西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(6)

【参謀】西武・伊原春樹 後編

(前編はこちら>>)

「1993年は、西武の野球をヤクルトがやっていた」

――1993年の日本シリーズは、前年と同じくスワローズが相手となりました。

伊原 この年はデストラーデが抜けたんだよね。そして、工藤(公康)とか、ナベちゃん(渡辺久信)の調子があまり上がってこなかった。一方のヤクルトは、川崎(憲次郎)が復活して調子がよかった。高津(臣吾)が出てきたのもこの年だったね。前年のことを考えると、「これはちょっと手ごわいぞ。ひょっとしたら、やられるかもしれないぞ」という危機感はありました。


ヤクルトとの2年連続の日本シリーズを振り返る伊原氏

――この年のシリーズで印象に残っている場面はありますか?

伊原 まずは、うちの1勝2敗で迎えた第4戦の、飯田(哲也)の守備が印象的だな。ものの見事にやられたことを覚えている。

――8回表、0-1のビハインドの場面ですね。2アウト1、2塁で三番・鈴木健選手がセンター前ヒット。猛ダッシュで前進してきたセンターの飯田選手が矢のような送球で、代走・笘篠誠治選手をホームでタッチアウトにしました。

伊原 あの場面は、普段うちがやっていた野球をヤクルトにやられた。そんな印象が強く残っていますね。飯田の守備位置は、「多少、前に来ているな」と事前に確認していました。もちろん、飯田の足と肩、笘篠の足は織り込み済み。鈴木健がセンター前に打って笘篠がサードを回るとき、自分では「五分五分だな」と思った。五分五分だったら、「笘篠なら何とかしてくれるだろう」と走らせましたが、飯田がまったく隙のない返球を見せた。ほぼストライク送球ですよ。「あぁ、やられたな」って……。

――あの場面、飯田選手のポジショニングも完璧だったんですか?

伊原 いや、ヤクルトとしては1点もあげたくない場面でしょ。セオリーならば、もっと前進守備でもいい場面。でも、飯田は少し前に出ていただけだから、「あれ、おかしいな?」って思いましたね。西武だったら、もっと前進させていたから。飯田が最初から前に来ていれば、笘篠はサードでストップさせていました。後から考えれば、あのプレーで西武は負けたと思いますね。

――他に印象に残っているシーンはありますか?

伊原 あとは第7戦の初回かな? いきなり広澤(克実)に3ランホームランを打たれたでしょ。森(祇晶)さんの監督時代は、ボコボコ打ち勝つチームじゃなかった。何とか1点差を守り切ったり、足を絡めて1点を取ったり、そういうことの積み重ねで戦うという野球だったから、いきなりパンパーンと3点を取られたことは覚えているね。

両監督に仕えた伊原が語る「森と野村」

――伊原さんは2000年に阪神・野村克也監督の下で、守備走塁総合コーチに就任。森監督、野村監督に仕えた経験を持っています。両者の違いを伺いたいのですが。

伊原 東尾(修)監督の5年目のオフ(1999年)に解任されると、すぐに野村さんから連絡がきて、ホテルで会ったんです。そしたら、「お前は森のところで、どんな役目をしているんだ?」って聞かれたから、「サードコーチャーとして、走塁面はすべて任されています」と答えました。すると、「よし、わかった。すべてお前に任す」って言われたんで、「わかりました」って就任が決まったんだけど……結局は任されなかったよね。

――ペナントレースが始まってみたら、実際は違った?

伊原 違ったね。あの年、(ジェイソン・)ハートキーっていうしょうもないサードがいたんだよ。で、彼が出塁したときにそのときの投手のクセを伝えたんです。「いいか、足をグーンと高く上げたら走っていいから」って。なのに、ハートキーはクイックのときに走ってアウトになった。そうしたら、翌日に野村さんは報道陣を前にして「伊原の野郎が勝手なことばかりするんだ」って言っていた。それ以来、「サインはオレが出す」って、野村さんがサインを出すようになった。森さんなら、そんなことは絶対に言わないよね。

――森さんの下ではそういうケースはなかったんですか?

伊原 なかったですね。仮にアウトになって、腹の中では「伊原のバカ野郎」と思っていたとしても、「監督であるオレの責任だ」と、それを口に出すことはなかったです。森さんが監督のときには、ベンチからエンドランのサインが出ても、僕の判断で走らせないこともあった。ベンチに戻ってから、森さんに「どうしたんだ?」と聞かれて、「ちょっと不穏な動きがあったのでサインを出しませんでした。すみません」って答えると、「あぁ、いいよ」って、そんな感じでしたね。

――監督からの信頼度という点では森監督の方が大きくて、伊原さんとしてはやりやすかったわけですね。

伊原 そうですね。森さんは常に感情を表に出さない監督でしたね。でも、試合に勝って握手をすると、森さんの手は汗でべっちょりなんだよ。顔には出さなかったけど、相当緊張していたんだと思うよ。

この2年間は、すべての日本シリーズの中でのベスト

――伊原さんから見た「ID野球」とは、どんな野球でしょうか?

伊原 マスコミが言い出したのか、本人が言っているのかわからないけど、実際にその正体を紐解いてみると、どこのチームもやっていることですよ。「このカウントでは、このボールを投げてくるから、そのボールを狙いなさい」というのは、どの球団も、どのスコアラーもやっていること。それを監督自ら「野村の考え」ということで話題になっただけだと思うけどね。やっていることは、どこも一緒。

――1992年、1993年の2年間は、全14試合を戦って7勝7敗。日本一もそれぞれ一度ずつです。両者の決着はついたと見ていいのでしょうか?

伊原 決着はついていますよ。1992年は西武が勝って、1993年はヤクルトが勝ったというだけのこと。でも、森さんも野村さんも、決着はついていないと思っているんじゃないの? だから、これからは「どちらが長生きするか」で決着をつければいいんじゃないのかな。そうやって書いておいてよ。あの2人、きっと読むと思うから(笑)。だからあの2人にとっては、結論はまだ出ていないのかもしれないね。

――あらためて、この2年間を振り返っていただけますか?

伊原 ここまで話したように、1992年は、「ヤクルトだから勝てるだろう、大丈夫」という甘い気持ちで入って、すぐに「そういうわけにはいかんぞ」となり、第7戦は声も出ないほどの緊張感を経験して日本一になった。翌1993年は前年とはまったく違って、「ヤクルトは手ごわいぞ、簡単には勝てないぞ」という思いでシリーズに入って、うちが敗れた。うちは緩やかに落ち目にさしかかっていて、ヤクルトはうなぎのぼりだった。そういう2年間だったと思いますね。

――1997年には東尾修監督の下で、伊原さんはまたまた「西武vsヤクルト」を経験していますね。1992、1993年との違いはありましたか?

伊原 両チームの戦力を比較するまでもなく、1997年はヤクルトのほうが、すべてが上でしたよ。心の中では、「これは勝てないな」という思いはありました。結局は1勝4敗だったけど、森さんの時代と比べたらチームとしてはすでに緩んでいたし、松井(稼頭央)、(高木)大成、大友(進)ら、「さぁ、これから」という若い選手が多いチームだったから、仕方ないよね。

――数々の日本シリーズを経験した伊原さんにとって1992、1993年のシリーズは、緊張感の伴う、刺激的なシリーズだったんですね。

伊原 もちろんです。すべてのシリーズの中でベストの戦いだったと、今でも思っています。……そうそう、1993年はハドラーっていう外国人がいたよね。あいつに打たれた思い出があるな。

――でも、レックス・ハドラーは1993年のシリーズを通じて、打率.167ですよ(笑)。

伊原 えっ、そんなもんなの? あぁ、序盤にポンポンと打たれたのか。その記憶が残っているだけなんだね(笑)。