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新型コロナウイルスの封じ込めに成功し、国際社会からも脚光を浴びた台湾。立役者のひとりであるIT大臣のオードリー・タン氏は一時期日本のメディアでも引っ張りだこの状況だった。

そんな台湾を、「日本のパラレルワールドのよう」と語るのは、ライターの神田桂一さんである。2011年から2019年まで8年間にわたって台湾に通い詰め、カルチャーシーンで働くさまざまな台湾人に取材して書き上げた『台湾対抗文化紀行』を上梓したばかりだ。

神田さんが台湾に惹かれる理由は、日本を含む海外のさまざまな文化を取り入れながらいままさにオリジナルの文化を構築している最中にある、そのダイナミックさ。加えて、社会も人も多分に日本と似たところがありながら、しかし決定的に異なり、ある意味日本の輪郭を外側からたしかめるにあたってもっとも参照すべき相手に思われるからだという。

われわれは、タン氏をブームのように消費するだけでよいのだろうか。もっと、台湾から学べることがあるのではないか。本稿では神田さんに、みずからが台湾を訪れた際の経験もふまえて考察いただく。

サブカルチャーは台湾では「次文化=次に来るカルチャー」と呼ばれる
台湾に行くつもりじゃなかった。はじめは。バックパッカーだったぼくは、真っ白な地図を用意して、自分が行った国をペンで黒く塗りつぶしていくのが趣味だった。はじめはアジアに狙いを定め、一つひとつ、丁寧に黒く塗りつぶしていく(赤ペンだと共産主義化に成功したという意味合いが込められそうなので、あえて黒ペン)。そして、最後に残ったのが、台湾だったのだ。

「台湾か……」

はっきりいって、全然乗り気ではなかった。当時のぼくは、まだいまより若くて、わかりやすい、刺激的なカルチャーショックを求めていたし、巷から聞く台湾の印象は、コンビニが大量にあって、親日的、人々は優しくて、台北の街は東京のよう、と行きたいと思える要素がほぼなかったのである。

まあ、でも、真実は現場にしかないと取材をするなかで経験的に覚えていたので、行ってみないとわからないわけだしと、ぼくはフライトチケットを手配し(往復2万円という破格の値段だった)、台湾に飛んだ。それは、2011年冬のことだ。

でも、そこで、ぼくはみごとに台湾に魅せられてしまうことになる。とにかく、サブカルチャーや、カウンターカルチャーが充実しているのだ。インディー音楽、ZINE、サロンのようなカフェ、DIYのオルタナティブスペース……。ぼくは、そのようなものや場所に出会うため、やがて、台湾に通うようになる。

ちなみに、サブカルチャーは台湾では、次文化(ツゥウェンホア)、次に来るカルチャーと呼ばれ、日本のサブカル(下位文化)にこびりついたネガティブなイメージが全然なくてとてもいい名前だなと思った。

秘密基地っぽいカフェでは、大学生くらいの若者が集まって、反原発の会議をしていた
きっかけは、師大地区にあるレコード屋にふらりと立ち寄ったことだった。そこには所狭しとインディー音楽のCDが置かれており、一つひとつ見てまわるぼくに、店員さんが日本語で話しかけて来てくれた。

「何かお探しですか」

「台湾のインディー音楽で面白いものってありますか」

すると、彼女は、日本のミュージシャンになぞらえて、紹介してくれた。例えば、これは台湾のナンバーガール、これは、台湾のフィッシュマンズ、といったように。日本の音楽が台湾のインディー音楽に影響を与えていることにも驚いた。ちなみに彼女は台湾大学の近くにあるライブハウスで照明のバイトもしていて、やがてぼくもそのライブハウスを訪ねることになる。

本屋にも行った。大きな本屋ではなくて、個人がやっているような独立系のセレクトショップだ。そこには大量の個人がつくったZINEが売られていて、どれもデザインやレイアウト、装丁が凝っていて、このときほど、中国語を読めないことを呪ったことはない(いまなら多少は読める)。