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1981年、大阪の公立高校に通っていた16歳のときに『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ系)のフツオ役でデビューした長江健次さん。

同年、ヨシオ役の山口良一さん、ワルオ役の西山浩司さんと「イモ欽トリオ」を結成し、デビューシングル『ハイスクールララバイ』が150万枚を超える大ヒットを記録。ボーカルを担当していた長江さんはアイドル的な人気を博すが、わずか1年半後、大学受験を理由に番組を降板。

しかし、その翌月には大阪でレギュラー番組がスタートしたため、萩本さんをはじめ、欽ちゃんファミリーやスタッフの怒りを買い絶縁状態になるが、現在は関係も修復。

デビューから38年、精力的にライブ活動を行い、俳優としてドラマ、映画、舞台に多数出演。2006年、トリノオリンピックにはスノーボードのコーチとして参加するなど、芸能界のみならず、スポーツの世界でも活躍する長江さんにインタビュー。

「イモ欽トリオ」山口良一さん、西山浩司さんと

◆オーディションに落選するも欽ちゃんの一言で…

小さい頃から笑いを振りまき、学校で人気者だった長江さん。中学生のときには地元・大阪で素人出演の番組に多数出演し、モノマネなどを披露していたという。

「僕が中学生のときに初めて出た番組の審査員が、さんまさん、おすぎとピーコさんで、僕のファーストキスを奪ったのはおすぎさんなんですよ、伊丹空港で。ビックリしましたよ(笑)。

その番組のときにさんまさんに『僕、中学を卒業したら吉本に入りたいんですけど』って言ったら、『いや、お前高校だけは出ておけ』って言われたので、高校に進んだんです。それがなかったら、勉強もそんなにしたくなかったし、高校には行ってなかったでしょうね。それで、高校生のときにオーディションを受けて欽ちゃんの番組に出ることになったんです」

−オーディションを受けることになったいきさつは?−

「素人番組の関係者から勧められて、まず大阪でオーディションがあったんですけど、僕は1時間くらい遅刻して行ったので、フジテレビの人がもう東京に帰ろうとしていたんですよね。それで桜田淳子さんと田中角栄さんのマネをしたら、東京に来てくれって言われて。

松竹さんとか吉本さんのタレントもいっぱい来て、何百人もオーディションを受けたらしいんですけど全部落ちて、受かったのは僕だけだったんですよ。あとで聞いたら、何ができるかと聞かれて、すぐにモノマネをやったからだと言われました。似てるとか似てないじゃなくてね(笑)」

−次の東京でのオーディションに進むことになったと言われたときはいかがでした?−

「僕はその時点でもうテレビに出られると思っていたので、学校中の子に『欽ちゃんの番組に出るらしい。もうスターになるから』って言って、学校を休んでオーディションに行きました。

でも、行ってみたら、まだ20人ぐらいいたんですよ。それで真っ先に落ちたんですよ。一言で。『どうしようかなあ、大阪に帰るの。格好悪い』って思ったのを覚えています」

−それが一転して合格に−

「大阪に帰る新幹線がもうなかったんですよ。それで、『夜のヒットスタジオ』がやっていたので、いろいろな歌手の方にサインをもらったり、有名人に会うためにテレビ局のなかをうろうろしていたら、それをたまたまスタッフが見て大将に言ったらしいんですよ。

それで、大将に『とりあえず舞台を歩いてみて』って歩かされたら『君でいいよ』って言われて合格」

当初、『良い子悪い子普通の子』は、中原理恵さん、山口良一さん、西山浩司さんの三人で決まっていたが、中原さんが、『良い妻悪い妻普通の妻』の三役をこなすコーナーが決まっていたため、萩本さんが2つのコーナーを中原さんがやるのは重荷になるだろうと考えて変更になったという。

「それで、もう一人どうしようかというときに、『何か大阪の子がウロウロしているよ、最初に落とした子が』ってなって、それだけですから。たまたまですよ。それがなかったら今の僕はないわけですからね。

西山(浩司)君は最初何がやりたいか聞かれて『悪い子』って答えたのに、大将が、『うん、わかった。じゃぁお前は良い子』って決まっていたらしいのですが(笑)。それが、僕が入ったことで西山君としては1番やりたかった『悪い子』になったんです」

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◆アドリブで欽ちゃんの頭をたたいて怒られ…

1981年4月6日、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』の放送がスタートし、長江さんはフツオ役でデビューする。大阪の公立高校に通いながら東京で収録するという生活を送ることに。

−番組が始まっていかがでした?−

「僕はもともとやりたいことをやるタイプだったので、大将のところに行って制限を覚えました。一回目の放送のとき、関西人だから本番でかましてやろうと思って、大将の頭をたたいたらお客さんにはドーンとウケたんだけど、ものすごく怒られたんですよ。正直自分のなかでは不満もありました。ウケたいしね。

でも、ここではこういう役どころ、役まわりなんだなって思って、それ以降は大将の言う通りにやるようにしました。大将が言っていたことがちゃんとわかったのは、自分がお芝居とかを始めてから。自分が演出する立場になったときに、(出演者)全員が全員ウケようとすると台無しになるということがわかったんです」

放送がスタートすると一躍人気者に。ヨシオ役の山口良一さん、ワルオ役の西山浩司さんと結成した「イモ欽トリオ」のデビュー曲『ハイスクールララバイ』は150万枚を超す大ヒットを記録する。

−長江さんはボーカル担当、大ヒットに−

「僕は歌手にもなりたい時期があったんですよ。それで『スター誕生!』(日本テレビ系)のオーディションに応募したこともあるんですけど、もう『ハイスクールララバイ』が売れているときにオーディションのお知らせが来たりしてね(笑)。

そういうこともあったので、すぐにレコードの話があって、うれしかったですよね、三人でやれたし。よくわからないまま、別にキャンペーンしたわけでもなく、テレビで歌うだけで何十万枚、何百万枚って言われたら、それが当たり前だと思うから人って怖いですよね」

−ヒットチャートの1位にもなりました−

「そうですね。でも、僕たち3人はわりと冷静でしたよ。3人ともこんなことは長くは続かないと思っていましたからね。ブームですから、いつかは終わりが来るだろうし、一生続くわけないじゃないですか。そう思いながらやっていました」

−アイドル的な存在でしたね−

「たまたまですよ。二枚目でも何でもないポッと出ですから。たまたま時期が良かったのとタイミングだと思いますよ。今の時代はアイドルでも関西弁をしゃべれるけど、僕たちの時代は、関西弁はNG。

アイドル歌手は河合奈保子ちゃんや柏原芳恵ちゃんも標準語に直されましたし、川粼麻世くんも大阪出身ですけど全部標準語。大阪弁なんて絶対だめでしたからね。結構大変でしたけど、素人が今ほど世に出てない時代だったから新鮮だったんじゃないですか。そういう意味ではラッキーだったと思います」

−二曲目の『ティアドロップ探偵団』もヒットしますが、イモ欽トリオを脱退、番組も降板することに−

「僕は1年半しかやっていませんでした。制限されたなかでやっていると、やっぱり自分がやりたいことがやりたいという自我の目覚めがでてくるんですよ。『歌も売れたけど、このままやっていていいのか?』って。それでお芝居の勉強をするために大阪芸術大学に行こうと思ったんですけど、大騒ぎになって…。

タレントが仕事を休んで留学するとか、学校行くということが、それまでなかったですからね。でも、番組もCMもやめて大阪に帰りました」

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◆送り出してくれた欽ちゃんを裏切ることに…

大学受験の勉強をするために「イモ欽トリオ」を脱退、『欽ドン!』も降板した長江さんだったが、すでに大阪でテレビのレギュラー番組が決まっていたという。

「大学に行くということでやめたんですけど、大阪に帰ったら、もう笑福亭鶴瓶さんとやる番組が決まっていました。僕は本当に知らなかったんですけど、当時所属していた大阪の事務所が決めていたんですよね。売れていたから商売になると思ったんでしょう。

僕は大学でちゃんと演技の勉強をして、復帰はそれからだと思っていたんです。早くても1年とか2年後だと。それが欽ドンを降板した翌月から番組を始めることになったわけですからね。周りの人たちは、『心配するな、守るから』って言っていたんですけど、東京民放ほぼ出入り禁止状態でした」

−まだ18歳ぐらいだったと思いますが、問題になるとは思いませんでした?−

「ルール違反ですよね。いくら僕が知らなかったと言っても、知らないでは済まないということが、今だったらわかりますよ。だから周りのおとなが怒るのも当たり前のことだし。

まず、雑誌でたたかれたんですね、いっぱい。それが出たときに『やばいかな』って思いました。まだ東京の仕事もあったので、東京の仕事場に行ったときの僕に対する皆さんの空気感がすごかったんですよ。あれだけ親しかったはずなのに、知らない顔をするという感じでしたから。

だから、大将を恨んだときもあったんですけど、結局大将は何にも悪くなくて、俗に言う周りの忖度(そんたく)です。昔からそういうことって暗黙のうちにありましたからね」

−萩本さんからは直接何か言われました?−

「いえ、さんまさんに『大将が怒って皿を割ったらしいぞ』って言われたんですけど、さんまさんは話を盛るからなあ(笑)。でも、怒っていたでしょうね。大将だけじゃなく番組スタッフ全部。それ以降、『欽ちゃん祭り』っていうのがあるんですけれども、僕だけは一切出ることはなかったですから。

それでも『欽ドン!』の最終回には呼ばれたんですよ。5、6年してからだったかな。それで何年ぶりかでフツオをやって、それからまたそれっきりですよ」

−そのときには萩本さんとお話は?−

「『おはようございます』ってあいさつをして、あとは何も言わなかったですね。怖いですよね。後ろめたさもあるし、複雑な感覚でした」

−それからまたお会いすることもなく?−

「なかったですね。『欽ドン』の最終回は出ましたけど、僕自身がイヤだったので。『ハイスクールララバイ』とか、フツオの決めゼリフ『な!』をやってくれという話がいっぱいありましたけど、全部断っていたんですよ。『長江健次には欽ドンの話はNG』ということが回っていたぐらい、『ハイスクールララバイ』も大将の話もしないという時期がありましたから」

−それが変化したのは?−

「2000年にテレビのバラエティー番組で、『極楽とんぼ』の山本(圭壱)君が『ハイスクールララバイ』を歌っているところに山口さんと西山君が登場して3人で歌っていて、『僕に言わずに事務所が断ったんだろうなあ』と思いながら見ていたんですよ。

それからしばらくして当時の事務所の社長に『健次、いつまでもそんなにこだわってなくてもいいだろう。せっかく求める人がいるんだから』って言われて、テレビ朝日の番組で20年ぶりぐらいに3人でやったのがきっかけですね。僕のなかでは違和感がありながらやったんですけどね(笑)。

でも、そうやっていっぺん出ると、いろんなところが呼んでくれるようになって、それで『イモ欽トリオ』で集まるようになったんです」

現在は年に一度、3人そろって「イモ欽トリオ」のライブも開催。次回後編では萩本さんとの和解、トリノオリンピックでコーチをつとめたスノーボード、フリーで活動する理由について紹介。(津島令子)