【寄稿】自民党の「無茶な」メディア対策と、右往左往する「考えない」テレビ - 奥村信幸(武蔵大学教授/元テレビ朝日報道記者・ディレクター) - BLOGOS編集部
※この記事は2014年12月01日にBLOGOSで公開されたものです
奥村信幸(武蔵大学教授/元テレビ朝日報道記者・ディレクター)
歴史の議論でよく使われる言葉に「ポイント・オブ・ノー・リターン(point of no return) 」というのがある。当事者も、周囲も、その時は重大だと思わなかったり、あるいはみんな目先のことに一生懸命で、見過ごしたりしているうちに問題が決定的に悪化し、いよいよ取り返しのつかなくなった時に「ああ、あの時にこうしておけばよかった」と後悔するような事態だ。自民党から出された「選挙報道に関する要請書」に対して、民放各社が公然と反論していないのはかなり心配なことだ。テレビ業界は、ここでちゃんとモノを言っておかなければ、政治の言いなりになり、日本の政治ジャーナリズムが弱体化する大きな転機にもなりかねない。
「監視しているぞ」というメッセージ
11月20日付けの「在京テレビキー局各社」宛の自民党・荻生田筆頭副幹事長ら発の文書を見てみると、表向きは、放送局が毎日行っている報道の、当たり前の原則を再確認しているようにしか見えない。しかし、これは、この問題を伝えた毎日新聞の記事にコメントを寄せている立教大学の服部孝章教授が指摘するように「恫喝」に他ならない。そもそも、政治的公平さに満足していれば、メディア相手に、わざわざこのような要望は出されない。むしろ、この要望書とは、おしゃれがしたくて、校則スレスレの髪型をして、ビクビクしている女子生徒を生活指導の先生が個別に呼び出し、生徒手帳を改めて読み上げているようなものだ。与党幹部からの「要望」はけっこうなインパクトだ。自民党の中には放送行政に関して、テレビ業界の監督官庁である総務省に影響力のある議員もいる。選挙報道で失点をすれば、各局が深くつながっている新聞社にもダメージが及ぶかもしれない。
公平公正の原則を敢えて、改めてメディアに要請するという政治家の行動は、2001年にNHKで起きた事件を思い出させる。教育テレビ(現Eテレ)で放送され、その後に「番組改編」だとして問題になった「ETV2001」のことだ。この番組では、従軍慰安婦などの第二次世界大戦時の女性に対する暴力について昭和天皇らの政治責任を問う民間法廷の試みを取り扱った。これを問題視した政治家の中には、当時官房副長官だった安倍晋三現首相も含まれている。安倍氏は朝日新聞の取材に対し、以下のように述べている。
「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」この時の安倍氏も、単に原理原則を言ったに過ぎない。しかし、その後何が起こったか。安倍氏や故・中川昭一氏らに対し、NHKは幹部を挙げて番組の内容に手を出し、番組が原型をとどめないほどに変えられていった。よくご存じない方は、担当プロデューサーとして関わった永田浩三氏の以下の著書をご一読いただくと、NHK内部の狼狽ぶりが実感できるだろう。
(朝日新聞2005年1月12日朝刊「中川氏・安倍氏『内容偏り』指摘 NHK『慰安婦』番組改変」)
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まず現場の記者を攻撃する
この「要請」がさらに強力なのは、そのメッセージの伝え方だ。文書を一方的に送るという形ではなく、自民党記者クラブに所属する各テレビ局の責任者を個別に呼び出して、文書を直接手渡したという点です。今回は口頭でも、いろいろ注文をつけたようですね。未確認だが、どうやらこの要請文を受け取って、ついでに文句を言われたのは、平河クラブという自民党を取材する記者クラブのキャップクラスの記者のようだ。民放の政治部だと30代半ばから40代前半くらいの中堅社員と思われる。当然彼らには自局を代表して反論したり説明したりする権限はないので、黙って要請を聞き、「上に伝えます」と言うしかない。そして、次に彼らが考えるのは、おそらく「これで自民党側を怒らせたら、何が起きるだろう」ということだ。ゲストとして招くはずの自民党議員に出演を拒否されては、選挙期間中の討論番組などが成立しなくなる恐れがある。大事な情報収集の場である記者会見や懇談などにも出席を拒否されてしまったら、今後の取材ができず、局のニュースがダメージを受ける。記者としての自分の評価にも直結する大問題だ。その要請は、そのような温度で政治部長から報道局幹部へ、経営幹部に伝わっていく。「何か手を打たなくては」という空気になっていくことは、想像に難くない。
<自民要望書問題>「現政権とメディアは完全な上下関係」田島泰彦教授インタビュー(弁護士ドットコムNews)
細かい指示が「指針」となる構造
しかし、どうすれば自民党が怒らずに、つつがなく放送が続けられるのか。「公平公正」だけではよくわからない。テレビ局の重役からは「然るべき措置を」とか、「何とかしろ」という以上の指示がなされる見込みは薄く、現場は具体的にどうすればいいのか途方に暮れてしまう。要請書には「出演者の発言回数や時間」、「公平中立なゲストの人選」、「特定のゲストに集中しないようなテーマの選定」、「街角インタビューなどでも偏りがないように」などの具体的な項目が列挙されている。政党という、いわばテレビ放送のプロではない人たちがプロに向かってマイクロマネージメントよろしく指示を出しているという、おかしな構図だ。しかし、これがテレビ局に対する「ガイドライン」の役割を果たしてしまう。
「自民党は、これらのチェックポイントを中心にニュースをチェックするぞ」、「自民党は、この4項目のうち、どれかひとつでも『違反している』と考えたら、何らかの制裁を科すぞ」というメッセージだ。弱気なテレビ局側にとっては、「少なくとも、これらの項目で目をつけられないようにしなければ」という「目標」のような効果を果たしてしまう。
しかし、よく考えると、これらの4項目は政治、選挙報道に関して、番組の内容のほぼ全てだと言っていい。これでは、局や番組ごとに、政策に対するユニークな関心や問題意識を反映させることなど不可能だ。与党は現在のすべての政策に関する責任を負うわけだし、そもそも大義がよくわからない解散であれば、与党側に質問が集中するのは当たり前のはずだ。自民党は、それを止めろという。報道にとって一番大切な営みを放棄しろと迫っているのだ。
弱いテレビ局側の足元
自民党の要望書が根拠としている放送法には、ニュースや選挙報道に特化した規定はない。一般的な番組の内容について。以下の規定があるだけだ。(国内放送等の放送番組の編集等)選挙報道については、公職選挙法の中に、こういう一文があるだけだ。
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
(選挙放送の番組編集の自由)つまり、どのような番組が政治的に公平か、どのようなニュースの内容が不偏不党の原則に沿っているか、 どのような選挙に関する演出が公正なのか、具体的な判断はテレビ各社に任されている。これが表現の自由であり、ジャーナリズムの基盤になる。
第百五十一条の三 この法律に定めるところの選挙運動の制限に関する規定(第百三十八条の三の規定を除く。)は、日本放送協会又は基幹放送事業者が行なう選挙に関する報道又は評論について放送法の規定に従い放送番組を編集する自由を妨げるものではない。ただし、虚偽の事項を放送し又は事実をゆがめて放送する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない。
テレビ各社は、発信するメッセージが、このような原則に沿っているかを絶えず検討し、「品質管理」をする責任を負っている。しかし、1秒1秒、場面ごとの判断は、現場の記者やディレクターら一人ひとりが担わなければならない。そこで重要なのは、テレビ局が、今回特に問題になっている政治や選挙のニュースや番組について、現場の判断基準となる独自の原則を、組織としてまとめ、きちんと言語化し、社内で共有できるような形にしているかということだ。
自民党に文書で示されるまでもなく、各局が「政治的公平」を一応実現できると考えている出演者の人選や、司会の要領、演出のしかた、あるいは「できるだけ多くの意見を紹介する」とは、どのくらいの意見をどう反映するべきか、あるいはそのような基準を社内で誰が決めて責任を持つのかといったことなど、政治報道に関する「決め事」を整備していて、すでに公開していなければ、おかしい。さもなければ、このような自民党の横暴に対抗することはできないからだ。「ウチは以前からこのような基準を作って、それに従って運用してきた」と主張できるエビデンスが必要なのだ。
しかし、そのような報道の原則について、具体的、明確な基準を公開しているキー局は皆無だ。各局「内規」は持っているようだが、それらは単なる「内輪のルール」にとどまる。「日常の放送で培った視聴者の信頼がある」などと主張されても、証明のしようがないから、制度の整備と理論武装が必要なのだ。
唯一、テレビ東京だけが「報道倫理ガイドライン」を公開し、心構えのようなものを示している。自民党の要請文書へのリアクションを求められて、テレビ東京の高橋雄一社長が、「これをもらったから改めて何かに気をつけろというものとは受け取っていない」(毎日新聞11月27日)と、多少強気にコメントできたのは、そういう理由からだ。
しかし、テレビ東京のガイドラインも、単なる枠組み、あるいは「心意気」の表明にとどまっていて具体性に欠き、自民党のおせっかいな指示を跳ね返すほどに練られたものには見えない。例えば、<不偏不党・公正中立>の項目は以下のようになっている。
政治的に対立がある問題を扱う際には、特定の政党や政治家に偏ることなく、可能な限り多様な意見や反応を伝え、一方的な扱いにならないよう留意する。報道内容は常に公正・中立であるよう留意し、ニュースを客観的に伝える努力を怠ってはならない。
報道内容を取捨選択する作業には、的確なニュース感覚と判断力を必要とする。なんらかの判断を伴う限り、どこからみても客観的という選択は極めて難 しい。「問題をできるだけ多面的に捉え、視聴者が自分で判断するのに十分な材料を提供できているかどうか」が、公正さをはかる現実的な目安といえる。公正 な報道姿勢はこうした日々の積み重ねを通じ、時間をかけて評価を受けるものである。
「朝生」で何が起きたのか
29日(土)未明に放送された「朝まで生テレビ」の制作現場で、本当のところ何が起きたのかは知る由もない。しかし、前日になって突然出演取りやめを告げられた荻上チキ氏がツイッターで述べている経緯の説明などから、テレビ朝日が(この自民党の文書に対してかどうかはわからないにしても)「過剰な配慮」とか、何か異常なことを行った可能性は充分に考えられる。荻上氏は以下のように述べている。(2)出演がとりやめになった理由としては、ゲストの質問によっては「中立・公平性」を担保できなくなるかもしれない、というのものだと聞きました。「ゲストが僕だから」というのものではなくて、「文化人・知識人枠」を入れることそのものを取りやめたそうです。
- 荻上チキ (@torakare) 2014, 11月 27
確かに総選挙の日程はすでに発表されており、その直前の「朝まで生テレビ」には関心も集まり、選挙期間中に準じるレベルで注意深く、討論をコントロールする必要はあるだろう。しかし、衆議院解散の「大義」も明確でなく、安倍政権がアベノミクスばかりを強調している中、「朝生」のような民放では数少ない政治討論だけをじっくり行う番組なら、それ以外にも、集団的自衛権や秘密保護法、原発の再稼働など、他の重要な争点を、荻上氏らのような政治家以外のゲストに指摘し、各政党の見解を質してもらうのは、むしろ重要なジャーナリズムの活動だとは言えないか。 (4)個人的には、議員の方はゲストの質問にも自由に答えられるので、応答の時間があれば問題ないのではなかとも思いますし、議員同士でないと「中立・公平性」の上で問題ありとなれば、討論番組の形式を縛ることになるとも思います。
- 荻上チキ (@torakare) 2014, 11月 27
荻上氏の言う通りだ。努めて客観的なツイートの行間から「これではテレビの政治報道が死んでしまう」という怒りや危機感も感じられる。 番組を実際に見てみた。冒頭に各党の代表者による1分間の政策アピールがあり、よくある各党党首の討論会のフォーマットをなぞったような番組だった。その後の大部分の討論は経済の話に終始して、それ以外の話題はわずか30分足らず、表面的に触れられただけだった。与党側のペースにはまってしまったという印象もぬぐえない。問題になっている「要請文」について、討論の冒頭にアリバイ的に触れられたが、「自民党は自由を尊重する」と弁明する自民党の武見敬三氏に対し、「帰って安倍首相に進言せよ」という発言だけで打ち切ってしまい、議論はそれ以上深まらなかった。スタジオに集められた学生も、もとの演出では荻上氏らとともに積極的な意見を言わせてもらえたのかもしれないが、彼らには発言の機会もなかった。番組として問題はなかっただろう。しかし討論番組としての魅力には乏しかった。
別に文化人や知識人を出しても、何の問題が生じる恐れがあったのか、まったく理解に苦しむ。確かに田原総一朗氏は、時に大物政治家も怒鳴りつける強引さや、無理やり二者択一を迫る討論の仕切りなどが目立つ司会者で、出演者が増えれば増えるほどリスクも高くなる恐れはある。でも、そこまで自粛する必要があったのか。
「機械的平等主義」を越える議論を
究極的には、局の報道幹部や責任者が、どれだけ腹をくくっているのかという問題になる。このような文書を出してくる以上、自民党は自党に不利なニュースや番組の演出に対して、あの要請文をかざして文句をつけてくるのは避けられない。テレビの政治報道の矜恃を守るため、あの要請文に従わないという社会的責任を、どれだけ自覚するかということにかかっている。ところで、「政治的な公平」とは、別に自民党が示している「各党の発言時間を均等」云々の条件に従わなければ達成できないものではない。「100%の公平」などというのは、そもそも達成は不可能なものだ。単に発言時間の尺を揃える「機械的平等主義」だけが、フェアなジャーナリズムの方法なのか、厳しく問い直す必要がある。安倍首相がヘソを曲げたという、件の「News 23」の街頭インタビューも、そもそも日本国民全体の声を公平に反映することはできるわけがない。言葉を換えれば、ニュースとは、テレビの報道も含めて、何らかの政治的な立場や主張に立脚しなければ不可能なものなのだ。テレビ局にできることはせいぜい、討論会から特定の政党を排除しないとか、司会者に各党バランスを取った発言を促すよう配慮させるといった最低限のことだ。自民党の要請は、そのような限界をあえて無視した「無茶振り」に等しい。
このような理不尽な指示に、なぜ民放各局は抗議しないのだろう。各局の報道幹部が集まって話し、横並びで抗議をするとか、民放連(日本民間放送連盟)や日本新聞協会などの組織で取り上げてもいい問題のはずだ。「こんなひどい要請が自民党からありました」という報道が、民放からはまったく出てこなかったのは、日本のジャーナリズムを担う報道機関としては、かなり心許ないと言わざるを得ない。このまま言いなりになってしまうと、それが「実績」として定着し、選挙報道はどんどん萎縮していってしまう。
しかし、見方を変えると自民党は非常に下手なメディア対策をしたものだ。もし、民放各局に安倍政権を批判する報道を控えさせたいなら、公に文書など出さずに、あらゆるチャンネルを使ってテレビ局の幹部にアプローチした方が良さそうなものだ。文書が公開され、批判を受け、荻上氏のツイッターのようにメディアの過剰反応まで公になってしまうと、イメージ戦略として余り得策とは思えない。私が某キー局で政治記者や報道ディレクターをしていた1990年代後半~2000年代前半の頃には、自民党をはじめとした各党は、民放各局に実に様々な人脈を築いており、様々な情報や文句などが、少なくとも今より届いていたと思われる。
その頃に比べて政治家も世代交代が進み、自民党では、おそらく記者との付き合い方などのノウハウを受け継ぐ派閥のシステムが弱体化した。民放各局の方も現場の記者の恒常的な人員不足は深刻になり、政治家と個人的な関係を築くエネルギーは、もう残っていないようだ。テレビ局の余力のなさが、このような政治への過剰な自己規制を招いているということのようだ。
奥村信幸(おくむら のぶゆき)
武蔵大学社会学部教授。
上智大学大学院外国語学研究科国際関係論専攻博士前期課程修了(国際関係学修士)。1989年、テレビ朝日入社(報道局「ニュースステーション」・政治部記者・編成部などに勤務)。米ジョンズホプキンス大学国際関係高等大学院(SAIS)ライシャワーセンター客員研究員、立命館大学産業社会学部教授、米国ジョージワシントン大学アジア研究のためのシグールセンター客員研究員などを経て現職。