昭和の頑固オヤジ!JASRACと闘い続けた小林亜星さん - 渡邉裕二
※この記事は2021年06月23日にBLOGOSで公開されたものです
作曲家の小林亜星さんの死去は、昨年の服部克久さんや筒美京平さん、そしてなかにし礼さんと並ぶほどの哀しみとなって報じられた。「また一つ昭和が遠のいた」との声が多い。
小林さんが亡くなったのは5月30日だったが、公表されたのは6月14日になってからだった。88歳で心不全だったと言う。
多くのメディアでも報じられてきたが、小林さんと言えば、作曲家というよりも110キロの体格と丸刈りの頭に黒縁メガネ。どこか憎めないキャラクターでありながらも「昭和の頑固オヤジ」を演じ切ったTBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」(1971年1月スタート)のイメージが強かった。
「寺内貫太郎は、東京・谷中の石材店を舞台にした軽快なホームドラマでした。とにかく新聞も風呂も家族では最初、些細なことで怒る。息子役だった西城秀樹さん(2018年死去=享年63)との取っ組み合いは毎回の見どころとなっていました。
本気で役を演じていたこともあって、西城さんを茶の間から庭へ投げ飛ばした時に、西城さんが右腕を骨折するというハプニングまで起こりました。とは言っても、家族の触れ合いが基本的なドラマ路線で、何回か生放送というサプライズ的な演出もあり、平均視聴率は30%を超えていました」(スポーツ紙の放送記者)
ドラマはシリーズ化され、1999年には東京・新橋演舞場で舞台化もされている。
小林さんはその後も異色の個性派俳優として重宝がられ、映画「冬の華」「まあだだよ」を始め、テレビドラマも「堀の中の懲りない面々」(TBS)や、NHK朝の連続テレビ小説「さくら」(2002年)ではヒロインのさくらの祖父役としても登場した。
「ドラマの他にも、クイズ番組『ヒントでピント』では男性チームのキャプテンとして出演するなどマルチに活躍していました」(芸能関係者)
とはいえ、小林さんの本業は作曲家。中でも都はるみ「北の宿から」(1975年)は143.5万枚を売り上げるミリオンヒットとなったが、
「特筆すべきはCM曲の多さでしょうね。とにかく多彩で今でも親しまれている作品が多数あります」(放送関係者)
もっとも、音楽業界での小林さんの素顔は、テレビで演じた寺内貫太郎以上に「昭和の頑固オヤジ」だったかもしれない。
服部克久氏の『記念樹』を盗作と訴え勝訴
1998年のことだった。小林さんが書き下ろした大手タイヤメーカーのブリヂストンのCM曲で、愛唱歌にもなっている『どこまでも行こう』が、服部克久さんの作曲した『記念樹』に「曲を真似された」と、なんと服部さんを「盗作」で訴えたのだ。
「5年にわたる法廷闘争となりました。結局は二審判決で小林さんの勝訴(確定)となりましたが当時、仲間を訴えたことで、小林さんに対する批判が多かったように記憶しています。ところが小林さんは、知的財産権が重視される時代に放置は許されない、ハッキリしておくべきだと作曲家の権利を強く主張していました」(音楽関係者)
しかし、私が小林さんで一番、思い出すのは、日本音楽著作権協会(JASRAC)とのバトルだ。
日本を揺るがしたJASRACの巨額無利子融資問題
1993年から1997年にかけての出来事である。小田急線代々木上原駅近くの古賀政男邸の跡地に新しく建設していた古賀政男音楽文化振興財団のビルへのJASRAC本部移転を巡って、JASRACが77億円もの融資を行った。
ところが、その本部移転に疑問を抱いた小林さんがJASRACを相手に批判を繰り返したのである。激怒する小林さんにメディアもヒートアップ、この問題は瞬く間に社会問題化した。
当時、私は東京スポーツで著名人による連載コーナー「今週のトークバトル」を執筆していた。作家の野坂昭如さん(2015年死去=享年85)や「噂の真相」編集長だった岡留安則さん(2019年死去=享年71)らにレギュラー的に登場してもらい、その発言を記事にしてきたが、その中の1人に小林さんがいた。
この問題の経緯を改めて記すとーーJASRACが本部の移転を巡って財団法人古賀政男音楽文化振興財団に対して、同財団の事務所ビルの設計・建設費として77億7000万円の無利子融資契約を行ったことがトラブルの要因となった。この時、小林さんがJASRACの評議員を務めていたことから問題が広まった。曰く、
「本部がテナントとして入居するとは言っても、本来は著作権者に分配すべき資金を無利子で融資すると言うのは理解できない」
小林さんは、石本美由起理事長(2009年死去=享年85)をはじめとする11人の執行部に対して疑問を呈した。
もちろん、JASRAC側にも言い分があった。当時を知る関係者は、
「JASRACの事業規模は年々拡大していました。その一方で、職員数も増加するとともにコンピューターをはじめとするOA機器の導入などもあって、事務所スペースは手狭になっていたことも確かです。それまでは3ヶ所の分室を設けるなどして、一時的に凌いでいる状態で、効率面でも移転を考えるのは必然なことでした。また、優秀な人材の確保と著作権管理の拡充という観点からも、より広い本部事務所を確保する必要性がありました」
とした上で、
「JASRACは信託契約約款において実質清算方式を採用し、これによって法人税法上、非収益事業法人としての認定を受けており、自らの判断で処分できるような財産も保有していないため、事務所ビルを購入、または建築して所有することは不可能なので、とにかく新しい貸ビルに入居する以外、選択肢はないのです。そんな中で条件が合ったのが古賀財団ビルへの入居だったと記憶しています」
しかし、そうした説明に小林さんが納得するわけがなかった。
振り上げた拳を下ろすことのない、頑固オヤジの小林さんはJASRACに「無利子融資の破棄」「本部移転の白紙撤回」を求めると同時に「JASRACビル移転問題を追求する会」を発足させて、徹底的に争う姿勢を見せた。
小林亜星さんが著者に語ったJASRACの問題点
1939年に設立されて以来、初めて勃発した内部対立に興味を抱いた私は、ここは何としても小林さんに語ってもらおうと赤坂のマンションにある事務所を伺った(当然、アポを取って)
「基本的に差別発言以外に記事上でのタブーはありませんから」
と言うと、小林さんは快く取材に応じてくれた。
そこで、小林さんの指摘する最大の問題を尋ねたところ、それはJASRACが古賀財団と結んだ「ビル賃借契約」の2年ごと5%アップという契約の文言だった。
小林さんによると、JASRACは年間約4億円と言われた賃貸料を古賀財団に支払い、それが2年ごとに5%値上がると、30年後には例え、融資分の77億7000万円が返済されたとしても、その時点で賃貸料の総額は約178億円にもなり、結果的にJASRACから古賀財団に100億円も多く支払われる計算になると言うのだ。
さらに、ビルの設計・建設費が実は66億9500万円だったことから、
「融資額との差引額が11億円余りもあったことも納得できない。これは明らかに使途不明金に当たる」
と指摘。
「建設中のビルを見に行ったが、どこから見たって67億円もかかるようなビルじゃなかった。どうせ海の砂なんかを持ってきて建設しているのだろう。せいぜい20億円程度がいいところ」
などと言い放っていた。
この問題は混乱が収まらず、石本理事長は任期半ばで退陣。その後、なかにし礼さん(2020年死去=享年82)を理事長とする新体制で解決を目指した。
「早期解決を図るために本部内に調査委員会を設置して、調査結果が出るまで融資を凍結したことから、古賀財団は貸付の履行を求める訴訟を東京地裁に起こし、逆にJASRACも古賀財団に対してすでに貸し付けた融資の返還を求めて反訴するなど法廷闘争にまで発展しました。
ところがその後、融資を巡っては前執行役員4人が刑事告訴と言う事態になるなど問題は泥沼化していきました、最終的には文部省から加戸守行氏(元愛媛県知事=2020年死去=享年85)が理事長として就き、契約不履行による損害の増大を客観的事実として認め、法廷闘争については和解、信託財産の貸付は改めて通常総会にはかって可決しました。その際、JASRACが賃借する部分の工事費相当を(貸付額)を減額し、なおかつ有利子にすることと改定。同時に賃料についても引き下げられることが盛り込まれました」(関係者)
無論、小林さんは、この決定にも納得していなかった。
「文部省から天下ってきたから、著作権者でもない役人に何が分かるのかって言ってやったんですよ。すると2曲ぐらい作って、JASRAC会員に加入して、私も著作権者の1人ですって。だから何だと笑ってしまいましたよ」
とにかく、言いたい放題だった。
ドラマでの人気や作家活動での実績も大きかったが、それ以上に著作権者としての権利を守るために、権力や組織に対しても物おじすることなく堂々と立ち向かい、闘い続けてきた。そんな小林さんの生涯についてもメディアは伝えていくべきだろう。