万円」というルールを決めます。それでも女子生徒は反省せずルールを破り、毎月のバイト代のほとんどを彼氏に払い、しまいには親の財布から金を盗んで支払いにあて続け、発覚したときは100万円以上も払ったあとでした。

 ところがとうの本人は、自分の被害を全く認識できず、「言われたから」「ルールで決めたから」と相手の行為を“恐喝”とすら思っていないんです。男子生徒のほうも「同意あったし。金は二人で遊びに使ったし」と平然としている。

 当人のなかでは「ルールを決めた→同意した→実行した、何が間違っているの?」というプログラミング的な理屈で完結しているのですが、社会の一般常識や人間関係を考えたら明らかにおかしいわけです。搾取されているゆがんだ関係や親の金を盗んで渡していることに疑問すら持たない。

 教師がいくら指導しても、彼女のなかには言葉がなく、自分の状況を客観的に捉えたり、なぜそれがいけないかも全く理解できていなかった。当然彼女がそのまま大人になれば生きる困難さを強く抱えますし、親になれば社会常識が欠如したまま子育てをして、負の再生産が起こります。

子供たちの国語力が身につきにくい要因

――問題の根深さを考えさせられる事例ですね。

石井 こうした国語力の低下は、実はよくしゃべる子にも当てはまります。乏しい語彙と短文で一方的な自己主張や好きなゲームの話とかはべらべら話すけれど、友達とのトラブルにならないよう相手の話を聞いて折り合うとか、周りに意思を伝えて物事を打開するとか、自分が生きやすくなる形で言葉を使えない子も多い。

 不登校児たちを見ていても、自分の気持ちを言語化できない子供たちの一方で、よくしゃべるのにどうしてこんなにメンタルが弱いの? と大人が戸惑うようなタイプもいます。どちらも生きる力と結びついた国語力を育めていません。

――なにがこうした国語力の低迷を招いたのでしょうか。

石井 本書で多角的に詳しく取り上げましたが、一言でいえば現代社会を取り巻く諸問題が重なった結果です。家庭格差と言語発達の問題、ゆとり教育からつづく教育行政の落とし穴、深刻な教員不足と予算のなさ、ネット・SNSという特殊な言語環境、これらの要因が複雑に絡み合って、子供たちは生きる上で必要不可欠な国語力が身につきにくい環境におかれています。ギガスクール構想やアクティブラーニングなど、次々と目新しい教育プログラムは導入されているのに制度が形骸化しがちです。

不登校になった瞬間に、文字を書くことができなくなる子も

 今、学校で大きな問題となっている不登校の子供たちと国語力の関係性についても一章分を割いて詳しくルポしました。不登校の子供たちの多くが、なぜ学校へ行きたくないのかと問われても、「わからない」と答えます。不登校の理由を答えられないのです。つまり、言葉によって、自分が抱えている問題を把握し、どうしたらいいのか、どうしたいのかという思考ができなくなっている。

 その背景には様々な事情がありますが、本当にひどいケースでは、不登校になった瞬間に、子供自身の中で言葉が粉々に破壊されてしまい、会話をするどころか、ノートに文字を書くことさえできなくなる子もいます。それまで受験勉強をしてきて成績も抜群だったのに、ある日突然言葉を失ってしまう。

 しかし、大人は背後に言葉の問題があることがわかっていない。だから無理やり理由を問いただそうとしたり、論理的に説得しようとしたりする。そうなれば言葉を失った状態の子供たちはますます困難に陥ります。

言葉による感情の細分化

――そうした子供たちの国語力を回復するにはどんな手立てがあるのでしょうか。

石井 たとえばコミュニケーション不全の不登校の子たちに対して、あるフリースクールでは自分の感覚や気持ちと向き合うところから出発します。自分の興味のあることに関して、「思ったときに思ったことを書きとめる」訓練をし、さまざまな遊びや活動を通して子供自身の感性や意欲を取り戻していく。そこから〈自分の内面と結びついた言葉〉を育んでいくんです。

 じつは社会のどん底で言葉を失っている子供たちへのアプローチ法には、汎用性の高いヒントが多く隠されています。

 もう一例あげると、少年院や刑務所を出た子供たちの再犯防止教育に力を入れる福岡県のヒューマンハーバーそんとく塾では、〈感情の細分化〉を目的とした「言葉のバブル」というユニークな授業を行っています。

 塾生たちに配られる【怒り】のプリントには、いくつかの大小のマル印(泡)と、その横に「いきどおる」「むくれる」「いまいましい」「激怒」「腹立たしい」など怒りをあらわす様々な言葉が書かれています。それぞれのイメージで、怒りの度合いが大きい言葉は大きなマル印のなかに、小さい言葉は小さなマルのなかに書き入れていってもらう。

 塾生たちはこうしたプロセスのなかで、感情には大小があることを視覚的に把握していきます。つまりちょっと腹が立ったときに何でも「死ぬ」と言ってると暴力沙汰に発展しやすいですが、「腹立たしい」とか「むくれる」とか感情の程度に応じた言葉を知ることで、自分をコントロールしやすくなる。授業では、こうした言葉による感情の細分化を、喜怒哀楽それぞれの場合で丁寧に行っていくんです。

感情のグラデーションを把握する

――なるほど、ひとつの感情のなかにも様々なバリエーションと大きさがあることを言葉で腑分けしていくわけですね。

石井 一般的な刑法犯の再犯率は約5割ですが、そんとく塾の支援を受けた人の5年以内の再犯率は約1割なので、この授業の効果の高さがわかると思います。

 感情のグラデーションを言葉で把握できないと、大人になってからも様々なトラブルを起こしがちです。たとえば、「好き」=「セックスOK」と短絡的に解釈してしまうような人がセクハラや性犯罪の現場ではあとを絶ちませんが、当然ながら「好き」や「好意」のなかにも感情のグラデーションがあるわけです。

 感情を適切にとらえ表現する国語力は、社会のなかで自分と他者が心地よく生きていく力と密接に結びついています。

子供たちの国語力を守り、育んでいくことは大人の責任

――日本の国語教育をどう立て直していったらよいのでしょうか。

石井 学校の先生たちはハードな環境におかれていますし、いまや家庭環境も社会の環境も、生きる力となる国語力を育むには逆風になる要因に溢れています。でもお金や予算がそれほどなくても、家庭ですぐできること、公立だろうが私立だろうがすぐに導入できる工夫や本質的な授業の仕方はいろいろあります。同じ文科省のカリキュラムでも形骸化させるか、本質的な学びの場にできるかは指導の仕方ひとつによるところも大きい。

 たとえば、いまの小学校の国語の教科書は目配りがきいていて、取材の仕方とかが書いてあります。能動型学習が推奨されていますが、では「取材を体験しましょう」といって、PTA会長のところへ行かせて「何の仕事をしていますか。何が大変ですか」と聞いてまとめさせても、本人はただ言われた通りにやるだけで面白さを感じないでしょう。でも、クラブの仲のいいコーチに初恋の思い出を取材させたらどうか? 保育園時代の先生に自分を保育したときの苦労や楽しさを取材させたらどうか? 子供にしたらもう興味津津だし、たくさんの感情があふれ、取材は能動的になっていくわけです。

 同じ課題でも、本当に子供の自主性を導く提示の仕方になっているか、自分で考える練習になっているかを先生や親が見直すだけでも、明日から改善できることは多いはずです。

 苦しい時代においても、子供たちの国語力を守り、育んでいくことは大人の責任です。本書では、国語力再生の処方箋となるような、さまざまな最先端かつ本質的な事例を紹介していますが、この問題にかんする国民的議論の契機となり、子供たちの未来を守る助けになることを願ってやみません。

プロフィール
石井光太(いしい・こうた)
1977年東京生まれ。作家。国内外の貧困、災害、事件などをテーマに取材・執筆活動をおこなう。著書に『物乞う仏陀』『絶対貧困 世界リアル貧困学講義』『遺体 震災、津波の果てに』『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』『原爆 広島を復興させた人びと』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『本当の貧困の話をしよう 未来を変える方程式』『格差と分断の社会地図 16歳からの〈日本のリアル〉』など多数。2021年『こどもホスピスの奇跡 短い人生の「最期」をつくる』で新潮ドキュメント賞を受賞。

(石井 光太/ライフスタイル出版)