教師と生徒の距離はどの程度が適切か - 赤木智弘
※この記事は2015年01月17日にBLOGOSで公開されたものです
埼玉県がメールやLINEなどを通して生徒と私的な連絡をすることを禁止すると、県立学校の全教員に対して通知を出したという。(*1)まず、僕はこうした措置というのは、とても真っ当なものだと考える。理由としては、学校において、教師と生徒というものの距離はなるべく離れたほうがいいと考えるからだ。
セクハラに至ってしまう教師が、間違いなく勘違いしていることは、セクハラ被害を受けた生徒が、セクハラに至るまでにその教師と親しくなったのは、間違いなくそこに「教師と生徒」という関係性があったという部分だ。
例えば、男性教師が女子生徒のアドレスを聞いたとする。ある子は「教師だからいいだろう」と考えて答えるかもしれないし、ある子は「教えないと内申とか変なことになるかもしれない」と考えて答えるかもしれない。生徒側の態度が、教師を「信頼して」であろうが「嫌々、しかたなく」であろうが、そこには「相手が教師である」ということによる判断が反映されている。
しかし、セクハラ教師はそこが理解できない。自らの人間的魅力で、女性がなついてくれていると勘違いしてしまうのだ。こうしてセクハラ教師は安易に一線を超えて、事件化してしまう。
これはほとんどのセクハラ、パワハラ事例でもそうである。
ドラマに出てくるような悪の上司が「自分の権力を利用して、下の人間をこき使ってやろう」などと思っていることはあまりなく、その多くは「自分が飲みに誘えば、部下は必ず付き合ってくれる。それは自分に人間的魅力があるからだ」と思っている。その実、部下の側は「めんどくさいけど、上司だから付き合わないわけには行かないしな」と思っていたりする。
この度が過ぎ、就業後のみならず休日にまでゴルフだなんだと同伴を共用したり、便利なツールとして部下を利用するようになれば、当然パワハラだと訴えられるに至るわけだ。
さらにいえば、そうした関係性は当人たちが意図しようがしまいが、どうしようもなく付与されるものである。つまり仮に生徒の側が「私は本当に先生が好きだ」と思っていたとしても、そこには関係性が付与されているのであり、好きという感情が無くなった時に「実はセクハラだった!」と気づいてしまうこともある。
教師の側からすれば「好きだと言ってたのに!」となるが、そもそも親しい間柄になったのは関係性のメリットであり、デメリットだけを批判するのは筋違いである。
なので、教師側が自分の身を守る意味でも、生徒との間柄はしっかりと離しておいたほうがいい。そうした意味で、今回の措置はとても真っ当なものであると判断できる。
教師に限らず、近しい間柄の異性は、なるべく自分の権威や権力が通じない場所から探すべきである。
*1:<埼玉県>教諭に生徒とのメール禁止 わいせつ行為相次ぎ(毎日新聞)