アマテラスは津波追悼神:むかし名古屋は海だった/純丘曜彰 教授博士
大きな地震があったら、アマテラス系神社(神明宮、五十鈴、稲荷、熱田など)周辺から離れ、早く遠く高いところに逃げろ。そこには津波が来る。そして、できればスサノオ系神社(須賀、熊野、八幡、八坂など)の本殿境内まで上がれ。
地道な実地学術調査があるのだ。東京工業大学大学院、桑子敏雄教授研究室の院生(当時)、高田知紀・梅津喜美夫による「東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究」(土木学会論文集F6(安全問題), Vol. 68, No. 2, I_167-I_174, 2012. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejsp/68/2/...)
アマテラスは後から日本神話に入れられた
アマテラスと言うと、伊勢神宮に祭られている皇祖神で、日本人の総氏神、ということになっている。だが、それは、絶対天皇制のために、江戸時代の山崎闇斎の垂加神道と、庶民のお伊勢参り人気を繋ぎ合わせて明治政府が捏っち上げた話。記紀を見ても、古代の天皇がアマテラスを大切に祭っていた記録など無いし、実際、天皇のだれひとり、明治以前に伊勢に行ってもいない。
もう少し細かく見ると、アマテラス神話こそ有名だが、その後、初代神武天皇の東征でさえ、アマテラスは熊野でちょこっと夢に出てきただけ。第10代崇神天皇になって、以前からアマテラスと倭大国魂の二神を天皇大殿の内に並べて祭っていたが、国民の過半が疫病で死ぬほどの災厄に苦しんだので、これらを別のところに文字通り厄介払いした、となっている。あとは、第12代景行天皇即位20年に、イホノ皇女を遣わしてアマテラスを祭らせた、というのと、神功皇后(第14代仲哀天皇后)の大阪入港に難儀していたら、アマテラスが夢に出てきて、広田(兵庫県西宮)に祭れ、と言った、とかくらい。
ここからずっと飛んで、672年の「壬申の乱」の挙兵において、トホの川辺(四日市)で第40代天武天皇がアマテラスを望拝した、というのと、その即位2年、オオク皇女をアマテラス太神宮に遣わして仕えさせるべく泊瀬齋宮にいさせた、とあるだけ。アマテラス太神宮が伊勢なのかどうかすらも、わからない。
そもそも記紀にアマテラス神話を載せたのは、記紀を作らせた天武天皇・持統女天皇夫妻。本来の出雲神話では、黄泉から戻ったイザナギの穢れから生まれたのはスサノオだけで、この後で国譲が出てくるために、その譲らせる側の素性と正統性を説明する別の山人(ヤマト)神話が、年代順に語る都合で前の方に後から挿入されたらしい。(次ページに続く)
しかし、本来の山人神話では、皇祖神は高ミムスヒだった。第23代顕宗天皇のところに、即位3年2月、任那に使いを出したら、月神が出てきて、私の祖先の高ミムスヒが天地のいろいろを作ってやったんだから、私を祭れよ、と言う。同年4月、こんどは日神が人に憑いて、イワレの田(桜井市吉備池あたり?)を私の祖先の高ミムスヒに献上しろ、と言い出した。それで、そのとおりにした、とのこと。ここでの高ミムスヒも、日神も、あきらかにアマテラスではない。むしろ高ミムスヒは火山神だったと思われる。
東宮としての大海人皇子
では、アマテラスの出どころはどこか、ということなる。それは、わざわざ記紀を造ってアマテラスを日本の根本神とした天武天皇と大きく関わっている。
天武天皇は、672年の「壬申の乱」以前の史料が少ない。それで、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子こと第38代天智天皇の実弟(同父母)であることさえも、しばしば疑われる。だが、史料以前に、事実として、彼は大垣に広大な「湯沐(とうもく)領」を持っており、これこそが壬申の乱の勝利の鍵となった。湯沐領は、中宮(皇后)や東宮(皇太子)の経費を賄うための直轄領であり、天武天皇すなわち大海人(おおあま)皇子が湯沐領を持っていた、ということは、DNA的に実弟かどうかはともかく、天智時代から東宮、つまり、正規の皇位継承予定者として公認されていたことを意味する。
ところで、一般に皇子の通名は、育った地名を当てる。大海人皇子の場合、記録はないが、その葬儀で凡海(おおあま)氏が悼辞で幼少期のことを述べており、同氏の摂津で乳母に育てられたのではないか、とされてきた。だが、大垣の湯沐領のあたりの地名こそが、「海部(あま)」郡なのだ。このことからすれば、彼は幼少から大垣の海部湯沐領で育った、つまり、生まれた時から東宮として皇位継承が公式に決まっていたことになる。
逆に言うと、天智天皇の方が、中大兄皇子として645年の「乙巳の変」で蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」を成し遂げたとはいえ、皇極(斉明)女天皇の実子ながら、なんらかの理由で皇位継承の資格を欠いていた(欠いてしまっていた)可能性がある。にもかかわらず、661年に即位し、くわえて71年末の死の直前に、大海人皇子を退け、実子、弘文天皇(大友皇子)を後継者にしようとしたことは、政治的に大きな無理があった。
時代は、そんな無理を許す状況ではなかった。618年にできた唐は、新羅と組んで半島に勢力を伸ばし、660年には半島西部の百済を、68年には半島北部の高句麗を滅亡させた。にもかかわらず、天智天皇は、百済再興を支援して、663年に「白村江の戦い」で大敗。唐・新羅連合軍は、次には日本に攻め込んでくるかもしれない、ということで、67年には、飛鳥から近江大津に宮を遷し逃げる。ここに百済はもちろん半島各国から多くの貴族が次々と亡命してきて、押しひしめいているようなありさま。
海皇子と壬申の乱
天武天皇、つまり大海人皇子もまた、太政大臣として近江大津宮にいたが、『紀』によれば、彼は身体屈強なだけでなく、天文遁甲(占術軍略)に長けていた。天智天皇が実子の弘文天皇(大友皇子)へ継承を決める前に、みずから身を引いて「出家」し、実母斉明天皇が造った吉野離宮に隠遁してしまった。
しかし、72年5月(旧暦)にもなると、不穏なウワサが伝わってきた。6月22日、海部湯沐領に、挙兵して不破(関ケ原)を塞げ、と伝令を発し、24日にはササラ皇女(天智の娘、後の持統天皇)ほか数十人が徒歩で吉野を脱し、7月2日(旧暦の6月は29日までなので22日から9日後)には、関ケ原に4万の兵を集め、朝廷軍に突っ込んで行く。これは、古代最大の内戦だ。
朝廷軍は、唐侵攻に備えていたから、4万の兵を揃えるのも無理はなかっただろうが(それでも九州などは海岸防備のために出兵を拒否している)、天武側がわずか9日で同じ4万を集めたのは、いくら広大な海部湯沐領を持っていて、まとまって尾張国司軍2万が付いたにしても、これは尋常な手腕ではない。
彼は、伊賀や伊勢、尾張だけでなく、美濃・信濃・三河にも動員をかけている。これら4万の兵が関ケ原に到着できたのは、彼が梅雨の増水を利用して木曽川や長良川、伊勢湾一帯の水運力をフルに活用できたからだろう。そして、7月22日の決戦まで20日間。4万人20日分、1日2食としても160万食の兵糧を調達し、これを大津まで延びていく最前線まで運び込むとなると、兵のほかに、さらに1万人くらいの後方支援があったはずだ。
当時の日本の総人口が600万程度と見積もられていることからすれば、当時はまだ僻地とされていた東国で、たった8日で5万も動員できたのは、天武がもともと東国、というより伊勢湾の「海皇子」として信望を集めていたから。658年の有馬皇子の謀反計画のように、長年の山人(ヤマト)支配、とくに失敗続きの半島遠征徴用に対して、海人(アマ)たちは不満を募らせていた。それが、壬申の乱をきっかけに火がついたのだ。
白鳳地震と伊勢創建
しかし、彼が天皇になってからは、さんざんだった。半島からはあいかわらず反唐支援を要請工作をする王族たちがやってくる一方、唐からも懐柔工作の使者が次々と来訪し、国内は反唐か親唐かで揉め続け、おまけに地震だ、噴火だ、彗星だ、と、天変地異だらけ。
679年の筑紫大地震に始まり、とくに684年、天武13年冬10月14日(新暦11月26日)の「白鳳地震」は、南海・東南海・東海三連動の超巨大地震で、この後に伊豆諸島や浅間山なども噴火し、土佐から紀伊半島、東海にまで、壊滅的な被害をもたらしている。これによって、彼の政治基盤であった伊勢湾ほかの海人(アマ)も、甚大な損害を被ったにちがいない。
当時、天変地異は、為政者に天が怒りを示したもの。天武天皇は以前から広瀬(大和川合流点)の大忌神(トヨウケビメ)、龍田(大和川出口)の風神(シナ(息長)つヒコ)を祭っていたが、さらに気弱になったのか、翌年春には諸国の家ごとに仏舎を作って仏像とお経を具え、礼拝供養しろ、と言い出す。しかし、686年1月14日には失火で難波宮が焼失。4月27日、タキ皇女・山背(やましろ)姫王・石川夫人(おおとじ)を伊勢神宮に遣わした。
ここで初めて明確に「伊勢神宮」が登場する。これ以前には、第12代景行天皇40年に、ヤマトタケルが東征の前に伊勢神宮に寄って草薙剣を得た、というのと、第31代用明天皇が即位してスカテ皇女に伊勢神宮を拝しさせ、日神祀りを奉じさせた、というのがあるが、ヤマトタケル自体が神話的英雄で実在性が疑わしく、スカテ皇女の話も、トホ川辺望拝と同じく、拝したというだけで、行ったかどうか、わからない。これに対し、ここでは、伊勢神宮に遣わした、と、はっきり書かかれている。
ところが、このときいまの伊勢神宮が実在したというのは、無理があるのだ。というのも、外宮はもちろん内宮も、海抜は現在でも10メートルそこそこしかない。猿投神社伝承養老元年(717年)古地図に合わせると、この時代の伊勢湾は、通常でもおよそ海進5メートルだったことがわかる。(下図は、その後の紀伊半島の隆起5メートルを勘案して海進10メートルで設定。)ここに684年、数十メートル級の白鳳地震大津波を喰らったのだから、この一帯は、見渡す限り、町も、木も、なにもかもが引き浚らわれた禿げ野原だったはず。
伊勢内宮は、いまでこそ鬱蒼とした原生林のようだが、九州の屋久杉は樹齢2170年なのに対し、神宮杉は最古でもせいぜい八百年。それは、あのあたりが過去に何度も大津波を喰らっているから。タキ皇女たち三名を伊勢に遣わしたのも、この大災害の被災地の様子を確認し、後に伊勢神宮を建てる場所を探索するため。だから、存在しない伊勢神宮に逗留することも無く、往復十日のみで5月9日に帰京。
しかし、5月24日、いよいよ天皇本人が発熱。川原寺で薬師経を唱えるも治らず、各地の寺を掃除させ、大赦で囚人全員を解き放つも変わらず、6月10日に占うと、668年に新羅僧道行が熱田神宮から盗んだはずのヤマトタケル草薙剣が宮中にあって、これが祟っていることがわかった。それで、その日のうちに、これを熱田神宮に送り返した。
草薙剣盗難事件は、奇妙な話だが、壬申の乱の前から、大海人皇子が皇位継承の正統性を示すために熱田神宮から持ち出させて、手元に置いていた可能性もある。もしくは、熱田神宮も84年の津波の被害で壊滅してしまっており、新たに剣を仕立てて、再建を確約した、ということかも。
いずれにせよ、天武天皇は同86年9月に亡くなり、后のササラ皇女が第41代持統女天皇に。そして、伊勢内宮の第1回式年遷宮は、津波から6年目の690年。だが、これは遷宮ではなく、新規創設だったのだろう。もしくは、海人神話を持つ熱田神宮の方がもともとアマテラスを祭っていて、これを伊勢に勧請(かんじょう)したのかもしれない。
また、外宮は692年。こっちは、広瀬の大忌神(トヨウケビメ)を祭る。もともとイザナミの尿から生まれた女神で、キツネに守られ、稲荷に祭られている豊作の神でもあるが、かつて崇神天皇のときに広瀬に汚水ダマリ(水足池)ができて国民の過半が疫病で死ぬ、というような大災害をもたらしてもいる。津波洪水のアマテラスと汚水疫病のトヨウケビメとが内宮外宮で対になっているのは、こういうわけ。
壬申の乱のとき、天武側は赤色を味方の目印とした。世界でも太陽を赤で描くのは日本くらい。アマテラスも、黄金に輝く天上の太陽神ではなく、真っ赤な朝日を照らす大海原だったのではないか。そして、伊勢神宮は、津波でなにもかもなくなってしまった海辺の小高い丘に、その追悼と鎮魂のために建てられたのではないか。全国各地にアマテラスを祭る神明宮はあるが、東北に限らず、その多くは、実際、津波洪水などの災害や鎮魂と結びつくところにあるのかもしれない。
※ 作図に関しては、埼玉大学谷謙二准教授が開発した「Web等高線メーカー」を活用させていただいた。あらためてお礼申し上げたい。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)