女性解放運動、波乱続きの私生活、アレサ・フランクリンの生涯を振り返る

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アレサ・フランクリンが、米国現地時間8月16日(木)午前9時50分に膵臓がんにより、デトロイトの自宅にて逝去した。ローリングストーン誌が選ぶ「歴史上最も偉大なシンガー100人」の第1位であり、女性として初めてロックの殿堂入りも果たした「クイーン・オブ・ソウル」。50年以上に渡ってポップス界を牽引し続け、パワフルな女性像と女性解放運動、そして公民権運動を象徴する存在となったアレサ・フランクリンの生涯を振り返る。

1967年に「クイーン・オブ・ソウル」の名を手にしたフランクリンは、様々な分野でその名を轟かせた。聖職者を父親に持つ彼女は、生まれ持ったポップス界随一の歌声で、甘く魅惑的なバラードから大迫力のゴスペルまで歌いこなした。「貴方だけを愛して」「シンク」に代表される初期のヒット曲から、ユーリズミックスと共演した「シスターズ・アー・ドゥーイン・イット・フォー・ゼムセルヴズ」のような後期の代表曲に至るまで、その歌声はファンを圧倒し続けた。彼女が信頼したプロデューサーのひとりであるジェリー・ウェクスラーは、ゴスペルとポップを融合させた普遍のクラシック「スピリット・イン・ザ・ダーク」についてこう語っている。「彼女は聖なるものと世俗的なものを、R&Bという手法で融合させてみせた。彼女はまるで、煙たいナイトクラブのフロアで指揮を執る聖職者のようだった。あらゆる人々を巻き込む、普遍的な魅力の持ち主だ」

ポップやジャズ、R&B、ゴスペル、そしてディスコまで、あらゆるタイプの楽曲を歌いこなすフランクリンのヴォーカルはまさに変幻自在だった。「アレサ」の愛称で親しまれた彼女は、他に類を見ない奥深さを備えたポップスターだった。ウェクスラーは自伝で、彼女を「謎と悲しみに満ちた女性」と形容している。堂々たる歌声や圧倒的な存在感とは対照的に、フランクリンには脆い一面もあった。結婚生活の破綻、アルコール依存、体調不良、キャリアの迷走といったトラブルは、皮肉にも人々が彼女を身近に感じる要因となっていた。「救い、痛み、憧憬、降伏…彼女の歌声にはすべてが宿っている」2003年の本誌インタビューで、ボニー・レイットはそう語っている。

父親がいる教会で歌い始め、キャリア開始直後に類稀なポップセンスを発揮し、後に公民権運動の顔となった彼女は、1960年代にはアフリカン・アメリカンの象徴というべき存在となった。ウェクスラーが「躓くようなシンコペーション」と呼んだ彼女のアイディアに基づき、オーティス・レディングによる原曲をファンキーに生まれ変わらせた「リスペクト」は、1967年のポップスにおけるナンバーワンヒットとなったが、その影響力は音楽の世界にとどまらなかった。「肌の色や容姿を理由に不当な扱いを受けていると感じていたアフリカン・アメリカンの人々、そして世の女性たちにとって、あの曲が等身大以上の意味を持つようになるなど、彼女は考えもしなかったに違いありません」バラク・オバマは2014年にそう語った。「彼らは敬意を求めていたのです」。16歳の時にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの巡回演説に同行した彼女は、彼の葬式の場でも歌声を披露している。

1942年3月25日、メンフィスに生まれたフランクリンは、幼少時代よりゴスペル・シンガーとして成功すべく育てられた。彼女の父親は、”ミリオンダラー・ヴォイスの持ち主”として有名な人気のあった牧師クラレンス・ラヴォーン・フランクリンだった。彼女は14歳の時に初めて、ゴスペルのアルバムをレコーディングしている。母親のバーバラ・シガーズ・フランクリンもまた、ゴスペル・シンガーだった。アレサが2歳の時に親子はデトロイトへ引っ越し、父親はニュー・ベセル・バプテスト教会で人気の説教者となった。この地でアレサは、教会の儀式や音楽にどっぷりと浸かることとなる。父親が有名人だったため、家にはエラ・フィッツジェラルドやデューク・エリントンらも訪れたという。

5人兄弟姉妹のひとりとして育てられたフランクリンだが、家族全員が一緒に暮らした期間は短かった。彼女が6歳の時に両親は離婚し、母親はバッファローへと移った。神童と呼ばれたフランクリンはその後、父親の礼拝の場で歌ったりピアノを弾き始め、14歳の時に初めてゴスペルのアルバムをレコーディングした。フランクリンは、音楽のメインストリームに差し掛かっていたサム・クックを崇め、目標とした。1960年、彼女はコロムビア・レコードと契約し、スタンダード、ジャズ、ブルーズなどいくつかの曲をレコーディングしたが、大人しくあまり面白味のないものだった。「コロムビアが世界的なレーベルだということはわかっていた。だけどそれは、コロムビアのプロモーション活動がモータウンよりもマシだったからそう感じたんだと思うの」と彼女は後に語っている。それから約6年の間に、彼女は『Wont Be Long』などR&Bのトップ10シングルを何枚かリリースした。しかし、徐々に盛り上がりを見せていたポップ音楽の中で抜きん出ることはなかった。

ところが「貴方だけを愛して」から全てが変わった。アトランティック・レコードのプロデューサーであるウェクスラーは当初、彼女を伝説的なマッスル・ショールズ・リズム・セクションと組ませた。そこで彼女は、「シンク」や「チェイン・オブ・フールズ」、「ナチュラル・ウーマン」等をヒットさせ、音楽的に開花した。「ナチュラル・ウーマン」は、キャロル・キング、ジェリー・ゴフィン、ウィクスラーによる作品だった。1967年春、オーティス・レディングのカバー曲「リスペクト」が、当時盛り上がっていた公民権運動やフェミニスト運動のアンセムとなった。フランクリンが、誰も成し遂げなかった方法でこれらふたつの世界を結びつけたのだ。「『リスペクト』は、公民権運動やフェミニスト運動と相まって世界的に大きな影響をもたらした」とウェクスラーは言う。「露骨な淫らさと混ざりあった、尊厳に対する要請だった。行動を呼びかける歌や、愛や性をテーマにした歌は他にもある。しかし、それらをひとつに合わせた歌はなかなか見つけられないだろう」

フランクリンはまた、ポップ音楽における偉大なインタープリターのひとりだった。ゴスペルのスタンダードだろうが、現代のソングライターの曲だろうが、彼女が歌えば全て彼女自身のものとなった。彼女のレコーディングは単なる”カバー”でなく、メイクオーヴァーだった。「ポール・サイモンの『明日に架ける橋』のように、彼女が歌えば原曲が誰のものかということを忘れさせる」と、1960年代後半から70年代にフランクリンと仕事をしたドラマーのバーナード・パーディは証言する。「ポール・サイモンの曲だとは誰も思わなかった。アレサが歌えば、何でもそれがオリジナル曲になるんだ。『リスペクト』も同じ。誰もオーティス・レディングの曲だとは知らなかった」

1967年〜1974年の間、彼女はR&Bのトップ10に33回ランクインした。また、グラミー賞の最優秀R&Bヴォーカル・パフォーマンス部門を1968年(『リスペクト』で受賞)から8年連続で受賞。さらに1982年、1986年、1988年にも同賞を受けている。1960年代後半から70年代前半にかけて、ラジオからはいつでもフランクリンの曲が流れていた。彼女はオリジナル曲、ロックやR&Bのカヴァーのほか、彼女のために書かれた曲(例えば『レット・イット・ビー』は、本家ザ・ビートルズよりも少しだけ早くリリースされている)を歌い、そのどれもが彼女によって純金へと変えられた。まだ黒人差別の残る時代、彼女は白人のラジオ視聴者にも難なく受け入れられた。彼女の歌う曲は、前途多難な恋愛をテーマにしたものが多いが、市民の解放運動を裏テーマとした曲もたびたびあった。

1971年にサンフランシスコのフィルモア・ウェストで行われたショーは、境界を乗り越える彼女の才能を示す最適な例といえるが、それは決して最初から約束された成功ではなかった。同ライヴは、不朽の名作アルバム『アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』で聴くことができる。「ヒッピーが私に対してどのようなリアクションをするか、全くわからなかった」と彼女は後に語っている。しかし彼女はカウンターカルチャーの群衆を圧倒し、彼女が簡単に音楽の垣根を超えられることを示した。彼女のヒーローであるレイ・チャールズが観客の中にいることを知ったフランクリンは、アンコールで彼をステージへ引っ張り出した。『スピリットイン・ザ・ダーク』の途中からピアノとヴォーカルを彼と代わり、2人は素晴らしい演奏を披露した。「彼女は会場を教会へと変えてしまった」とチャールズは後に語っている。「失礼な言い方かもしれないが、あの女は観衆から大きな喝采を受けた。彼女は最高に輝いていたんだ」

フランクリンの私生活は波乱続きだった――1968年、『タイム』誌はアレサの特集記事の中で、彼女の夫でマネージャーも務めていたテッド・ホワイト氏が公衆の面前で妻を暴行した事件を大々的に報じ、翌年2人は離婚した。だが、彼女の声は健在だった。1972年のライブ・ゴスペルアルベム『至上の愛〜チャーチ・コンサート〜』では自らの原点に戻り、200万枚のセールスを記録。さらにポップソングを聖歌のように歌いこなす彼女の才能は、1973年のスマッシュヒット「待ちこがれて」を生んだ。1974年のローリングストーン誌とのインタビューで、幸せを感じさせてくれるものは何かという質問に対し、彼女は「子どもたち」と答えた。「あとは、ちょっとしたパーティを開いて、ごちそうをたっぷり作ること。ゴールドレコード。それから、愛」

1970年代後半から、フランクリンは徐々にヒットチャートで順位を落とし、時代の流れに合わせようとする試みも無駄骨に終わった。ローリングストーン誌との2012年のインタビューで彼女はこう語っていた。「キャリアをスタートしたころ父親に言われたの。『お前がどんなに歌が上手でも、どんなに大きな成功を収めても、喝采はいずれ収まる。そしていつかは拍手も起こらなくなる。ついにはハレルヤもアーメンも聞こえなくなる。ファンも目の前からいなくなるかもしれない』。そうした兆しは何度かあったし、たしかに父の言う通りだった。ある時点で、私のレコードはぱったりオンエアされなくなった。父の言葉がすぐさま甦ってきたわ」

C.L.フランクリン牧師は1979年、自宅で強盗に遭い、銃で撃たれた(強盗の1人が発射した弾は牧師の大腿動脈を損傷し、牧師は5年間昏睡状態となった。そして1984年、娘の復活劇を目にすることなく息を引き取った)。フランクリンは1980年の映画『ブルース・ブラザーズ』に特別出演して強烈な印象を残したが、音楽人生は低迷したままだった。

1980年、フランクリンはアトランティックを離れ、アリスタに移籍。そこでクライヴ・デイヴィスと組み、2年後ようやく努力が実った。ルーサー・バンドロスをプロデューサーに迎えた1982年の「ジャンプ・トゥ・イット」により、フランクリンは再びR&Bラジオのオンエアに戻ってきた。だが、クロスオーバーアーティストとしての完全復活は、1985年のアルバム『フリーウェイ・オブ・ラヴ』による。このアルバムで彼女は、ユーリズミックスやカルロス・サンタナといったアーティストとコラボレーション。彼女にとって最後のR&Bヒット曲となったシングル「フリーウェイ・オブ・ラヴ」は、MTV世代にも受け入れられた。「努力をしまず、プロデューサーとして成長できた自分に心からありがとうを言いたい」とは、1986年『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』のライナーノーツに記された彼女自身の言葉だ。

現代の音楽シーンにためらうことなく飛び込んでゆき、ポップミュージックでもヒットを連発したフランクリンは、ジョージ・マイケルやエルトン・ジョン、ホイットニー・ヒューストンらとコラボレーションし、次々シングルをリリース。自分に影響を受けた若手アーティストと共演するという方程式で成功を収めた。1998年には、彼女を心から敬愛するローリン・ヒルが「A Rose is Still A Rose」を彼女のために作曲、プロデュースしている。

だが、フランクリンはまたチャレンジ精神に満ちた人だった。1998年のグラミー賞授賞式でルチアーノ・パヴァロッティが出演できなくなった際、代役を名乗り出て「誰も寝てはならぬ」を熱唱。オペラ畑以外のシンガーで、この曲に果敢に挑むのは彼女ぐらいだろう。2012年のローリングストーン誌とのインタビューでもこのように語っている。「人々が望むものを提供しなくちゃいけない。お金を払って見に来ているのだから。その後で、たっぷり自分の好きなことをやればいい。だけど、ひとたびみんなの望みをかなえたら、そこに自分の歌いたいものを少し織り交ぜることもできるの。心をこめて演奏すれば、人々に受け入れてもらえるわ」

晩年のフランクリンはしばしば健康上の問題に悩まされ、レコーディングは一向に進まず、単発気味になった。2006年にレコーディングを始めた『A Woman, Falling Out Of Love』が、最終的に自身のレーベルからリリースされたのは2011年のことだった。2010年に予定されていたコンサートが中止されると、彼女が膵臓ガンを患っているらしいとのうわさが広まった。フランクリン本人はがん闘病接を否定し、腫瘍の摘出手術を受けたことを明かした。2018年にも医者から2か月間の安静を勧告され、コンサートを中止した。2017年11月、エルトン・ジョンが主宰する毎年恒例のエイズ基金コンサートが、フランクリン最後のパフォーマンスとなった。

それでも、フランクリンの声のパワーは決して衰えることはなかった。2014年には、アデルの「ローリング・イン・ザ・ディープ」をまるで最初から彼女の持ち歌だったかのようにカバーし、自身100曲目のR&Bチャートインを果たした(最後のアルバムとなった『グレイト・ディーヴァ・クラシックス』に収録)。「アデルは唯一無二のアーティストね」と、2012年のローリングストーン誌とのインタビューで語るフランクリン。「彼女の歌詞が大好き――60年代のキャロル・キングを思い起こさせるわ。アデルのほうがずっといいけどね!『We coulda had it all (2人ならすべて上手くいくはずだったのに)』のくだりとか。本当、アデルよね!」 2009年、フランクリンはバラク・オバマ前大統領の就任式でもパフォーマンスを披露した。彼女が音楽で多大な影響を与え続けてきた市民権運動がついに結実した瞬間だった。「自分自身を音楽で表現するといった点で、彼女に敵う人はいないわ」と、メアリー・J・ブライジは2008年のローリングストーン誌とのインタビューで語っている。「アレサの存在が、私たち女性を歌へ導いたのよ」

過去60年にわたるキャリアの中で、フランクリンはグラミー賞にノミネートされること44回、そのうち受賞は18回。1987年には女性シンガーで初めて、ロックの殿堂入りを果たした。

2016年、「リスペクト」を振り返ったフランクリンは、自身によるカバーが世に与えた影響をこのように説明した。

「あの曲が好きだったの。本当に大好きだったから、ぜひカバーしたいと思った。あの曲で語られるメッセージはとても重要。私にとって重要なら、他の人にとっても重要だわ。私個人や市民権運動、女性にとってだけじゃなく、全ての人々にとって重要なはずよ。タイムカプセルにどの曲を入れるかと聞かれたら、間違いなく『リスペクト』ね。人々はリスペクトを必要としているから――たとえ小さな子どもでも、赤ん坊でも。人間として、誰もが相手からリスペクトされる権利を持っているのよ」