12月6日、ショッキングなニュースが飛び込んできた。大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)のチームメイトでもあったメジャーリーガーのルイス・バルブエナらを乗せた乗用車が、ベネズエラの高速道路で事故に遭い、2人が死亡したというのだ。

 彼らは地元プロ野球リーグのララ・カージナルスのメンバーで、遠征先から本拠地であるバルキシメトへの帰途、不幸に見舞われたらしい。追報では、この事故は強盗団が路上に仕掛けた「置き岩」によるもので、このような事件はアメリカとの関係悪化からここ数年、経済危機に陥っているベネズエラでは珍しいわけではないのだという。彼らの所属球団は、チームバスも用意していたのだが、別行動で移動したことが仇(あだ)となった。


日本でもプレーした経験があるオランダ生まれのファンミル

 そのメンバーのなかには、横浜ベイスターズ(現・DeNA)や千葉ロッテマリーンズでプレーした経験もあるホセ・カスティーヨも含まれていた。

 そして8日、今度は南半球・オーストラリアで元楽天のルーク・ファンミルが遠征先のキャンベラで交通事故に遭い、重体になったという報せが届いた。

 2014年に1シーズンだけプレーしたのみで、7試合に登板しただけだから覚えている人は少ないと思うが、日本プロ野球史上最高身長(216センチ)の投手として話題を振りまいたので、記憶に残っている人もいるかもしれない。

 彼はオランダ出身で、楽天入団前年の2013年のWBCの試合で来日している。この時、長身から投げ下ろす速球がスカウトの目に留まり、楽天との育成契約につながったようだ。その後、支配下登録され、一軍マウンドも経験したのだが、残念ながら、日本ではその力を発揮することはできなかった。

 日本を去った後は、母国オランダのトップリーグ(フーフトクラッセ)でプロ生活を続けていた。オーストラリアのウインターリーグには3年前のシーズンより参戦。今季はブリスベン・バンディッツでプレーしていた。

 偶然だが、私はこのふたりに昨年の夏、インタビューしている。カスティーヨは、イタリアンベースボールリーグの名門・パルマで、ファンミルはフーフトクラッセの強豪チームであるキュラソー・ネプチューンズでプレーしていた。

 ヨーロッパ野球の現実は、日本とは雲泥の差だ。オランダのリーグは基本アマチュアで、観客から入場料を取るのはファンミルが属している人気チームのネプチューンズくらい。弱小チームともなると公園のグラウンドのようなところをホームにしている。

 各球団は、要するにクラブチームで、選手のほとんどは野球以外に本職を持ち、選手の力量によっては報酬が支払われることもあるというものだ。ファンミルは数少ないプロ契約選手で、ナショナルチームにメンバー入りすれば、そちらからの報酬もあるので、月40〜50万円は稼げるのだという。

「オレはこの国で一番のプロ野球選手なんだ」

 日本では、プロ野球選手の報酬とはとても思えない薄給にもかかわらず、ファンミルは胸を張っていた。

 イタリアの野球事情も似たようなもので、2010年に「プロリーグ」として発足したイタリアンベースボールリーグは解体され、現在は元のアマチュアリーグ、セリエAに再編されている。

 とはいっても、両者に大した違いはなく、選手のほとんどは野球選手と他職を兼業しているし、セリエAになっても、トップ選手にはギャラは支払われている。そういうなかで、MLBでレギュラーまで張ったカスティーヨは、月50万円にも満たない給料でホーム球場のスタンドにある一室に住み込みながらプレーしていた。

 カスティーヨがプロ生活で袖を通したユニフォームは、じつに23着。メジャー3球団に加え、マイナー5球団、日本で2球団、さらに台湾やメキシコでもプレーした。

 メジャー時代から、オフシーズンには毎年のように母国のウインターリーグに参加し、6球団に所属した。これにイタリアを含めると、4大陸23球団をバット1本で渡り歩いたことになる。

 ファンミルも似たようなものだ。20歳でアメリカに渡り、最初はミネソタ・ツインズ、その後ロサンゼルス・ドジャース、クリーブランド・インディアンス、シンシナティ・レッズと契約先は変わったものの、ついにメジャーには上がることはできなかった。

 その代わり、観客席もろくにないルーキー級から他国のトップリーグにひけを取らないような立派なスタジアムでゲームを行なう3Aまで、ありとあらゆるクラスでプレーし、実に11のマイナーチームでプレーしている。

 オランダでは、国外の球団と契約を結んでも、元いたチームに籍は残すことになるので、母国ではネプチューンズに在籍し続けていることになる。また、2015年オフから参戦したオーストラリアのウインターリーグでは、アデレードバイツで2シーズンを過ごし、今シーズンはブリスベンに移籍。クローザーとしてここまで5度マウンドに登り、防御率4.50 ながら、1勝3セーブを挙げていた。彼もじつに14着のユニフォームに袖を通している。

 彼らのような存在を”ジャーニーマン”と呼ぶ。その言葉の響きは決して肯定的なものではない。野球界の頂点であるメジャーリーグでのプレーがかなわず、田舎のマイナー球団でプレーしたり、世界中の様々なリーグに出稼ぎに行ったりする “二流選手”という意味合いが強い。

 その語義どおり、彼らはプレーする場がある限り、野球で稼げる限り、声がかかればどこへでも出かけていく。その行き先のなかには、カスティーヨが非業の死を遂げたベネズエラのように、夜道どころか昼間でさえ独り歩きに危険が伴うような場所もある。

 カスティーヨの場合、事件に巻き込まれたのは母国であったが、野球で成功した中南米の選手の多くは、そうした危険のある母国に帰ることなく、フロリダやアリゾナに移住する。メジャー、日本をはじめ、長年プレーしたカスティーヨもアメリカでの移住を希望すればできたと思うのだが、彼はプレーすることに最後までこだわった。

「まだまだプレーできるからね」

 かつてカスティーヨは、「野球の果て」と言っていいようなイタリアのリーグでプレーする理由をそう語っていた。その言葉には、彼のプロ野球選手としての矜持(きょうじ)が詰まっていたように思う。彼がイタリアで手にするだろう数十万円の報酬は、ベネズエラではエリートサラリーマンでもなかなか手にすることができないものらしい。

 しかしその報酬のために、家族と半年も離れて暮らす生活を選ぶのは、稼ぐというより本能に近い部分があったのかもしれない。

 またファンミルのように、ヨーロッパで生まれながら野球を選ぶというのは、ある意味、変わり者と言えるかもしれない。学校の体育時間に初めてボールとバットを手にしたというファンミルは、そのままクラブチームに入り、ナショナルチームのメンバーにまで上り詰めた。

 日本の球児とは違い、ごく普通のハイスクールライフを送っていたというファンミルは、好きなスポーツを職業にすることにただ喜びを感じ、アメリカ、そして日本へと渡った。舞台が変わろうとも彼の野球に対する姿勢は変わらず、常にプレーを楽しんでいた。オーストラリアでもそうだったに違いない。

“ジャーニーマン”の生活は過酷であり、常に危険と隣り合わせである。しかし彼らから感じるのは、心の底から野球を愛し、世界のどこへ行ってもプレーする場所さえあれば楽しんでいたということだ。野球を通じ、異国の人々や文化に触れるというのは、ある意味、億万長者になった一流のメジャーリーガーよりも味わい深い人生なのかもしれない。