2005年、堺と濱崎氏(左)が共演した『宮城野』は、劇作家・ 矢代静一作の、男女の心理的な愛憎劇を描いた作品だ(『宮城野』のパンフレットより)

 7月19日、新シリーズがスタートした、堺雅人(46)主演のドラマ『半沢直樹』(TBS系)。初回視聴率は22.0%、第2話は22.1%を記録し、2020年に放送された全ドラマで、視聴率1位タイとなった(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。

 前作で話題になった「倍返しだ!」など、記憶に残る名セリフもさることながら、「ドラマの人気は、堺さんの演技力によるところが大きい」と語るのは、番組関係者だ。

「若手社員役の今田美桜さんは、『堺さんは、カメラが回ってないときはものすごく優しいけど、半沢直樹になると、重厚さや厳しさが肌身に突き刺さるほど、緊張感があります』と周囲に語っています」

“令和の名優” は、いかにして生まれたのかーー。3人兄弟の長男として、兵庫県神戸市で生まれた堺は、直後に宮崎市へ引っ越し、幼少期をそこで過ごした。

 宮崎大学教育学部附属中学校から、県内屈指の名門・宮崎南高校に進学する。朝から晩まで大学受験を意識した、厳しい授業のある高校で、堺が息抜きの場を求めて選んだのが、演劇部だった。

「部員がほとんどいないので、自由にできるのがよかったのでしょう。最初は先輩がひとりしかいなかったのに、堺くんに憧れた後輩が入ってきて、彼が高校3年のときには、部員が20人ほどに増えていました。『ファンクラブ』を結成する女子もいました」(地元の友人)

 演劇にのめり込んだ堺は、高校1年の夏、県主催の1泊2日の演劇研修会に参加した。講師を務めた、宮崎市在住の女優・濱崎けい子氏(75)が語る。

「70人ぐらいで、太平洋戦争を題材とした群読劇をやることになったんです。『この役をやりたい人?』と聞くと、堺くんだけが『ハイ!』。また『この役をやりたい人?』と聞くと、堺くんが『ハイ!』。それじゃ、役が決まらない(笑)。とにかく、積極的な子でした」

 堺は3年生になると、自身が座長を務める舞台『飛龍伝』を公演した。

「パワフルな劇に、圧倒されました。研修会で私は、『若いうちは、元気のある演技を。うまい演技は、年を取ってからでいい』と話したんです。それを覚えててくれたのかな」(同前)

 原作は、つかこうへい。1960年代の、東大安保闘争が舞台だ。

「この時代の東京の大学がどんな雰囲気だったか、何度も聞きに来ましたよ」

 そう語るのは、堺が自身の著書『文・堺雅人』で、“唯一の師” として名前を挙げた、歌人の伊藤一彦氏(76)だ。

「当時、私はスクールカウンセラーを務めていました。カウンセリングルームが演劇部の近くにあったからか、堺くんがよくやってきました。彼は、『質問魔』なんですよ」

 堺が高校2年のとき、自作の脚本が九州高校演劇コンクールで創作脚本賞を受賞している。堺には、脚本家としての才能もあったのだ。

「小学生のとき、『買いたい本がある』と、新聞に投書して図書券をもらっていました。『どんなことを書けば採用されるか、わかる』と豪語するほどでした。高校時代の模試では、偏差値が80を超えることもありました」(地元の同級生)

 前出の伊藤氏も続ける。

「国語の教師が、『堺に100点を取られないよう、試験問題を作るのに苦労した』なんて、話していたほどです」

高校時代、宮崎でパントマイマー・後藤慶子氏の公演に参加。ピエロに扮し、人気を博した

 もともと、「国立大を出て官僚になるのが希望」だった堺だが、早稲田大学出身の伊藤氏の影響もあり、同大の第一文学部に入学。名だたる演劇人を輩出した「演劇研究会」で、過酷な稽古に打ち込んだ。

「当時は、まだ演劇で食っていくつもりはなかったと思います。でも、演劇にのめり込んだせいで、大学で自分の希望する専修に進めなくなったそうです」(前出の友人)

 大学3年の春に、突如として大学を中退。家族には、事後報告だった。

「実家からは、勘当状態が続きました。テレビの仕事もなく、友人に奢ってもらい、食いつなぐ時期もありました」(同前)

 だが、この時期に堺が、“令和の名優” となるための素質を磨いていたのは間違いない。濱崎氏が語る。

「彼が宮崎に戻ってきたときのことです。飲み会の席で、ただ脚を組んで座っている姿に、ゾクッとしてね。それまで感じたことのない “オーラ” を、初めて感じたの」

 そしてついに堺は2000年、NHK連続テレビ小説『オードリー』に出演し、全国区で知られるようになる。27歳のときだった。

「その当時、宮崎市内で飲んでいたら、堺くんの父親から『息子が、NHKの朝ドラに出ているんです。観てくれなくては』と自慢されたんです。

『観てくれなくては』という言葉には、“早稲田の文学部という就職が難しいところにやったのは先生のせいだから、責任を取って見届けてくれ” という意味もあったのでしょうね(笑)」(伊藤氏)

 両親からの連絡で、堺の勘当は解け、のちに東京へ両親を呼び寄せるほど、“芸能人” として成功を収めた。だが彼は、故郷を見捨てたわけではない。ここから、堺の「恩返し」が始まるのだ。

「2000年ごろ一緒に飲んだとき、『私の宮崎の劇団が、2005年に20周年を迎えるの。そのとき一緒に、芝居をやりたいな』と言ったら、『やりましょう』と快諾してくれたんです。でも2004年に、『新選組!』(NHK)が大ブレイクして。忙しいから無理だろうな、と諦めていたんです。

 ところが彼は、『僕は、約束したならやります。来年の夏、1カ月空けておきました』と言ってくれたんです」(濱崎氏)

 だが、所属事務所にとっては、まさに稼ぎ時。出演依頼が殺到していたはずだ。

「堺くんは、大切な時期なのに事務所も通さず、個人で出演してくれたんですよ。しかも堺くんのファンも、宮崎まで来てくれました」

 まさに、リアル『半沢直樹』ばりに、情に厚い男だったのだ。前出の同級生もまた、堺の “恩返し” ぶりを語る。

「2010年に、宮崎で家畜の口蹄疫が蔓延したときも、心配して帰ってきてくれました。いまでも定期的に帰ってくるのは、故郷の宮崎を大切にしてくれているからだと思います」

 受けた恩は、“倍返し” いや “100倍返し” する男、堺雅人。放送中のドラマでは、今後どんな “返し” を披露するのか、楽しみだ。

(週刊FLASH 2020年8月18・25日号)