JR津田沼駅前の津田沼パルコ(千葉県船橋市)が2023年2月末に閉店することになったと報じられ、地元の人々に大きな衝撃が広がっている。

津田沼パルコの開業は1977年だった。当時の津田沼駅前には大型店の進出が相次ぎ、「津田沼戦争」と呼ばれるほどの激しい商戦が繰り広げられていた。以来、約43年にわたってJR津田沼駅前で営業してきたが、近年はテナントの売上高の減少傾向が続いていたという。

そんな中、津田沼パルコ閉店を惜しむ地元民の間で、1枚の写真がツイッターで話題となっている。それが、この写真だ。


1980年の津田沼駅北口(手塚博禮さん撮影、船橋市郷土資料館所蔵)

1980年というから、津田沼パルコの開店から3年ほど経過した頃の写真のようだ。今から40年前だ。現在の津田沼駅前とはずいぶん様子が違う。

40年前の写真を見たツイッター・ユーザーからは、こんな声が寄せられている。

「懐かしいです。 現在はバスのロータリーになっている場所をJR津田沼駅から見た風景ですね。 漫画『キン肉マン』の連載当初、やたら吉野家を推していて。興味本位でここの吉野家に食べに行った事あります。 この頃、PARCOの屋上には自由の女神像が立っていて、駅からも見えたかと」
「PARCO津田沼店、2023年2月末に閉店することが決まったのは残念。(開業は1977年か) 中学から大学まで、店内の書店をよく利用しました。(今、くまざわ書店だけど当時は芳林堂書店) 同じ階にポストホビーと山野楽器も入ってたんだよな」
「初期には地下にフルーツパーラーがあって、そこで子供の頃プリンアラモードを知った記憶が・・・ 80年代には1階にダンキンドーナツがありませんでしたっけ・・・?」

Jタウンネット記者は、この写真を所蔵する船橋市郷土資料館に聞いてみることにした。

「津田沼戦争」が繰り広げられていた頃?


1980年の津田沼駅北口(手塚博禮さん撮影、船橋市郷土資料館所蔵)

Jタウンネットの取材に応じたのは、船橋市郷土資料館の学芸員だ。

上の写真は、船橋市郷土資料館が2009年に発行した「新版 船橋のアルバム」に掲載されたもので、そこには次のような解説が付けられているという。

「津田沼駅北口土地区画整理事業にともない、飲食店などの仮設店舗が軒を連ねていた。パルコ津田沼店は昭和52(1977)年7月に開店した。左側、東金街道・成田街道方面へ向かう通りに木々が見える。写真撮影後に駅前上空連絡通路(デッキ)の建設が始まる。 撮影:手塚博禮」

撮影者の手塚博禮さんは、地元の定点撮影を熱心に行っていた、元教師だったという。

この頃の津田沼の状況について、郷土資料館学芸員はこう語った。

「1976年長崎屋津田沼店開店、1977年のパルコ(・イトーヨーカドー)開店・1978年のサンポー・長崎屋閉店とサンペデック開店と、商業施設の開店・閉店が頻繁に行われていました。『津田沼戦争』と呼ばれたのはそのためです」

津田沼駅前には、西友、パルコ、丸井、ダイエー、イトーヨーカ堂などといった大手流通業界の店舗が揃い、まさに戦争と呼ばれるほどの熾烈な商戦が展開され、活気があふれていた時代のようだ。

仮設店舗に関しては、現在のパルコ付近にあった店舗は、ビルが完成するまでの間、駅前に設置された仮設店舗で営業していたという。

仮設店舗で営業した地権者の店の中には、写真(上)前面に見える「かし熊」がある。津田沼(船橋市前原西)で、長く旅館業、飲食業、不動産事業を続けている企業だ。同社が管理している「パスタビル」は、津田沼駅の利用者層には、なじみ深い建物かもしれない。

この仮設店舗があった場所には1987年、ペデストリアンデッキ(駅舎と接続して建設された高架歩道)ができた。


2012年の津田沼パルコ(掬茶さん撮影、Wikimedia Commonsより)

1977年に津田沼パルコができて、津田沼駅前のイメージは変わったのだろうか? 学芸員に聞くと、

「私自身は1977年当時生まれていないので、文献を読んでの感想しかお伝えできませんが、津田沼パルコだけでイメージが変わったという記述は見たことがありません。上述した、さまざまな商業施設の開店(と閉店)や、それらと関連する津田沼駅北口商店街の再開発等によってイメージが変わった可能性が考えられます」

......と慎重に言葉を選びながら、回答した。たしかに、パルコだけではなく、その他の店との複合的な要因が考えられるだろう。

ただ津田沼駅北口の広々としたペデストリアンデッキと、その目の前にあるパルコのインパクトは大きかった。津田沼といえば、やはりパルコだ。

だが、その津田沼パルコも、2年後、閉店する。惜しむ声は尽きそうもない。