※この記事は2021年06月28日にBLOGOSで公開されたものです

1998年の長野オリンピック、日本中を沸かせたスキージャンプ団体の金メダル。その陰で活躍した西方仁也さんをはじめとする25人のテストジャンパーにフォーカスした映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』が18日に公開された。

同作で田中圭演じる西方さんは、94年のリレハンメルオリンピックには日本代表として参加するも、ケガの影響もあり長野オリンピックには落選。テストジャンパーとして日本代表選手を支えた。西方さんの同級生であり、ライバルとして子ども時代から切磋琢磨し、長野では金メダルの立役者となった原田雅彦さんに当時の舞台裏を聞いた。

オリンピックが日本で開催されるのは「奇跡的」

ー原田さんご自身も登場する、今作を見た感想を教えてください

感動しましたよ。やっぱり、あの長野五輪は日本で行われてたんだな、と改めて思います。僕らからしてもオリンピックって外国で行われるイメージが強いんですけど、日本で行われて、20年前になりますが、今でも多くの人が知っていて。

オリンピック=外国で開催される4年に1回ってイメージなのに、たくさんの人が目の前で応援してくれている、というのが映画を見て印象的でしたね。

ー長野開催が決まった時はどんなことを考えましたか?

意外にも今みたいに、メディアで取り上げられて「長野だ!」「決まった!」って感じではなかったと覚えています。

やっぱり自分の競技的なピークと、何十年に一回のオリンピックが日本で開催されるってのは奇跡的なことだなと。一生に何回かしか日本で開催されない。その時に現役選手として、出場できたのは奇跡的なことが起きたな、っていう。

ーなるほど。そんな奇跡的な長野オリンピックの裏のドラマを描いた『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』で、何か思い出した当時のことはありますか?

映画の主人公の西方は僕の同級生で、子どもの頃からずっと「ライバル」と呼ばれながら競い合ってきた仲です。映画に、彼の長野の実家の温泉宿が出てくるんですけど、そこが印象的でしたね。ああ、何度も行ったあそこだなー!と(笑)。

ー田中圭さん演じる西方仁也さんは、原田さんにとってどんな存在ですか?

子どもの頃からずっと一緒で、合宿も海外遠征もいつも一緒でした。自分の家族より長く一緒にいた相手で、友だちを超えた関係ですが、と言ってもなんでも話すわけではないんです。

性格的にはすごく真面目で、本当にストレートな人。一つ決めたらそれしか見えなくなるくらい。僕はそこがダメだって言ってきたんですけどね(笑)。とにかく目標に向かっていく人です。

自然、運も味方にしないとメダルには手が届かない

ーリレハンメル五輪では2人一緒に個人・団体に出場しましたが、この作品で描かれている長野五輪では西方さんがテストジャンパー、原田さんが日本選手の中心として参加しました。

ケガで長野に出場できなかった西方さんに対しては、どんな感情を持っていましたか?

なんでも言い合う仲ではないですが、お互いに気は使わない間柄ではあります。あいつは人一倍、長野オリンピックへの想いは強かったと思うんです。地元だったし、西方は子どもの頃から長野を代表するジャンパーとして長野県で強化されて、日本の代表になって世界で活躍して、地元でとても期待される存在だった。

彼もそれをわかってただろうし、ケガで外れた時は悔しいとかってレベルを超えて、落ち込んだんじゃないかなって思いますね。

ースキージャンプの難しさを感じます。原田さんと西方さんの選手としてのタイプの違いはどんなところにありますか?

選手によって違うんですよね。僕なんかはほけーっとしてますから、今日はダメだったな、明日頑張ろうぜ、って切り替えるタイプですが、西方は「ああ、あの時こうしておけばよかった」って考えるタイプでしたね。

スキージャンプの難しさって、自然に左右されるところだと思います。長野も、世界で戦える、上位に入れる選手を揃えて、誰が飛ぶんでもメダルが、っていうところまで作り上げて長野に乗り込んだわけですよ。なのに、戦う相手は自然だったんです。何も起こらなければ日本のメダルは固いと言われていたのに、こう来るかと。ケガもそうですけど、自然、運も味方にしないとメダルに手が届かない競技ですよね。

ー映画のメインになるストーリーでもありますが、五輪出場経験のある西方さんがテストジャンパーとして参加したことには、どんな風に感じましたか?

でも彼らしい決断ですよね。自分だけじゃなく、日本のチームに何ができるんだって考えた末に、そう決めたんでしょう。

飛べない人より、飛べる人がテストジャンパーをやってくれた方がいい、っていうのは当然あります。オリンピックですから、テストジャンパーも一流の人を揃えようという考えは協会にもあったでしょう。西方たちテストジャンパーたちが日本のために、自分たちがやるんだって思ってくれてたのは本当によかったと思います。

「船木~」のインタビューに隠された裏話

ー長野五輪は今でも語り継がれる大会ですが、当時のコンディションはどのようなものでしたか?

…すごく悪かったですね。競技開始が午前中の早くで、暗いうちから外に出て準備をしていましたが、ものすごい吹雪で今日はできるのかな…という感じでした。

結局競技は行われて、1本目が終わって思うような結果にはならなかったんですけど、オリンピックの1本目として起こったことなので受け止めるしかなかったですね。

ー中断中は、テストジャンパーのジャンプをどう見ていましたか?

とにかく2回目ができるように祈っていましたね。その中でも雪はずっと降り続いていたんですよね。前が見えないくらい。

やっぱりオリンピックですから、4年に一度しかやらない競技会だし、テストジャンパーへのプレッシャーも大きかったでしょう。25人連続で成功させないと、という彼らの思いや、ジャンプ台の周りで待っていた日本の応援団、審判団、とにかくあの日、白馬のジャンプ場でみんなが我がチームになったのかなと。

ー原田さんといえば、長野五輪で有名なインタビューがあります。あの時は、どんな感情が湧き上がったんでしょうか

とにかく船木(和喜)が飛んでくれるから、みんなで金メダルの瞬間を見ようよって意味だったんですけど、僕もホッとしたというのが正直な気持ちで、実は腰を抜かしていましたから。いろんなことを聞かれるんですけど、答えられなくて「船木~」としか言えなくて。長い間、そこばかり切り取られて(笑)

ー五輪で日本中からの期待がかかっていることはプレッシャーにはなりませんでしたか?

いや、僕にとって五輪というのは外国で行われるもので、優勝しても誰もいない、みたいなことが当たり前だったので、そういうのもやっぱり日本で行われてるな、と。プレッシャーになったかっていうより、励まされましたね。

毎年30試合近く行われているW杯とは盛り上がりが違って、期待の大きさは、嬉しかったですね。さかのぼれば1972年に札幌オリンピックがあって、そこから続く日本ジャンプの歴史があって、低迷する時期もあったり、スタイルを変えたりして長野に繋がるっていうドラマがあって。これは奇跡だなと。

―なるほど

とにかく、みんな終わった後でいい表情をしてましたね。会う人会う人、よかったなって言ってくれるんですけど。自分もやったなと。

ー様々なことが組み合わさって、特別な時間になったんですね。今振り返ってもキャリアの中でも特別なジャンプでしたか?

オリンピックには何度か出ましたけど、あんなに応援してくれる人がいたのは最初で最後じゃないかと思います。そういったことや、4年に1度のオリンピックに、自分が選手としてピークを合わせられたこと、全部含めて奇跡ですよね。

ー選手にとって五輪がどれほど特別かが伝わります

やっぱり4年に1回しか行われなくて、普段通りの実力を出すことも難しい舞台なんです。高梨沙羅さんのような実力的には金メダルを獲って当たり前の選手が、まだそうできていない。そんなわけないんですけどね。

その限られたチャンスをモノにする、それだけ大きなことですし、その舞台がオリンピックなのかなと。ジャンプって競技時間も短いし、やり直しが効かないので。

ーこの作品はどんな風に見てほしいですか?

僕ら4人が出場した団体戦ですが、みんなに金メダルをあげたいなって思いですよね。裏方さんも一緒に金メダルを獲ったというか、みんなが一つになって、長野で達成したことが映画になっていると思います。