1/16集団主義の理想に忠実なソ連は、公共交通機関に投資した。そして、それを最もよく表しているのが地下鉄だった。写真は、ウクライナのクリヴィーリーにあるバディノクラト駅。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 2/16モスクワ初の地下鉄が開通したのは1935年のこと。列車の速度はニューヨークの地下鉄よりも遅かったが、その宮殿のような建築様式は、皇帝にもふさわしいものだった。この写真は、同市のソコル駅に光が差し込む様子をとらえた一枚。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 3/16ウクライナのハリコフにあるキエフスカ駅。複雑な格間(ごうま:くぼんだパネル)が施された天井を、シャンデリアが照らしている。第二次世界大戦後の数十年で、ソ連はさらに、ノヴォシビルスク(シベリアの中心的都市)からタシュケント(ウズベキスタンの首都)にいたるさまざまな都市に14の地下鉄を開通した。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 4/16ロシアのニジニ・ノヴゴロドにあるレニンスカヤ駅。モスクワ以外の都市の予算は少なかった。そのため、建築様式は質素だったが、それでもオリジナリティが失われることはなかった。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 5/16ソ連にとって地下鉄は、ただのインフラ以上の存在だった。建設責任者となったラーザリ・カガノーヴィチは、地下鉄を「いまつくられつつある新しい社会のシンボル」と呼び、そこには「われわれの血、われわれの愛、新しい人類を目指すわれわれの戦い」が刻み込まれていると述べた。駅構内のアート作品も、その戦いを視覚化している。モスクワにあるエレクトロザヴォツカヤ駅で撮影。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 6/16クリス・ハーウィグが地下鉄駅の写真を撮り始めたのは2017年のことだった。ウズベキスタンのタシュケントで撮影。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 7/16光を放っているように見える柱。ベラルーシのミンスクにあるプロッシャ・ペラモヒ駅で撮影。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 8/16ロシアのサマラにあるソヴィエツカヤ駅で撮影された、構内にあるアート。ハーウィグの前作のテーマは、ソ連のバス停がもつ奇妙さだった。カナダ出身で、現在はスウェーデン在住のハーウィグは、20年近くかけて、かつての東側諸国や旧ソ連の国々を訪れてきた。「そこには、わたしを惹きつけてやまない、ある種の魅力があるのです」と彼は言う。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 9/16抽象的な石細工。ロシアのエカテリンブルクにあるマシノストロイチェレイ駅で撮影。「ソビエト社会主義共和国連邦」を意味するロシア語の略称「CCCP」が刻み込まれている。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 10/16モスクワ市内のこの駅には、通路のひとつに巨大な像がある。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 11/16アゼルバイジャンのバクーにあるウルドゥズ駅で撮影。幾何学的なデザインをあしらった天井が、劇的な効果を加えている。ハーウィグがソ連の地下鉄がもつ美しさに初めて気づいたのは、1997年、シベリア横断鉄道で旅をしているときのことだった。「地下にもぐると、そこにはまったくの別世界が広がっています」と彼は語る。「現実離れした不思議な感覚があります」PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 12/16ハーウィグは『Soviet Metro Stations』のために3度の撮影旅行を行い、旧ソ連の7カ国を訪れた。地下鉄の総乗車時間は250時間に及んだ。ロシアのエカテリンブルクにあるプロシュチャド1905ゴーダ駅で撮影。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 13/16ロシアのサンクトペテルブルクにあるアヴォトヴォ駅で撮影。まばゆいシャンデリアが、構内の見事な装飾を照らす。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 14/16モスクワにあるコムソモルスカヤ駅を見下ろすカラフルなモザイク。ハーウィグは撮影に、Sonyのデジタル一眼カメラ「α7 III」を使った。カメラをもっているだけでも当局がうるさかったため、わざわざ三脚を使うようなまねはしなかった。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 15/16労働者を題材としたレリーフ。モスクワにあるエレクトロザヴォツカヤ駅で撮影。共産主義者たちがかつて、この壮大な実験がもたらしてくれると信じたユートピア。その片鱗は、これら地下鉄の駅に刻み込まれているとハーウィグは思っている。「社会主義社会が実現したらこうしたユートピアが生まれる、と人々は期待していたことでしょう」PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG 16/16ニジニ・ノヴゴロドにあるこの駅は、ロシアのほかの地下鉄駅に比べると、やや控えめだ。PHOTOGRAPH BY CHRIS HERWIG

ソヴィエト連邦(ソ連)の最盛期、クルマを所有している人々は1,000人のうち30人くらいだった。がらくた同然の欠陥車でさえ高嶺の花で、多くの人々が通勤にはクルマではなく地下鉄を使った。だがそこには、わたしたちの想像を上回る魅力的な世界が広がっている。

「まるで地下宮殿! ソ連時代のたたずまいを残す壮麗な地下鉄駅の姿」の写真・リンク付きの記事はこちら

写真家のクリス・ハーウィグは、自身の新刊『Soviet Metro Stations』を制作するために、その地下鉄に乗ることにした。かつてソ連に属した7カ国を走る15の地下鉄を乗り継ぐ、目まぐるしい撮影旅行だった。

それらの駅はどれも、驚くほどに魅力的だ。ニューヨークやサンフランシスコの地下を走っている臭くて湿っぽいトンネルのような代物とは違う。それどころか、地上にある華やかな美術館や高級ホテルのようなたたずまいなのだ。

「これらの駅は、それぞれの都市でいちばん美しいもののひとつなのです」とハーウィグは言う。

新しい社会のシンボル

いかにも集産主義の国らしく、ソ連は自動車の生産を制限して公共交通機関を優先した。そして1931年、スターリンはモスクワ初となる13の地下鉄駅を建設する計画にゴーサインを出した。

70,000人以上の労働者がその建設に携わり(多くは飢饉に見舞われていた地方の出身だった)、つるはしとシャヴェルを使って8,120万立方フィート(約230万立方メートル)もの土を移動させた。

開通当時、列車の速度はニューヨークの地下鉄よりも遅かった。しかし、そびえ立つ円柱やアーチ、美しい模様が描かれた天井、まばゆいばかりのシャンデリアといった宮殿のような建築様式は、皇帝にもふさわしいものだった。大理石や青銅、金で光り輝き、プロレタリアートたちを高揚させるための愛国的なアート作品がいたるところに散りばめられている(今日のインスタグラマーたちにとっても撮影したくてたまらなくなる被写体だ)。

スターリンの側近だったラーザリ・カガノーヴィチは、地下鉄を「いまつくられつつある新しい社会のシンボル」と呼び、そこには「われわれの血、われわれの愛、新しい人類を目指すわれわれの戦い」が刻み込まれていると語っている。

その戦いはソ連全土の何千マイルにも広がり、地下鉄を完成させていった。その後の50年にわたってソ連は、シベリアの中心都市であるノヴォシビルスクからウズベキスタンの首都タシュケントまで、さまざまな都市へと14の地下鉄を開通させたのだ。

250時間の各駅停車の旅

そのころはちょうど、自動車を重視し始めた米国が全長47,000マイル(75,600km)の州間幹線道路網を建設していたころだった。ソ連の予算は少ないため駅は質素なものが多かった。しかし、おかげでオリジナリティが輝いた。「そこには、あからさまに目立とうとするものに勝る独特の個性や創造性がありました」とハーウィグは言う。

カナダ出身のハーウィグが旧東欧諸国の訪問を始めたのは、1990年代はじめのことだ。当時は「お金を使わなくても楽しむ」ことができた時代で、「オペラやバレエも1〜2ドルで鑑賞できた」という。

東欧独特の地下鉄が彼の目にとまる一方で、風変わりなバス停も彼の関心を引いた。ハーウィグは17年間、30,000マイル(約48,000km)をクルマで旅しながら、暇を見つけてはそんなバス停を撮影した。そして17年、彼は地下鉄に乗り換えた。撮影には250時間におよぶ地下鉄での移動がともなった。

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ハーウィグはソニーのデジタル一眼カメラ「α7 III」を携えて各駅で下車したが、カメラを持っているだけでも当局がうるさかったため、わざわざ三脚を使うようなまねはしなかった。ハーウィグは当局から30回以上も撮影の中止を命じられた。「情報規制の伝統があるのは明らかです」と彼は言う。

実現しなかったユートピア

ハーウィグの写真は情報規制を打ち破り、地下をこじ開け、そこに潜む精妙な世界を垣間見せている。どの駅も負けず劣らず独創的な外観をしている。古代エジプトやギリシャを思い起こさせるものもあれば、宇宙旅行時代の未来的なユートピアの到来を先取りしたものもある。

そんなユートピアが実現することはなかったが、その片鱗はこれら地下鉄の駅に刻み込まれていると、ハーウィグは考えている。「社会主義社会が実現したらこうしたユートピアが生まれる、と人々は期待していたことでしょう」

言うまでもなく地下鉄は、ソ連の公共交通機関のなかでも最も壮麗なものだった。ほとんどの都市はこうした地下鉄をつくるほどの経済規模はなく、モスクワでさえ地下鉄が輸送していたのは全公共交通機関の乗客のごく一部だけだっだ。市民のほとんどは、地上を走る古い路面電車やバスにすし詰めになっていた。おそらくは、クルマを買える日が来るのを夢見ながら。