唐辛子に人生を懸ける芥川雅之さん、その生き方とは?(写真:筆者撮影)

派手なルックスで、ノリのいい人。あるいは、コワモテでとっつきづらそうだが、実は心優しい人──。人は見た目のとおりだったり、そうでなかったりする。これは唐辛子も同様である。

「辛い唐辛子は、やっぱり辛い顔をしています。甘いやつは甘い顔をしている。けれど、美しい顔なのにものすごく辛い、小悪魔みたいなやつもいたりするんです」

そう楽しそうに語るのは、奈良県桜井市で唐辛子農家を営む芥川雅之さん(52歳)。有名な品種からレアなものまで、国内屈指の200〜650品種の唐辛子を毎年栽培。独自の手法によってギネス級の辛い唐辛子も生み出し、海外の農園に技術指導も行っている。

激辛メニューを扱うテレビ番組の数々で監修を務め、激辛が売りの飲食店や激辛マニアの間では知らぬ者がいないほど、業界で屈指の唐辛子専門家だ。

唐辛子の美しさに魅了された


一口に唐辛子といってもこんなに多様だ(写真:芥川さん提供)

唐辛子と聞くと、思い浮かぶのは瓶に入った赤い粉か、鷹の爪くらいではないか。少なくとも筆者はそうだったが、芥川さんの農園を訪ねてみて衝撃を受けた。果肉の色は赤、黄色、オレンジ、紫、黒など実に多様だ。形もおなじみの細長いものや、丸くてすべすべしたもの、ゴツゴツしたもの、UFOのようなものなどがある。食べなくても激辛だとわかる、ラスボス的な存在感を放つものもあった。

「唐辛子は形も色もさまざま。育てれば育てるほど、きれいやなと思います。結局、僕は唐辛子の美しさに魅了されているんですよね。毎年、新しい品種と出会うのがすごく楽しみなんです」

そうしみじみと語る芥川さんが脱サラし、唐辛子農家を始めたのは39歳のとき。前職の会社では役員を務め、安定した収入も得ていたが、思い切って転身した。彼を駆り立てたのはいったい何だったのか。

芥川さんは奈良県で生まれた。自然に囲まれた環境で、虫取りやいちご狩りなどをして幼少時代を過ごした。高校卒業後はサーフィンにハマり、フリーターをしながら国内外の海岸を渡り歩くように。やがて彼女ができ、先輩から「女か波乗りか、どちらかにせい」と言われ、20代半ばでサーファーを引退。腰を落ち着けようと、地元にある三輪そうめんのメーカーに就職した。営業として入社したが、こだわりの強い性格の芥川さんは、そうめんづくりのあらゆる工程に携わっていった。

「朝4時に工場に行って、職人さんと一緒にそうめんの仕込みをするんです。その後、8時に会社に戻って、営業活動を始める。商品開発やパッケージデザインにも関わっていたので、遅いと帰りは午後11時でした。3時間くらい寝てまた会社に行く、という生活を10年くらい続けていましたね」

独立を決心するに至った、ある出来事


家族との暮らしもあって、第2の人生を考えたという芥川さん(写真:筆者撮影)

すでに結婚していたが、激務の代償として、家庭を顧みることはできていなかった。心臓病を患い、入退院を繰り返していた3歳の子どもにも寄り添えなかった。結局、看病をほとんど妻に任せたまま、わが子を亡くしてしまう。激しい後悔と自責の念にさいなまれ、芥川さんは第2の人生を考えるようになった。

「精神的に追い込まれて、嫁にもしんどい思いをさせてしまって、もっと家族と一緒に過ごせるような環境をつくらなあかん、と思ったんです。会社にも、私の後を継いでくれそうな社員が何人かいたので、仕事を託して独立しようと決めました。嫁もええんちゃうか、って言ってくれて」

会社は右肩上がりで業績が伸びており、芥川さんも役員に就任していたが、決意は変わらなかった。では独立して何をするか。思い浮かんだのが、仕事で接してきた農家の人々の笑顔だった。そうめんの商品開発のため、各地の小麦農家を訪ねて回るうちに、農家の人々の姿に憧れを抱くようになっていたのだ。

「真夏の暑いときに、農家を訪ねるでしょ。皆さん、真っ黒に日焼けして、歯だけ白くて、ものすごい笑顔で出迎えてくださるんです。素敵やな、と。僕自身、趣味でベランダ菜園をしていたこともあり、農業をしようと思ったんです」

早速、農家の友人のもとに通い、手伝いをしながらイロハを学んでいった。同時に自分でも畑を借り、トラクターなどの設備も用意した。最初に栽培したのは、緑黄色野菜のケール。青汁にして販売しようと考えたのだが、競合が多く、資本力がないと勝ち残るのが難しい。悩んでいるとき、畑の隅っこに植えていた唐辛子の1粒の実が、運命を変えた。


転機を作った、ブートジョロキアという品種(写真:芥川さん提供)

「ブートジョロキアという品種がたくさん育ったのですが、その実の1つが語りかけてきたように感じたんです。何かの暗示だったのかもしれません。写真をFacebookに載せたら、美しいっていう反響がものすごかったこともあり、これだけでやってみよう、って決めたんです」

それからは唐辛子のみを栽培していった。品種は鷹の爪のほか、よく知られているハバネロやブートジョロキア。最初は年間50万円ほどしか売り上げがなかったが、唐辛子を全国販売している農家は少なく、勝算はあると確信した。

唐辛子農家の苦労

“劇物”を扱うゆえの苦労もあった。収穫したハバネロを素手で加工していたとき、途中から手に痛みを感じ、最終的には千切れんばかりの激痛になった。風呂に入ろうとすると、40度のお湯が100度の熱湯に感じ、慌てて飛び出した。うっかり目をこすろうものなら、涙が止まらない。悲惨なのは、生理現象のときだ。

「トイレに行ったときに、ほら、触ってしまいますやん、唐辛子のついた手で。もう、痛くて痛くて(笑)」

枯れた唐辛子を燃やしていたところ、近くを散歩していた人が激しくむせ、「何を燃やしているんや!」と怒られたことも。目が痛むという近隣の人々の通報があり、消防車が駆けつけたこともあるという。

栽培方法も、手探りで研究を重ねていった。唐辛子は条件によって、辛さが数倍も変わる。そのため、土や肥料や水の量などを調整しながら、唐辛子が安定して丈夫に育ち、なおかつ辛くなるように試行錯誤していった。


激辛の粉末がズラリ(写真:芥川さん提供)

2017年、キャロライナリーパーという品種が、当時のギネスブックで世界一辛い唐辛子だと認定された。辛さの指標であるスコヴィル値は、タバスコが約5000のところ、キャロライナリーパーは約164万。しかし芥川農園産のものは、214万というバグった数値をたたき出したのだ。

筆者も試食させてもらった。粉末状に加工したキャロライナリーパーを、麻婆豆腐に3回ほど振って食したところ、大げさでなく口内と内臓を爆撃された感覚がした。

一方、芥川さんの唐辛子は、辛いだけが売りではない。同園で作られた一味唐辛子の粉末の香りをかぐと、市販のそれとはまったく違っていた。素人にも明らかに違いが感じられるほどの豊かな風味。芥川さんは秘訣をこう明かす。

「鷹の爪を原料に使う場合、一般の業者では自然乾燥させた後、窯で水分を飛ばします。大量生産するために仕方ないのですが、熱を加えることで、香りがどうしても消えてしまうんです。うちは三輪そうめんの製法を取り入れ、冷風乾燥をしているので、手間はかかるのですが、本来の色や香りを損なわない仕上がりになっています」

頑固オヤジの店のような商売のスタイル

非効率であっても、とことん質の高い唐辛子をお客さんに届けたい。それが芥川さんのこだわりだ。自らの商売のスタイルを、頑固オヤジの店だと芥川さんは説明する。


変わった品種も多数育てているのが芥川農園の特徴であり、愛だ(写真提供:芥川さん)

「うちは僕ひとりで唐辛子を育てて、加工もしています。だから生産できる量は少ないし、値段も高いけれど、品質は絶対に負けないです。よく『人を雇ってもっと生産したら儲かるのでは?』と言われますが、僕は自分の手でつくることにこだわりたい。同じく、お客さんにも直接、自分の手で発送したいので、販売窓口も1カ所だけにしています」

規模を拡大すると、確かに生産量は上がるが、どうしても自分の目が届かなくなる。すると品質が落ちかねない。また販路を増やすと、他人に販売を委ねることになり、消費者とのつながりが希薄になる。結果、高品質への意識が下がってしまうかもしれない。だからこそ、すべてを自分の手で行うのが、芥川さんの流儀なのだ。有名デパートやスーパーからの出品依頼もすべて断っているという。そのこだわりが消費者からの信頼になり、熱心なファンも増え、ブランドとしても確実に育っている。

会社員時代から、生活も一変した。どんなに忙しくても、雨が降れば畑に出られないし、日が落ちれば農作業はできない。必然的に、のんびり過ごす時間が増えた。芥川さんの母親も、「家におってもぼーっとするだけだから、お天道様の下で体を動かしているほうが気持ちいい」と、毎日手伝いに来てくれているそうだ。妻と2人の娘は、あまり手伝ってくれないのだと嘆くが、それでも生活が豊かになった、と芥川さんは満足げだ。

「今は従業員もいないし、自分たちの生活を守っていったらええわけじゃないですか。会社員のころより収入はちょっと減ったけど、どうにかこうにか食べていけるだけ稼げたらいいかな。それ以上の欲をかく気もまったくないんです」

唐辛子がつなぐ全国の縁

唐辛子農園を始めてうれしかったこと。それは、全国の“唐辛子バカ”と出会えたことだと芥川さんは話す。うわさを聞きつけて、唐辛子好きが農園を訪ねてくれるようになったのだ。なかには有名大学の教授もいるが、唐辛子を前にすると、子どものように無邪気にはしゃぐのだという。芥川さんがそうだったように、唐辛子に一目ぼれした人々が、その愛を語り合う場所になっている。


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ちなみに芥川農園で栽培する唐辛子200〜650品種のうち、市販用は15〜20種類で、それ以外は趣味の観賞用。利益度外視で、どれだけ唐辛子へ愛を注いでいるかが伝わるだろう。

「このドラゴンズブレスという品種は240万スコヴィルで、幻の世界一と言われていますが、正式なスコアはまだわからないんです」

「新しい色の一味唐辛子を作ってみようかなと。ピンクとか緑とか、今までにないものを販売しようかなと思っています」

「いつかメキシコにも視察に行ってみたいです。でもイギリスも唐辛子の一大産地なんですよ。イギリス人は辛いものが大好きで、ガーデニング王国でもあるから、次から次へと新しい品種が生まれています」

唐辛子について話す芥川さんの口調は、熱を帯びる一方だ。辛(から)いという字は辛(つら)いとも読むが、日本一の唐辛子バカの姿は、筆者には幸せにしか見えなかった。


焼けてしまう前の芥川さんの農園。復活が待たれる(写真提供:芥川さん)

2021年7月、芥川農園のガラス温室が火事になった。猛暑のため、電気系統がショートしてしまったのだった。20台以上の消防車が駆けつけて鎮火したが、唐辛子の苗や設備や資材は跡形もなくなった。

ショックは大きく、廃業も考えたが、「やっぱり唐辛子たちに囲まれたこの仕事が大好きで、続けたいと感じました」と芥川さんは前向きだ。温室の復旧のために開始したクラウドファンディングには、唐辛子や芥川さんのファンからの支援が相次いでいる。

唐辛子は体だけでなく、ときに心もポカポカにしてくれる。多くの人にその魅力を届けるべく、芥川さんの奮闘は続いていく。