三つ子虐待死事件。減刑署名に猛反対の母親たちに見る日本の闇
不妊治療の末授かった生後11カ月の三つ子の次男を、いわゆる「育児ノイローゼ」状態に陥っていたとみられる母親が虐待死させた事件。被告の責任能力を認めた名古屋地裁の実刑判決に対する減刑を求める署名活動も話題となっていますが、その動き自体に異を唱える「母親」たちからメッセージを受け取った、というのは健康社会学者の河合薫さん。河合さんはメルマガ『デキる男は尻がイイ−河合薫の『社会の窓』』で彼女らの主張を紹介するとともに、判決だけに焦点を当てる限り同様の事件は防ぐことはできないと記しています。
三つ子虐待事件と日本の闇 「私たち」の問題では?
2018年1月に起きた「三つ子の虐待事件」で、生後11カ月の次男を床にたたきつけ死亡させた母親に、先月、実刑判決が言い渡されました。
母親は事件当日の夜、子ども部屋に寝かせていた次男が泣き始めたところ、激しい動悸と吐き気をもよおし、次男をベッドから抱き上げ、畳の上に投げ落とした。その2週間後、次男は搬送先の病院で息を引き取りました。子供達は三つ子で、不妊治療の末に生まれていました。
事件の詳細と本件に関する私の見解は、日経ビジネスに書きましたので(「三つ子虐待事件の母親を追い詰めた『男社会』の限界」)、こちらでは「コラム公開後」に起きたことを取り上げたいと思います。
まず、件のコラムの内容を簡単に説明しますと、「そもそもなぜ、こんな事件がおきてしまうのか?」という視点で、「ケア労働(無償)」を軽視する日本社会について問うたものです。
もし、もっと「ケア労働」への理解が進み、「ケア労働」を重んずる社会であったなら、痛ましく悲しいこのような事件は防げたのではないか、と。「国のあり方」、「私たちのあり方」を、一度立ち止まって考えてみるべきなのではないか。私たちの「哲学」ってなんだろう。誰が悪いとか、誰それの責任だと、するのではなく。「そもそも」を考えることの必要性を書きました。
コメント欄にはいつもどおり賛否両論ありました。直接メールやメッセージを送ってくれた人も多く、さまざまな意味で「問題の根深さ」を痛感しました。
そんな中、何人かの方たちから「母親の減刑署名活動」に関して意見をいただき、なんともやりきれない気持ちになってしまったのです。
その内容は「母親に同情するのは間違い」というものでした。
本当に育児は大変で、母親たちはみなギリギリの状況で子育てをしている。心も体も疲弊し、それでも「我が子」のために歯を食いしばって子育てしている。
「子どもさえいなければ」という感情に襲われることもある。そんな状況下でも理性を取り戻し、「私、なんてことを考えてしまったんだろう」と反省し、子供に寄り添っている。
なのに、その「一線を超え子に手をかけてしまった母親」と「今も苦労して頑張っている母親」を同じ天秤にかけるのはおかしい―――。
そういった内容のメールがいくつか届きました。
そして、「実刑判決は妥当だということをもっと世間に訴えたいので、賛同してください!」「母親を罰するのは当然と言ってください!」「子どもの命を軽んじすぎていると母親を支援する人を断罪してください!」「署名活動を批判してください!」と、私に発信して欲しいと言うのです。
私は…正直、とてもとても複雑な気持ちになりました。だって、私は件のコラムでは判決の是非については、いっさい触れていません。事実関係を伝えたのみ。そして、メールをいただいた今も、判決に関する私見を述べるつもりはありません。
メッセージをくれた方たちには申し訳けないけれど、期待にお応えするような行動を取るつもりはないのです。なので、今回、こういった形でとりあげた次第です。
ただ、メッセージをくださった人たちの気持ちも痛いほどわかる。誰だって「自分だってこんな苦しい思いをしてるのに、必死で耐えてる。なんで耐えられなかった人が同情されるのか?」という気持ちになることはあるでしょう。
問題が複雑になればなるほど、個人の裁量を超える事態になればなるほど、最後は「個人の問題」に帰結させ、「正義競争」に流れがちです。
でも、そんな社会の先に光はあるのでしょうか。
だからこそ日経のコラムに書いた「そもそも」の問題を考えて欲しいのです。
減刑を訴える人も、実刑を妥当とする人も、それぞれの立場で「子供がかわいそう」と繰り返します。
では、私たちの社会はホントに「かわいそうな子供を量産させない社会」になっているのでしょうか?
コラムにも書いたとおり、育休など、今すぐにでも会社は男性社員に義務付けることはできるはずです。取得させなかった企業に罰則を科す。同時に育児休暇中無給にならない制度をつくる。
当然ながら、国や会社を動かすには、それなりの大きな力が必要です。ならば、もし、自分の部下に小さい子供を持つ男性がいたら、「早く帰っていいぞ」と声をかけることだってできるはずです。電車の中で小さな子供を連れているお母さんを見かけたら、ちょっと手を貸すことは誰にもできます。
そういう小さな一人一人の行動が、ケア労働の価値を共有していくことになっていくのではないでしょうか。
例えば、電車に乗り込む時、降りる時、ベビーカーを押している母親にさっと手を貸したり、階段を上ろうとしているお母さんを手伝ったりするのが当たり前な社会。そんな小さな変化の積み重ねが、ケア労働への理解にもつながっていくと思うのです。
今回の事件は「個人の問題」ではなく、「社会の問題」です。判決に関しては、それぞれ意見があるかもしれません。でも、そこに焦点を当ててる限り、痛ましい事件を防ぐことはできない。でも、そう考えることができないほど、たくさんのお母さんたちがギリギリに追い込まれているというリアルが存在します。
そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたくて、今回とりあげました。
みなさまもご意見、お聞かせください。
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