口腔外バキュームを導入し、感染防止の取り組みを徹底(サッカー通りみなみデンタルオフィス、撮影は筆者)

新型コロナウイルスの感染が確認される以前の昨年12月〜今年1月と比べてみたところ、4〜5月の来院患者さんの数は4割も減っていた。ゴールデンウィークも重なって、5月は特に厳しかった」

東京・文京区で「サッカー通りみなみデンタルオフィス」を営む橋村威慶(たかよし)院長は、「今までこんな経験をしたことはない」と打ち明ける。

この歯科診療所の周辺には医療系の出版社などが多く所在し、昼間人口は夜間人口の約10倍に達する。そこにコロナウイルスの感染拡大が直撃し、4月7日の緊急事態宣言発令以降、多くの会社員が在宅勤務を余儀なくされた。周辺の住宅地で暮らす患者も、「歯科医院は感染リスクが高い」などといった報道やSNSの書き込みを見て、通院を手控えるようになった。

緊急事態宣言後、深刻な受診抑制に直面

橋村院長が文京区内で歯科診療所を開業したのは2019年5月。開業当時から院内感染防止対策に力を入れており、診療報酬算定上の施設基準である「歯科外来診療環境体制加算」(外来環)を届け出ている。

これは、院内感染防止対策に取り組む歯科医療機関が初・再診料に上乗せして請求できる診療報酬上の加算であり、歯を削る際に発生する飛沫などを吸引する装置(口腔外バキューム)の導入などが条件。橋村院長の歯科診療所では4台あるユニット(診療台)にそれぞれ固定式の吸引装置を備えている。

「新型コロナの感染拡大が問題となって以降は換気や消毒もさらに徹底し、院内感染防止対策にはことのほか力を入れてきた」(橋村院長)

しかし、いったん発生した受診抑制はなかなか元には戻らない。

「5月25日に緊急事態宣言が解除された後も、来院患者数の回復ペースは鈍い。当院はもともと歯周病予防など定期的なメンテナンス治療に力を入れてきたが、そうした治療が世の中から『不要不急』なものとみなされたことが今も影響している」(橋村院長)

歯科医院への来院患者が激減したきっかけの1つとして、厚生労働省のアナウンスメントを挙げる歯科医療関係者は少なくない。同省は東京都など7都府県に緊急事態宣言が発令される前日の4月6日に「歯科医療機関における新型コロナウイルスの感染拡大防止のための院内感染対策について」と題した事務連絡を、都道府県などに宛てて発出した。

それによれば、「歯科診療においては、唾液等の体液に触れる機会が多いことや歯の切削等によりそれらが飛散することがあるなどの特性に鑑み、感染拡大防止のため、以下の点に留意すること」としたうえで、次のように記載している。

「緊急性がないと考えられる治療については延期することなども考慮すること」

それを受けて、日本歯科医師会は「国民の皆様へ」と題した告知文を作成し、会員の歯科医療機関に配布。院内に掲示するように促した。そこには次のような記述がある。

「現在の新型コロナウイルス感染拡大の状況を踏まえ、歯科医療機関には、緊急性が少なく延期しても大きな問題がない治療、定期健診、訪問診療などの延期の検討をお願いしています」

同文書では「治療の緊急性については、痛みや腫れなどを放置すると重症化や全身へ影響を及ぼすことがあります」「歯周病などの定期管理も全身状態に関係し、高齢者や特に在宅や介護施設での口腔衛生状態の低下で誤嚥性肺炎などが生じることが懸念されます」などとも書かれている。

「緊急性がないと考えられる治療」とは?

しかし、「緊急性がないと考えられる治療」の中身は定かでない。その一方で、こうした言葉が行政や歯科医師会から飛び出したこともあり、「国民の間に歯科医療の多くが不要不急なものであるというイメージが定着してしまった」(東京都内の歯科診療所院長)。


受付には飛沫感染防止のビニールシートを張っている(サッカー通りみなみデンタルオフィス、撮影は筆者)

同院長の歯科診療所では、4月の来院患者数が前年同月と比べて約25%も減少したうえ、5月には実に5割近くも落ち込んだ。

「院内感染防止対策についてはことのほか力を入れてきたのに、歯科診療所は感染リスクが高いといわんばかりの表現は、現場のこれまでの努力を無にするものだ」と、同院長は憤りを隠さない。

この歯科診療所では、歯周病安定期治療など継続的な受診が必要な治療に力を入れてきた。しかし、「今回のコロナ禍を機に、歯の痛みなど自覚症状のない患者さんの通院習慣が断ち切られてしまった。そうした患者さんの多くは高齢で、自身での口腔状態の維持管理が難しいだけに、今後、口腔内の状態の悪化から肺炎を患ったり、感染症のリスクがかえって高まるのではないか」と院長は心配を隠さない。

一般にはあまり知られていないが、歯科の院内感染防止の歴史は長い。古くは1980年代のB型肝炎による感染拡大の教訓から、歯科医療機関では手術用グローブの装着やハンドピース(切削器具)の滅菌をはじめとしてさまざまな感染防止の取り組みが進められてきた。

これらは主に血液や唾液を通じての感染リスク防止の取り組みだ。また、施設基準として2008年4月に外来環が導入されたことで、飛沫感染の防止も図られてきた。

そうした取り組みもあり、今回のコロナウイルス感染拡大時でも歯科診療に関連した院内感染事例は見られない。

もっとも課題がないわけではない。今回の新型コロナウイルスは、血液感染を主な経路とするB型肝炎やAIDS(後天性免疫不全症候群)などとは異なり、待合室やトイレなどを含めた院内全体での感染対策が必要になる。

また、感染防護のうえでは、医療用マスクやガウン、アルコール消毒液に至るまでさまざまなものを備えておく必要がある。そうした防護用品は10年ほど前の新型インフルエンザの流行をきっかけに求められるようになったが、備蓄や事業継続計画の策定では取り組みの差が見られることも事実だ。

歯科診療所を直撃した受診抑制

特に今回のコロナ禍では、一般市民の多くもマスクやアルコール消毒液を買い求めた結果、医療機関といえども入手が困難になった。国や都道府県による感染防護具の支援も心もとない。前出の都内歯科診療所の院長によれば、「5月末までに東京都から地区の歯科医師会を通じて届けられたのは、診療所1カ所当たり18枚のマスクだけだった」。

患者数の激減は、歯科診療所の経営に大きな打撃を与えている。

東京歯科保険医協会が実施した緊急アンケート(6月4日発表、回答数1108人、回答率31.6%)によれば、4月の保険料収入の減少率が「30%以上」と答えた歯科医療機関の割合は回答数の50%に達している。都内では土地・建物について「賃貸」と答えた歯科医療機関の割合が72%にも上っており、スタッフの人件費のみならず家賃も重くのしかかっている。

前出の橋村院長は、「雇用調整助成金や政策金融機関からの無担保・無保証の融資などによってしのごうとしているが、十分とは言えない。できれば経済産業省が創設した売り上げが激減した法人向けの持続化給付金の申請もしたいが、2019年5月の開業と日が浅く、特例措置の条件も満たさない」と頭を抱える。

また、手続きが複雑なことも関係者を悩ませている。前出の都内歯科医院の院長は、「雇用調整助成金は申請手続きが複雑で、何度も申請書類の作り直しを迫られた。役所に問い合わせても電話がつながらない。詳しい内容を知りたいが、診療所を何時間も留守にするわけにもいかない」と途方に暮れている。

5月27日に閣議決定された第2次補正予算案では2兆円を上回る金額が、医療分野に振り向けられることになったが、その多くはコロナ患者を受け入れている医療機関やスタッフなどに配分される。

その一方で、歯科診療所に対しては、第2次補正予算で盛り込まれた支援メニューのうち、職員への慰労金5万円および感染防止対策の補助金(上限100万円、実費払い)などにとどまる。診療報酬が落ち込んだ分の補填はなく、その一部についての診療報酬の概算前払いや、福祉医療機構からの無利子無担保融資などで対応するとされている。

全国保険医団体連合会の住江憲勇会長は、「経営が苦しく、夏のボーナスを払えないという医療機関もある。感染の第2波、第3波が押し寄せたときに、診療のモチベーションを維持できるのか不安が尽きない」と指摘する。

歯科技工所も存続の危機

歯科診療所とともに厳しい状況に追い込まれているのが、歯科診療所から注文を受けて義歯(入れ歯)や補綴物(かぶせ物)の製作を専門に行う歯科技工所だ。東京・板橋区内で営業するアースデンタルの川野博社長によれば、「5月の売り上げの落ち込みは前年同月比7割にも達した。多くの歯科診療所が患者数の激減もあって長期間の休診となったことが響いた」。


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単月の売り上げの落ち込みが5割を超えた場合、持続化給付金の支給要件(法人の場合の給付額は200万円)に該当するが、「人件費や家賃などの固定費だけでも月に500万円に上る。給付金はありがたいが、それだけで落ち込みをカバーできるわけではない」(川野社長)という。

そのうえで川野社長は、「このままでは体力のない技工所から順番に経営が成り立たなくなるのではないか」と業界の先行きを危惧する。

歯科医療の重要性は近年、内科や呼吸器科などの一般診療においても認識されるようになっている。高齢者に口腔ケアを実施した場合、それをしなかった場合と比べてインフルエンザの発症率において10分の1以下にとどまるという研究結果がある。また、外科手術の前の口腔ケアについても、肺炎など術後合併症の予防に取り組む医科医療機関は少なくない。

つまり、口腔内の健康の維持は全身の健康とも深くかかわっている。定期的な通院も同様に、全身の健康状態の維持と深く関係している。

歯科医療を受ける側としても、歯科の感染予防の実態を認識したうえで必要な治療をしっかり続けることが求められている。そのことが歯科医療の崩壊を防ぐ手立てにもなる。