中森明菜『少女A』を生んだ売野雅勇が明かす、初対面で抱いた“意外な印象”
「『少女A』がヒットするなんて、当時はまったく想像できなかった。本当に数奇な巡り合わせで生まれた曲なんだ。でも、(歌詞をまとめた)原稿用紙の表紙に書いた初期タイトル『少女A(16)』が非常に強くて、あの言葉のパワーによって運命が決められていたのではないかと思うほどで、不思議でならなかった」(売野雅勇、以下同)
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「じれったい」のサビは後から生まれた
1980年代を中心に数多くのヒット曲を放ってきた中森明菜が、7月13日で56歳の誕生日を迎えた。デビュー40年目でもある2021年は、アナログレコード30枚をまとめたBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991』がオリコンアルバム週間98位にランクイン。
また、日本テレビの音楽特番『THE MUSIC DAY』が実施した「1万人が選ぶ世代を超えた最強アイドルランキング」でも、松田聖子、モーニング娘。、AKB48に次ぎ第4位に。いずれも'17年以降は表立った活動がないことを考えると大健闘の数字で、まさに“記録にも記憶にも残る歌姫”と言えるだろう。
彼女の最初のシングルヒットが、2作目の『少女A』(オリコン最高5位、累計約40万枚)。いわゆる“ツッパリ系”歌詞の歌謡ロックチューンで、当時、本人がレコーディングを嫌がったというのは有名な話だろう。とはいえ、その後2年間にわたって同じ作詞家の売野雅勇を起用することで『1/2の神話』、『禁区』、『十戒(1984)』と大ヒット曲を放ち、結果として、彼女がトップスターに躍り出る大きなきっかけとなった。
その対極となる『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トワイライト』といった来生えつこ・来生たかお姉弟コンビが描いた穏やかな路線も、彼女の大きな持ち味となったのだが、もし『少女A』でなく、当初に予定されていた来生姉弟による同路線の『あなたのポートレート』がシングルとなっていたら、続く2年間で彼女のファンはここまで広がらなかっただろう。売野が中森明菜に書いた9曲のうち4曲がシングルA面に採用されたことからも、それだけインパクト抜群の作品を書き上げたのだ。
それにしても、冒頭の売野の言葉にあるように、この『少女A』は“さまざまな偶然が積み重なって生まれた”というのも興味深い。その経緯は売野雅勇の著書『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代 疾走の日々』(朝日新聞出版)に詳しいが、売野自身も、まるで運命に導かれるように作詞家人生がスタートしたことを明かしてくれた。
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1982年の3月、中森明菜が当時、所属していた事務所が新たな楽曲候補を募集していることを知った売野は、周囲の勧めもあり、初めてアイドルの歌詞を書いた。応募したのは、歌詞に曲もつけて提出する形式のコンペティションだった。
「最初に、別の作曲家によるフォーク路線のメロディーをつけて出したものはボツになったのに、なぜか歌詞だけが生き残ったんだ。そこで、別のメロディーを詞に乗せて再提出することになり、同じ事務所だった芹澤廣明さんに頼む際、“一から作るのは大変だから、芹澤さんのストック曲の中から選んでみて”とマネージャーに言われて。
ちょうどその中に、漫画家の先生が先に歌詞をつけていたものが残っていたんだ。その人も俺も、小節数を意識しない、作詞家としては素人の書き方をしていたから(笑)、Aメロがやたらと長い曲でね。メロディーが、僕の詞ともピタリとハマった。そして、元々あったサビの『ねえあなた ねえあなた』という部分を『じれったい じれったい』という歌詞に変えたら、ほぼ完成形となったんだ」
その後、タイトルの微調整や歌詞の1番と2番の入れ替え、さらに、(歌うことを嫌がった)明菜自身を説得することで、ようやく1度だけレコーディングを決行。CDジャケットに写る明菜も、当時の心境が顔に出たのか、やけにふてくされた表情となっている。それが歌詞の世界観をよりリアルに伝えることになり、『ザ・ベストテン』(TBS系)でも、新人アイドルとしては異例の11週連続ベストテン入りを記録したのだろう。しかし、そのランクイン中も明菜は「『少女A』よりも『スローモーション』が好き」と口にするほど、拒否反応を示し続けていた。
「なにしろ楽曲が『少女A』に決まったときから、ピリピリしていたからね。確か、『キャンセル!』(『少女A』 の後に出た2ndアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』収録曲)のレコーディングのとき、当時のディレクター・島田雄三さんが僕を気遣ってスタジオで彼女と会わせてくれたんだけど、本当に形式的にサッと一言二言、交わしただけで。目も合わせてくれなかったかな。“あっ、この子は俺のこと、キライなんだな”って(笑)。『少女A』も、シングルでヒットさせるためには仕方ないって思って、歌ったんじゃないかな。
でも、悪い子だとはまったく思わなかったね。寂しがり屋というか、人懐っこいところが本当はあるんだと、なぜだかすぐに分かった。冷たいとか、意地悪な人という印象もなく、むしろ自分に近いものを感じたね。だから、嫌な思いは全然していないよ。あの対面で彼女の二面性や純粋な部分を感じられことが、『1/2の神話』の作詞につながったんだと思う」
『1/2の神話』『禁区』制作の背景
シングル4作目となった『1/2の神話』は、しっとりとしたバラードの前作『セカンド・ラブ』とは打って変わって、激しいロックチューン。売野のワークショップ仲間で、まだデビュー前だった大沢誉志幸が作曲を手がけたが、売野にとっても大沢にとっても初のオリコン1位(6週連続)、『ザ・ベストテン』でも7週連続1位となった。
「この『1/2の神話』は最初、『不良1/2』ってタイトルにしていたんだけれど、レコード会社から『1/2の神話』に変更されたんだ。でも、歌詞はそのままで、むしろ歓迎されたんじゃないかな。とにかくタイトルだけ変えたい、と。
そういえば、『禁区』(シングル6作目)のときも、“明菜が拒否反応を出すだろうから、タイトルだけ変えてくれ”って。歌詞にこのワードが出てくるのはいいけれど、タイトルになったときに彼女が抱く印象が気になっていたみたい。それを恐れて、仮に付けさせられたのが『芽ばえ』だった。“発売する直前に、『禁区』にすり替えるから”ってディレクターに言われてね」
ちなみに、売野が中国に行った際、倉庫に大きく書かれた“進入禁止”を意味する“禁区”という文字があまりに衝撃的で、タイトルに使ったのだという。その『禁区』がどのようにして生まれたのかも語ってもらった。
「『禁区』を作ることになったときに、作曲を担当した細野(晴臣)さんと会って、詞を先に書いたものと、曲を先に書いたものをそれぞれ作って交換しようということになって。そのときに詞先で誕生したのが『禁区』。だけど、細野さんが曲先で作ってくれたものが、なぜだかボツということで、俺には渡してくれなかった。
そのメロディーに松本隆さんが詞を付けたのが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が歌った『過激な淑女』だよ。だから、(ちまたでウワサされたように)松本さんが明菜向けに書いた歌詞が、明菜サイドの問題でNGになった、というわけではないんだ」
この年は、YMOが春ごろに化粧品キャンペーンソング『君に、胸キュン。』で再ブレイクしたり、細野が作曲を手がけた松田聖子の『天国のキッス』や藤村美樹の『夢・恋・人』がヒットしたりと、細野晴臣らしいテクノポップスが大衆に受け入れられていた。そこに、売野雅勇が明菜に当て書きした、“強気さのなかに秘める純粋な部分”がよりクローズアップされた歌詞や、これまでよりも緩急を効かせた明菜の歌唱が意外なハマり方をして、従来のツッパリ路線ともテクノ歌謡とも一線を画する楽曲が生まれた。
その結果、アイリーン・キャラの『フラッシュダンス』や杏里の『CAT'S EYE』など、その年に大ヒットした映画とアニメの主題歌がヒットするなかでオリコン1位を1週獲得、洋楽曲を含まない『ザ・ベストテン』では、返り咲きを含み合計7週1位に。
明菜と売野、実は近しい存在 !?
なお、'83年から'84年にかけては『禁区』のほかに、『ルネサンス―優しさで変えて―』、『モナムール(グラスに半分の黄昏)』、『100℃バカンス』と合計4曲が、作詞・売野雅勇、作曲・細野晴臣のタッグで作られている。ここでの4曲は、それ以前の強さを押し出した歌唱から変化を見せているので、明菜自身もそれなりに理解を示していたのではないだろうか。
「細野さんがメロディーをつけてくれたものは、デモテープの段階から“もろYMO”って感じがして完全な状態で、めちゃくちゃカッコいいんだよ! この時期の曲は、アルバム用に依頼されて、曲が先に作られたあとに詞を書いたんだと思う。でも、その前の『キャンセル!』や『思春期』(ともにアルバム曲)は、もともとはシングル狙いで書いたね。あと、レコーディングはしなくて幻になったけれど『接吻(キス)』という作品も、そのころに書いたよ」
明菜自身は、この後『十戒(1984)』(1984年7月発売、シングル9作目)を最後に売野雅勇作品から離れていった。しかし、この2年間、“自分が好きな曲”と“ヒットする曲”の違いを認識することで、プロとしての自覚をより強く持ったのか、アイドルと呼ばれつつも自身の衣装や楽曲などをセルフ・プロデュースし始めるなど、本格的なアーティストとしての側面も垣間見えるようになった。彼女の新たな魅力が開花したという点から見ても、やはり、売野雅勇との出会いは大きいはず。そう考えると、中森明菜の『少女A』は、日本の歌謡曲史をひも解くうえでも重要な1曲と言えるだろう。
「俺にとっては『少女A』がすべての始まり。明菜や俺、芹澤さんを始めとして、いろんな人の人生を背負った楽曲になったと思う。それと、俺はだいたい不良が好きなんだよね。決して本格的な不良じゃなくて、(心に葛藤を抱える)“不良っぽいやつ”が。周りの友達もそんなのばかりで、優等生はむしろ嫌いだったんだ。だから、明菜ちゃんの歌い方はすごく伝わるものがあるし、俺と彼女は、本当は近いものを持っている存在だと思っているよ。もし、中学のときとかに同じ学年だったら、告白していたかも……なんて(笑)」
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
うりの・まさお ◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、河合夕子『東京チーク・ガール』、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子などに数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。'90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。