奨学金は瀕死の大学と地方の延命策:学生はカモネギ奴隷?/純丘曜彰 教授博士
給付型奨学金、というと、いかにも格差対策、教育投資のように聞こえる。だが、ほんとうは、少子化で瀕死の大学、瀕死の地方にカネをばらまいて延命するのが主目的。
奨学金は、学生に出しているように見えるが、実際は学費に直行する。つまり、大学に補助金を出しているのと同じ。日本私立学校振興・共催事業団の『私立大学・短期大学等入学志願動向』(2016年5月1日現在のデータ)によれば、私学の定員割れが257/577校、つまり、44.5%。
もう少し細かくみると、入学定員区分で一学年800人未満の中小規模大学の定員充足率は94.3%、800人以上(総学生数3200人以上)の大規模大学は108.4%と、明確な規模格差ができてしまっている。(総学生数は、ほんとうは入学定員x4のほかに編入や留年などを含む。)そもそも志願倍率からして、800人未満が3.55倍、800人以上は9.42倍。これだって、推薦入試その他で相当にいじくって、この数字。実質的には、総学生数3000人程度に足らない大学は、かなりムリをして学生を掻き集めている。(もちろんなんでも合算相殺してしまう統計上の話なので、小規模円満経営のところも無いでは無いはずだが。)
地域別だと、志願倍率では、京都10.34倍、大阪9.97倍、東京9.85倍の三府都が突出していて、これに愛知、千葉、兵庫、福岡が6倍以上で続いている。逆に、東北(宮城を除く)、甲信越、九州(福岡を除く)、四国は、2倍台で、極端に人気が無い。がさつな分析ながら、地方小規模大学は、かなり厳しい状況にあることが想像される。また、地域や規模はともかく、2年連続で定員充足し向上しているところが48校、逆に2年連続定員未充足で、さらに悪化しているところが68校。大学の人気格差は開いていっており、いずれこれらから潰れるところが出ることは避けられまい。
もはや勝敗はついているのだから、淘汰が当然だ、と思うかもしれないが、そう簡単でもない。総務省統計局の推計人口だと、2014年/2005年で、東北(宮城を除く)-7.79%、甲信越-4.5%、九州(福岡を除く)-2.86%、四国-5.09%。2014年の年齢別で、15歳〜24歳は、全国平均だと人口の9.60%はいるはずであるのに対し、東北(宮城を除く)8.84%、甲信越9.14%、九州(福岡を除く)9.40%、四国8.74%しかいない。つまり、これらの地方は、人口が減っているだけでなく、若年層の率も全国平均より少ない。だから、大学の状況が厳しいのだ、とも言えるが、大学でかろうじて地方の若年人口を支えている、とも言える。
大学生は、ネギをしょってくるカモ。それどころか、安価な労働力。彼らへの仕送りが住居費や生活費、遊興費としてまるまる地元に落ちるだけでなく、彼ら自体が飲食店やスーパー、コンビニなどのバイトの主要供給源でもある。大学さえあれば、ろくにやる気もない荒れ果てた田んぼを潰し、そこにアパートを建てておくだけで、毎月、毎年、確実に家賃収入が入ってくる。おまけに、連中が大学に鎖で縛られている以上、遠くまでバイトに行くわけにもいかず、村ぐるみで連中を安く使えば、連中の生活が苦しければ苦しいほど、いくらでも連中から上前をはねることができる。
もっとも、地方がこんな調子で学生をカモネギ奴隷としか扱わないから、よけい学生が寄りつかなくなる。築何十年なんていう地震で簡単に潰れてしまうボロアパートを表面だけリフォームしてごまかそうとしても、学生たちは、ムリをしても、もっとバイトにも遊びにも有利な自宅や町中からの遠距離通学を選ぶ。そもそも、そんな辺鄙な大学なんか選ばなくても、町中の大学がいまや自己推薦だのAO入試だのでフリーパスになりつつある。
文科省の方針は、大学定員の厳格化。これまで、本来の施設規模、教育能力の3割増しも学生を詰め込んで運営してきたことがおかしい、というのは、たしかに当然だ。だが、人気のある都市部の大学を締め上げたところで、少子化による入学年齢人口の急減を前に、地方中小規模大学におこぼれ学生が回ることは無い。せめて人数の底上げを、ということで奨学金のバラ撒きなのだろうが、定員割れ大学の経営、地方らしからぬ大学周辺の法外に高い生活費と法外に安いバイト代では焼け石に水。
大学にしても、地方にしても、本気で次世代を担う学生たちを育てる気があるのだろうか。営利以上の教育機関である以上、時代が変わってうちの規模ではもうムリだ、となれば、学生のためにはならない、と客観的に判断し、みずから早々に撤退と引継を英断するのがスジ。地方も、自分たちの村の教養の中心としての大学を守り、村の活性と将来を本気で考えるなら、地震で潰れるボロアパートなんかで法外な家賃を巻き上げたりせずに、どうせ農家は家もばかでかいのだから、それぞれの豪勢な自宅に学生たちを居候させて、自分の子と思って食費はもちろん多少の小遣いでもくれてやり、後生の社会に広く出世払いしてくれればいい、というくらいの懐の深い篤志家たちはいないのか。
人を育てる、大学を育てるのは、森を育てるのと同じ。目先の利益で、すぐにカネを巻き上げることばかり考えていたのでは、未来ある有為の学生は居着かない。たとえ大学のためにやってきたとしても、地域がぞんざいに扱えば、こんなひでえところ、二度と来るもんか、と、卒業してすぐに出て行ってしまう。しかし、来てみたら、なかなかいいところじゃないか、と思えば、卒業後も住み着き、そこで仕事を始めて、地域を発展させる。都会だって、もとは大差ない田舎町の寄せ集めだった。だが、大学で学ぶために出てきた連中が、そこを気に入って卒業後も住み着いて、いまの姿になった。学生を育てることが、村を育て、町を育てることにもなる。寂れる地方は、はたして、その努力をこれまできちんとしてきたのだろうか。
結局、人を育てるのは人。だから、人類の一万年の昔から学校というものがあって、先生がいて、学生がいる。教育は、カネでは解決できない。格差対策、教育投資、地方活性化を本気で考えるなら、現金バラ撒きなどではない、ほんとうの意味での「奨学」ということを、大学も地方も考えていくべきではないのだろうか。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)