87歳で年収2億円、授かった子供は100人…渋沢栄一が規格外の傑物だと語られるワケ
※本稿は、堀江宏樹『偉人の年収』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
■大富豪・渋沢栄一の最後の子供
令和6年(2024年)、日本の紙幣のデザインが約20年ぶりに刷新されることになりました。新1万円札の“顔”に選ばれたのは渋沢栄一。500以上もの起業に携わり、実業界を引退した後は600以上の福祉・教育事業に全力投球していた、凄まじいバイタリティの持ち主です。
渋沢は、「企業が利益を追求するのは自然なことだが、お金儲けのベースには、常に道徳心がなくてはいけない」とする「道徳経済合一説」を唱えていました。
「会社経営の醍醐味は多くの金や権力を独り占めできる点にある!」と言って憚らなかった岩崎弥太郎など、明治時代の一般的な大富豪とは一線を画する立ち位置にいたといえます。
そういう意味では1万円札の“顔”にふさわしい人物なのですが、これまで何回も候補になっては落選するのを繰り返していました。
理由としては、ヒゲがほとんど生えない体質の渋沢の顔面はあまりにツルツルとしていて、従来の印刷技術では偽札が作りやすいと危惧されたから、などと語られています。
しかし本当のところは、その生涯の大部分で華やかな女性関係を持ったことが響いていたのではないか、と筆者は考えてしまいます。
渋沢が認知した最後の子は、彼が68歳の時に生まれています。当時の平均寿命は今より短いので、現代の年齢感覚だと80歳手前でしょうか。認知しなかった子を含めると100人ほど子どもがいた……という“伝説”の持ち主でもあります。
自分の事業の後継者を身内に限らなかったのが渋沢の特色だとよくいわれますが、その中にはなんらかの理由があって認知できなかった子も含まれていたとか、いないとか。
生前に出版された公式伝記といえる『青淵回顧録(せいえんかいころく)』に、彼は非嫡出子の名前も堂々と記させています。子どもたちを平等に扱い、世間に対しても平然としていた渋沢は、破格の器の持ち主でもありました。
■87歳でも年収2億円
渋沢の年収は年齢を重ねるごとに増大していきました。もともと武蔵国の血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれた豪農出身の渋沢ですが、コミュニケーション力の高さと経営センスを買われて一橋家に仕官することになります。そうして武士に“転職”し、京都勤めとなった頃からは金運も開けていきます。
当初は、最低ランクの「奥口番」の仕事で、年収が「4石2人扶持」(約7石)。1石=1両=10万円とする幕末の労賃レートで計算すると、年収70万円。
厳しい数字ですが、これに加えて、物価の高い京都で暮らしていくための滞在手当が毎月「4両1分」(=約40万円)もらえました。
武士としてはさほど高給とはいえないまでも、それなりに稼げるようになった実感はあったと思われます。元治元年(1864年)の話でした。
勤務開始から2カ月後にはもう「奥口番」から「御徒士」に昇進が決まり、基本給が「8石2人扶持」(=約11石=約110万円)、京都滞在手当が毎月「6両」(=60万円)に上がります。基本給の数字は相変わらず低めで、京都滞在手当で食いつないだようですね。
渋沢の出世は続き、そのたびに待遇もジワジワと上がっていきます。徳川慶喜の弟・昭武に随行する形でパリに留学した渋沢ですが、帰国後は紆余曲折あって明治政府での仕事に就いています。
明治2年(1869年)に大蔵省租税司正として勤務開始した時には、月給が133円でした。当時の1円は現代の貨幣価値で約4000円に相当するので、月給53万円あまり。ボーナスなどを考えなくても、年収640万円ほどになっています。
明治6年には大蔵省を早くも辞めて、渋沢は民間の経済人・実業家として活動することになります。そして何百という起業を成功させた後の明治20年(1887年)の所得は9万7316円。現代の価値に換算すると約3億8900万円だったそうです。収入から各種経費を差し引いた数字を所得と呼ぶので、実際はもっと稼いでいたわけですね。
87歳になった昭和2年(1927年)も、所得は35万6000円。昭和初期の1円=現代の636円とすれば、約2.2億円です(当時の1円=2000円の説もあり、そちらを採用すれば7億円以上……)。
それは昼夜を問わず、生涯現役であり続けた彼の人生が生み出した巨額の価値だったといえるでしょう。
■福沢諭吉に救われた北里柴三郎
令和6年(2024年)から刷新される新1000円札の肖像は、医学研究者の野口英世から、日本の医療水準を大きく上げ、北里研究所などを設立した医師の北里柴三郎に。
そして新5000円札は、文学者の樋口一葉から、女子高等教育の実現に心血を注いだ津田梅子の肖像に変わります。
二人とも明治期の日本で偉業を成しましたが、そのキャリアと稼ぎ方からは、興味深い素顔が見えてきます。
明治16年(1883年)、北里柴三郎は東京大学医学部を卒業、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に就職しています。この時の月給は70円。
当時の1円=現代の1万円とすれば月給70万円、ほかにもボーナスなどがありました。高給取りに見えますが、当時のエリート医師としてはこれでも“相場以下”だったそうですよ。
明治中期の日本、とくに地方では、最先端の西洋医学の教育を受けた医師が不足していました。新卒でも地方に行けば、いきなり月給200円(=現代の200万円)の病院長になれるケースもあったようです。
しかし、研究熱心な北里は高い収入より、設備のよい東京の衛生局でコレラの研究を続けることを重視したのです。
のちに北里はドイツに医学留学し、細菌学の権威であるコッホ博士の薫陶を受けました。破傷風の療法を開発するなどの業績もあげて帰国、衛生局に復帰しますが、北里を妬んだ先輩や同僚たちから冷遇される日々が続きました。
帰国後は半年も放置されたあげく、やっと下った辞令では、月給は10円昇給しただけの80円と告げられました(同世代の後藤新平が衛生局長に就任し、月給として200円強をもらっていた時期の話)。
そこに救いの手を差しのべたのが、『学問のすゝめ』の成功で大富豪になっていた福沢諭吉です。彼は北里と出会う前、慶應義塾大学に医学部創設を試みるも失敗していました。ゆえに北里が行っていた研究の重要性を即座に理解し、援助を開始してくれたのです。
■職務の間に学生たちへの指導を無給で行う
のちに北里が所長となる「伝染病研究所」の30坪ほどの建物と、その隣に北里が暮らせる40坪ほどの住居が福沢のポケットマネーで建てられました。研究所で使う医療専門機器については、福沢が紹介してくれた企業家・森村市左衛門の寄付で賄えたそうです。
研究経費は、「大日本私立衛生会」が北里に業務委託するという名目で、年間3600円が支給されるようになりました。
現代でいう3600万円相当、医学の研究費としては大きな額ではないかもしれませんが、この研究経費の一部を北里は自身の俸給に回しながら生活したのだと思われます。
「伝染病研究所」や、北里が始めた医療事業は大きな成功を収め、30万円(=30億円)もの利益を生みました。福沢が送り込んだ慶應義塾出身の田端重晟が、研究所の支配人として北里の活動をサポートしてくれたそうです。この30万円で、北里は新たに「北里研究所」を作ることができました。
福沢の恩を、北里はずっと忘れませんでした。大正5年(1916年)、大日本医師会(のちの日本医師会)会長に就任した北里は、その職務の合間を縫って慶應義塾大学医学部の教壇に立ちます。学生たちへの指導を無給で行った逸話は有名ですね。
大正6年(1917年)以降は貴族院議員の一員となり、この時の議員給は月給2000円。当時の1円=1000円とすれば、月給200万円です。大正13年(1924年)には男爵の位を天皇からいただくなど、絵に描いたような成功を収めています。
晩年にあたる昭和2年(1927年)、彼の所得は6万3000円。現代の1億2600万円ほどだったそうです。若き日には苦労したこともあったものの、後年の北里は経済的にかなり豊かな人生を送りました。
■年収800万円を捨て、女子教育の道を選んだ津田梅子
さて、津田梅子はどうでしょうか。明治4年(1871年)、わずか7歳でアメリカに渡った津田は、当地の私立女子大・ブリンマー大学にて「ラテン語・数学・物理学・天文学・フランス語」で「抜群の成績」を示したのちに卒業(山崎孝子『津田梅子』)。明治15年(1882年)に日本へ帰国します。
アメリカ人女性の中で育った津田は、日本人女性に失望を隠せませんでした。出身階級を問わず、男性の従属物としてしか自身を意識できず、それを疑問にも思わない彼女たちのあり方に彼女は大きな問題を感じたのです。
そうして津田は、日本にも自立した女性を育てる、近代的な女子教育を根付かせたいという志を抱くのでした。
当時の日本には、新しいことはなんでも“上”からスタートする文化がありました。津田の職場は、皇族や華族といった上流階級の女生徒が学ぶ「華族女学校」に決まり、彼女は年収500円(=500万円)で英語教師として働くようになります(ちなみに明治時代、一般的な小学校教員の初年度の年収は200円=現代の200万円弱)。
明治32年(1899年)以降、津田の年収は800円(=800万円)にまで上がり、ほかの女子校の教授職も兼任していました。
しかし、「良家の殿方との結婚がすべて」と考えがちなお嬢様たちから強い学習意欲を感じられない津田は、厚遇されながらも物足りない教師生活を送ります。
本当に学ぶ意欲のある女性のための高等教育機関を作りたい……そんな長年の夢を叶えるため、津田は華族女学校などを辞職し、明治33年(1900年)、「女子英学塾」(のちの津田義塾大学)を設立するのでした。
■年収半減の“滅私奉公型”だが富裕層に囲まれていた
ちなみに学生が支払うべき授業料は1カ月2円、寮代が年額2円50銭、食費が毎月6円程度でした。1カ月8円あまりの学費は、かなりの上流階級向けの印象があります。
現代日本では、家庭全体の教育費を総収入の5〜10%に抑えるのが“理想”とされるようです。しかし、この水準で考えると、女子英学塾に娘を通わせるには、父親が国会議員だったとしても「やや厳しい」といえるほどに学費は高額でした。
明治22年の記録で、日本の国会議員の月俸は67円です。女子英学塾が開校した明治30年代、大卒のエリート男性の初任給が銀行員35円、上級公務員50円。生徒が集まらず、学校経営が長い間、厳しかったのはある意味当然かもしれません。
津田は英語教師として女子英学塾で働きましたが、学校からは給料を受け取らず、空いた時間に大富豪・岩崎家などの家庭教師をして生計を立て、なんとか学校経営を続けていきます。
経営が安定し、津田が学校からの給金を受け取れるようになったのは、女子英学塾に専門学校の認可が下りた明治36年(1903年)以降のこと。しかしこの時でも彼女の年収は300円(=300万円)で、「華族女学校」時代の半額にも満たないものだったそうです。
このように津田は“滅私奉公型”でしたが、彼女の家族、親戚などには富裕な人々が多かったようです。晩年の津田が病気になった時には、「療養用」として土地・建物代が合計1万5600円(=約1億5600万円!)もする豪邸が新築されます。
しかも、場所は高級住宅街として知られる品川の御殿山。また、鎌倉などにも別荘がありました。
理解ある裕福な人々に囲まれていた津田は、本人の収入が比較的限定されていても、豊かな暮らしができていたのかもしれません。
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堀江 宏樹(ほりえ・ひろき)
作家、歴史エッセイスト
大ヒットしてシリーズ化された『乙女の日本史』(東京書籍)、『本当は怖い世界史』(三笠書房)のほか、著書多数。雑誌やWEB媒体のコラムも手掛け、恋愛・金銭事情を通じてわかる歴史人物の素顔、スキャンダラスな史実などをユーモアあふれる筆致で紹介してきた。漫画作品の原案・監修協力も行い、近刊には『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』(KADOKAWA)などがある。
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(作家、歴史エッセイスト 堀江 宏樹)