「自分語り乙」「文才ない」「完璧主義」...“書く”を妨げられたときの突破口
自己発信することでキャリアが広がるようになった今、SNSやブログなどで「何か書いてみよう!」と挑戦する人が増えています。
でも、「何を書けばいいのかわからない」「この文章でいいのか?」などとつまづき、結局「続けられなかった…」と落ち込んだ経験はありませんか?
そんな方にぜひ手にとってほしいのが、新R25でも活躍しているフリーランスライター・いしかわゆきさんの著書『書く習慣 〜自分と人生が変わるいちばん大切な文章力〜』。
「どんなにノウハウやテクニックを学んでも、そもそも書くのが好きではなかったら続けるのはつらいこと。でも、『書きたい』気持ちを育みながら書き続けてさえいれば、勝手に文章はうまくなっていく」と言います。
書きたい気持ちを高め、「書く」ことを無理なく楽しく続けるにはどうしたらいいのか?
書くことを習慣化するコツや、日常生活でのネタの探し方など、「書く」以外にも応用できるヒントを一部抜粋してお届けします!
文章を書くのに文才はいらない
よく、「文章を書く」ことと「文才」はセットで語られます。
「文章が書ける人は、文才がある選ばれし人」「だから、凡人のわたしたちが文章を書くのは恥ずかしい」そう思うこともあるかもしれません。
でもあくまで文才は、小説家や詩人のように、自分の思い描いた物語を読者に届ける目的において必要になるものです。
まるで鮮明な映像が目の前に浮かび上がるかのごとく、情景を巧みに描いたり、心の動きを繊細に表現したりする人にのみ求められるものであって、それ以外の人には必要がないと思うのです。
別にゲームの才能がなくても、ゲームオーバーを連発しながらゲームをやっていいように、文才がなくても文章を書いていいし、それについて咎められる理由なんてなにもないんです。
こう言ってはなんですが、世の中のビジネス書をパラパラとめくってみても、すべてに対して「文才があるなぁ…」とは思わないじゃないですか。
そう、究極的には、文才がなくても誰かに伝わりさえすればいいんです。
そもそも「文才」というのは、すごく曖昧な言葉です。
端的に言えば「文章を巧みに書く才能」という意味ですが、「巧み」といってもどのくらい巧みなのかわからないし、そんなものにとらわれてなにも書かないほうがずっともったいないこと。
だから「自分には文才がないなぁ」という思い込みは捨てちゃってください。
むしろ、「文才がないと気づけるほどたくさん文章を書いたのかよ!」と、ビンタしにいきたいくらいです。
たしかに、他の人の文章を見て「うまいなぁ」と思うことはあるでしょう。
わたしも大学時代に文芸サークルにいたときは、同級生が紡ぎ出す美しい物語に「これを同い年の人が書いたなんて!」と度肝を抜かれました。
でも、それが「文才」だとは思いません。
だってそれは、「才能」じゃなくて「努力」の賜物だからです。
"「はっきりと言っておこう。自らの才能を問う人は、“諦めの材料”を探しているだけだ。もっと言えば夢をあきらめる“言い訳”を探しているだけだ」"
出典 古賀史健著『20歳の自分に受けさせたい文章講義』
これは、『嫌われる勇気』など数多くのベストセラーを手がけたライターの古賀史健さんの著書『20歳の自分に受けさせたい文章講義』のなかの一文です。
文章にかぎらず、「才能がないからできない」と嘆いているあいだはなにもできないということ。
大事なのは、才能の有無にとらわれず、とにかく書きつづけることです。
最初は、読むのも嫌かもしれない。
他の人と比べて落ち込むかもしれない。
そんな「才能がないかもしれない」場面にぶち当たっても、どうか書くのをやめないでください。
書きつづければ、誰でも絶対に書けるようになりますから。
誰でもなく、「自分のため」に書いていい
「自分語りになってしまいそうで嫌だ」
「文章を書けない理由」についてアンケートをとったとき、こんな回答をもらったことがあります。
これは、昨今の「やさしくないインターネット」の弊害ではないでしょうか。
ちょっと自分語りをしようものなら「自分語り乙」「隙あらば自分語り」と、心ない人から鋭い矢が飛んできそうで、気持ちよく自分語りができない世界になってしまったのです。
これはとても悲しいことです。
わたしは「自分語り」をすることのなにがおかしいのか全然わかりません。
「雑談」や「話しかた」の本を読むとわかりますが、「人は自分の話をしたいので、聞き手に徹しましょう」「適度に相槌を打ったり、部分的に要約を挟んだりして、相手に気持ちよく話させてあげましょう」なんて書いてあります。
要するに、大半の人が本質的には自分語りをしたがっています。
人は誰よりも自分のことが大切で、自分のことを語りたい生き物なのです。
あなたも誰かの自分語りに共感したり感動したりしたことはありませんか?
これまでの半生を綴った自伝、自分の夢を大々的に語ったスピーチ、日常的に感じた気持ちを吐露するエッセイ…。
こうして並べてみると、世にあるもののなかに、いかに「自分語り」が多いかがわかると思います。
だから、「自分語りになっちゃう…」なんて悩むことは杞憂です。
むしろ、自分語りをするために書いていい。
「誰かのために書こう」「誰かにとってタメになる話をしよう」なんて考えるのは、もうちょっと先の話。
まずは、自分だけのために、自分のことを語るために筆(スマホ)を手に取ってみましょう。
まずはその「メイク」を脱ぎ捨てよう
文章を書くことに慣れようとするとき、「誰にも見せない前提で書く」というのはとても大切です。
なぜなら「誰かに見せる文章」と「誰にも見せない文章」は、本音度合いがまったく違うからです。
人は無意識のうちに他人の目を気にしながら生きています。
家にいるときは、口のまわりに歯磨き粉が付いていても気にしないかもしれませんが、外に出るとなると、一応鏡で顔をチェックしてから出かけますよね。
「アンガーマネジメント」という、おもに教育者や指導者が学ぶ、「怒りの感情」を自分でコントロールすることを目的とした心理教育があります。
そのなかにも、「人前で相手を怒ると、相手がそれを『見せしめ』だと思い込み、反発して話を聞いてくれなくなる」という考えがあります。
「他人の視線」というのは無意識下でも気になるものなのです。
たとえ、「自分は家でも外でもあまり変わらないよ」という人でも、本人の気づかないところで確実に振る舞いは変わってくるはずです。
それと同じで、文章も「誰かに見せるもの」となると、途端にかしこまって、身構えて、綺麗事ばかりが並んだものになりがちです。
本人が意図しなくても、バッチリメイクの余所行きの顔をした文章になってしまうんです。
たとえば「あの上司はほんとクソだわ」という本音も、人に見せるとなると「あの上司は言いかたがキツい。いや、いい人なんだけどね」ぐらいにマイルドになります。
もはやちょっと嘘ですよね、これって。
本当に人に伝わる面白い文章とは、綺麗な言葉ばかりが並んでいるものではなく、その人の心からの本音が書いてあるものだと思っています。
本音だからこそ、「面白い!」という反応が得られるのです。
でも、文章を書き慣れていないと、まわりの反応を気にして当たり障りのないものを書いてしまいがちです。
だからこそ、はじめのうちは、「誰にも見られない前提」で書こう。
誰にも見せずに練習を重ね、まずは本音を言葉にするのに慣れることからはじめてみてください。
「よくこんなことまで書けるなぁ」という、身のまわりの恥ずかしいことを暴露している赤裸々なエッセイストも、きっとはじめは誰にも見せない小さな日記帳からはじまったはずだから。
「完璧主義」を捨てて、どんな形でもいいからおわらせる
「完璧主義」という性質も、文章を書くうえでマイナス要素になりかねません。
つねに完璧な自分でいたいから、まずは作業の前に要件を整理して、誤字脱字をくまなくチェックして、「手伝おうか?」の言葉も無視してひとりで成し遂げようと頑張って…。
そんな完璧主義の人はとても多いのです。
その結果、どうなるでしょうか?
ひとりでこだわりすぎて締め切りギリギリになってしまい、それでも完璧じゃないから提出できなくて、睡眠時間を削って朝まで粘って…って、その時点でもはや締め切りを過ぎてるんですね。
全然完璧じゃないんです。
そういうわたしも、これまでずっと完璧主義が捨てられませんでした。
ライターになって初めて書いた原稿は、週間たっぷり使って「ああでもない、こうでもない」と何度もこねくり回し、期日を過ぎてもなかなか完成させられずにいました。
要するに完璧主義の人は、単純に「完璧を求める不完全な人」なんです。
では、そもそも「完璧」とは一体なんなのでしょうか。
よく考えてみると、価値観というのは人それぞれなので、「完璧」の基準も人によってズレているのが当たり前だということに気づくと思います。
「締め切りまでに出せば完璧」という人もいれば、「とりあえず形になっていれば完璧」という人もいますよね。
以前、締め切りがギリギリすぎるあまり、「これでいいや!」と半ば投げやりになって出した文章が上司に大絶賛されて拍子抜けしたことがあります。
自分が過小評価していたものが、じつはそうでもなかったことって往々にしてあるのです。
つまり、100点を目指して延々と労力をつぎ込むのはあまり意味がない。
第三者から見ればこのままでも充分いいものなのに、「いや、まだ完璧じゃない!」と言い張って黙々とやり込むのが完璧主義者なのです。
職人ならまだしも、すべての事柄にそんな姿勢で取り組んでいたら疲れてしまいますし、いつまでたっても報われませんよね。
そんな完璧主義の人に必要なのは、「おわらせる勇気」。
どんな形でもいいから、今取り組んでいるものに幕を引いてあげること。
文章を書いているうちに、「あれ、この文章は最終的にどこに着地するんだろう?」と迷子になってくることもあります。
実際にわたしのもとに届いた相談のなかにも、「どうやっておわればいいのかわからない…」という声が多数ありました。
そこでわたしがよく用いる方法は、「おわり!」と自分から言ってしまうこと。
ちょっと強引ですよね。
でも、実際にそう宣言することで、ちゃんとおわるからいいんです。
わたしは何度もこのやりかたで幕を下ろしてきました。
「なんだか言いたいことがまとまらなかったから、おわります!」って。
所詮自分で書いた文章ですから、なにをやっても自由。
作者が「おわり!」と言って筆をおいたら「おわり」なんです。
忘れないでほしい。
わたしたちは完璧主義者。
おわりなき旅路をうっかり歩んでしまう者たちです。
「読後感のよいおわらせかたはなんだろう…」とぐるぐる悩んで、半年間も文章を寝かせるよりは、無理やりにでもおわらせて新しい旅路を歩みましょう。
素敵な締め文を考えるのは、きちんとおわらせることに慣れてからの話です。
「私にも書けそう!」と背中を押してくれる優しい一冊
「書く」ってもっと自由でいいんだなあ…。
同書を読み終えたとき、真面目に考えすぎていた気持ちがほろほろと崩れていくような感覚になるはずです。
何かを始めようとするとき、つい「完璧にしなきゃ」「頑張らなきゃ」と思ってしまいがちですが、「自分が思っている以上にハードルを下げて取り組んでいいんだ」と思える、実践に基づいた“ゆるく楽しく続けるコツ”が詰まっています。
いしかわさんの優しい言葉の数々に、「これなら書くことを楽しく続けられそう」と背中を押してもらえる一冊です。