野球にはさまざまな“あのとき”がある。つまりターニングポイント。プロ野球では長嶋 茂雄が巨人でプロデビューを飾った1958(昭和33)年、野茂 英雄が近鉄を任意引退となってドジャースに渡った1995(平成7)年、イチローがシーズン210安打を放った1994年、1リーグ制をめぐる再編騒動があった2004(平成16)年、大谷 翔平(関連記事)が日本ハムでプロデビューした2013(平成25)年が私にとっての“あのとき”。そして、高校野球では横浜高校が甲子園大会で春夏連覇した1998(平成10)年が私にとっての“あのとき”である。

“西高東低”の勢力図を一挙ひっくり返した松坂大輔松坂 大輔(横浜高時代)

「私にとっての」と限定的に言ったが、横浜高の春夏連覇は歴史的に見ても大きな“あのとき”だった。横浜高校が天下を取る以前、93〜97年までの過去5年間の春夏の優勝校は西日本勢の独壇場だった。近畿勢が上宮高(93年春)、育英高(93年夏)、智辯和歌山高(94年春、97年夏)、天理高(97年春)の5回(4校)、九州勢が佐賀商(94年夏)、鹿児島実(96年春)の2回、四国勢が観音寺中央高(95年春)、松山商(96年夏)の2回で、東日本勢は95年夏に帝京高が優勝した1回だけ。この“西高東低”の勢力図を横浜高というより松坂 大輔は一挙にひっくり返した。

 甲子園で脚光を浴びる前年、松坂は夏の神奈川大会決勝、横浜商(以下Y高)戦でサヨナラ暴投を演じている。上体を激しく揺するフォームは2017年現在の松坂のようであり、この体の横振りが腕の振りをスリークォーターにし、右打者の内角方向に抜ける悪癖を誘っていた。サヨナラ暴投の場面を再現しよう。2対2で迎えた9回裏、一死一、三塁のピンチで松坂はスクイズを警戒し左打者の外角に大きく外すと、これがバックネット方向に転がる暴投となって三塁走者が生還する。一打サヨナラの緊張を要する場面が指先の感覚を狂わせたという見かたもできるが、右打者の内角方向(左打者の外角方向)に抜けやすい腕の振りや左肩の早い開きが暴投を呼んだと言った方がいいと思う。

 この97年夏までの松坂とそれ以降の松坂とでは投手としての“姿”がまるで違う。97年夏の松坂はドラフトという物差しで評価すると3、4位、それが97年秋以降は「20年に1人」くらいの評価になる。わずか1カ月で投球フォームが変わっていることに驚かされる。まず体の横振りが縦振りに変わり、腕の振りがスリークォーターからオーバースローに変わった。この変化によって横変化一辺倒だったスライダーに縦変化が加わり、向かって右方向へ抜けるストレートも少なくなり、代わりに打者を圧倒するボリュームが生まれた。

松坂 大輔(横浜高時代)松坂は高校野球人気も盛り返した

 97年秋の神奈川県大会では8試合に登板して7勝0敗、防御率1.58と圧倒的な数字が残っている。準決勝のY高戦は1失点完投で夏のリベンジを果たし、関東大会は3試合に登板して3勝0敗、防御率0.78でチームを優勝に導いた。ちなみに、神奈川県大会決勝、関東大会決勝は同じ神奈川勢の日大藤沢高と対戦して、神奈川県大会は9対0で完封勝利、関東大会は延長10回を投げ抜き1失点で完投勝ち。チーム勝利より館山 昌平(ヤクルト<関連記事>)と演じた投手戦を制した姿の方が強く印象に残っている。この勢いを駆って秋の全国大会、明治神宮大会も快勝した松坂は選抜を前に、既に全国区の知名度を得ていた。

 98年選抜大会は江川 卓以来の怪物と前評判の高い松坂が、甲子園でどんなピッチングを展開するか、その一点に注目が集っていた。初戦(2回戦)の報徳学園戦(3月28日、土曜日)の観客数は2万5000人。高校野球人気が過熱している現在の状況から見ると大したことはないが、この98年は高校野球の人気が低かった。日本高等学校野球連盟(高野連)のホームページによると、有料人員新記録を更新した1991年は52万人で、97年は34万9000人まで落ち込んでいる。それが松坂登場で沸いたこの98年は51万4000人まで盛り返している。松坂人気の凄まじさをこういう部分で感じてほしい。

 報徳学園を6対2で下して3回戦の相手は村田 修一(巨人、当時投手)、田中 賢介(日本ハム、当時2年生で遊撃手)を擁する東福岡高。松坂は9回を被安打2、奪三振13で完封勝利を飾り、スコアは僅少差の3対0。日大1年当時の村田に松坂の印象を聞くと、「点差は3点だったけど、勝てる気がしませんでした。あの試合の松坂のピッチングを見て投手としての限界を知り、野手に転向したんです」と語ってくれた。

 村田のこの大会での最速は54人中11位の136キロ(『報知高校野球、1998年5月号』より)。ウエイトトレーニングが普及していなかった当時としては速い方である。投手を続けて入ればプロでも投げていたかもしれない。そして、松坂は参加選手中のナンバーワンの150キロを計測。これはスピードガンが普及した1980年以降では、初の大台超えである。

 準々決勝は郡山高を4対0、準決勝はPL学園を3対2、決勝の関大一高は3対0で下し、横浜高は25年ぶりの選抜優勝を飾るのだが、戦った相手がそれまで甲子園大会を席巻していた西日本勢というところに意味がある。ちなみに、松坂がこの選抜大会で対戦し、のちにプロ入りする選手は次の通りである(プロは最初に所属した球団だけ記載)。

・光原 逸裕(投手、報徳学園→京都産業大→JR東海→オリックス)・鞘師 智也(外野手、報徳学園→東海大→広島)・村田 修一(のちに三塁手、東福岡高→日本大→横浜)・大野 隆治(捕手、東福岡高→日本大→ダイエー)・田中 賢介(のちに二塁手、福岡高→日本ハム)・田中 一徳(外野手、PL学園→横浜)・大西 宏明(外野手、PL学園→近畿大→オリックス)・平石 洋介(外野手、PL学園→同志社大→トヨタ自動車→楽天)・久保 康友(投手、関大一高→パナソニック→ロッテ)

 これらのライバルをなぎ倒して全国の頂点に立った松坂と横浜高は夏の甲子園大会も制して87年のPL学園以来11年ぶりの春夏連覇を達成するのである。

 (文=小関 順二)

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