喜多川歌麿の浮世絵「姿見七人化粧」。女性の化粧姿を題材とした美人画である

電車内での化粧、ありかなしか――そんな議論が続いて久しい。ちょっと前は「ありえない!」の声一辺倒であったが、最近では「でも、女性の側からすると......」といった反論もあって、変な言い方ではあるが「市民権」を得つつある。

現在83歳のぶらいおんさんは、こうした光景はかつてはあまり見かけることはなかった、と言う。しかし一方で、それを正面から「迷惑だ!」と切り捨てることもしない。その理由は。

「みっともない」とは思うが「迷惑」ではない

最近、電車内での化粧の是非が議論になることが多く、テレビ番組の調査では、半数以上が「容認」しているという結果も出ているそうだ。過去には、こうした光景は余り見掛けることは無かったし、また筆者自身がどう感じるか?と尋ねられれば、たとえ世の大勢は止められ無いにしても、到底すんなりと「容認」する気は更々無く、実際に、そんな場面に遭遇すれば、なるべくそれから目を背け、見苦しいものには敢えて目を向けない、といったところが、私の回答となろう。

ウィキペディアを参照すると、こうある。

『ブリタニカ百科事典によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首・手・足などの表面に化粧料をほどこし、美化することである。広義には、(人だけでなく)ものの外観を美しく飾ることである。
王族などが人前に現れる時、化粧を用いた。祭礼などでも化粧が行われる。
俳優は、舞台に立つ時は、独特の化粧をする。たとえば、目・鼻筋・口などが遠くからでもはっきり判るような化粧をする。これを「舞台化粧(ぶたいげしょう)」と言う。各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。例えば京劇では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。日本の歌舞伎でも、役柄ごとに決まった化粧がある。
ご遺体に化粧をほどこすことを死化粧(しにげしょう)と言う。』

最近は、上述したような特別な場合または状況に置かれた男性ばかりで無く、日常でも、化粧する、普通の男性が居るらしい。しかし、私は化粧というものをしたことが無いので、「化粧」そのものを元々論ずる資格は無い。

そこで、筆者が予て色々な活動、たとえば文芸同人詩誌の発行、編集や、特定テーマを定めてフリーディスカッションを行う「詩をきっかけとして考える会」を積極的に進めていた頃からパートナーとして熱心に協力してくれた団塊の世代に属する、或る女性に、本テーマについて、色々訊ね、筆者とディスカッションした結果を織り込みながら筆を進めることにする。

この人を、一応ここでは"Tさん"と呼ぶことにする。

Tさんは、専業主婦というわけでは無く、プロの音楽教師として活動している。従って、当然、家を出て、外にある活動場所に向かうことが多い。

だから、「電車で化粧の女性は仕事できない」という議論のきっかけとなった熊田曜子発言にも、Tさん自身大いに関わっていることになる。

先ず、このことについてのTさんの率直な見解は、「私自身は、積極的に容認する立場には無い。ただ、最近どうしても時間が無い場合や、化粧直しを要するような場合には、止むを得ず手早く済ますこともある」というものであった。但し、その場合でも出来るだけ人目につかないような、電車が空いているときとか、座席の至近位置になるべく人が居ない場合を選ぶことにしている、という。

つまり、我々2人の見解では、矢張り「化粧」の本性は、飽くまで完成したものを人目に晒すもので、その準備プロセスを無闇矢鱈に公開することを憚るものだ、と言う結論で一致している。

そうなって来ると、俳優の化粧は舞台に立ったときのみ、観客に見せるべきものとなり、舞台裏の状態は、当然人目に晒すべきものでは無く、不用意にそんな状態を晒したりすることはプロとしては、恥ずかしい限り、と言わざるを得ない。

この考え方を拡張して行くと、(と、ここまで書いたところ、突然対象となる、専業主婦では無い、働く女性、いわゆる「職業婦人」を、何と呼べば良いのか?はたと困った。しかし、「職業婦人」では、大正時代から昭和初期にかけての呼び方だそうで、余りにも古めかしいし、一番なじみ深いのは、「OL(オフィスレディー)」と称する和製英語の呼び方で、昭和時代後期には、丸の内の近代的なビジネス街オフィスで働く女性を指して「丸の内のOL」と称し、後に補佐業務あるいは一般職の女性社員等に対して「OL」が使用されるようになった、という。また、一般職或いは専門職に限らず、特に優秀な女性に対して「キャリアウーマン」が用いられた。)(専ら、ウィキペディア参照)

結局、「働く女性」(ここでは、そのように表現して置こう。)達にとっても、彼女らの舞台は職場であるから、それ以外の場所で化粧のプロセスを公開するのは、俳優に準じて「恥ずかしい行為」である、という考え方も成り立つだろう。

となると、タレントの熊田曜子さん(34)の理屈による、「自宅で身だしなみを整える時間を作る計算ができないため電車内でやるしかなくなる。」、だから、電車内で化粧している女性について、「仕事ができない人だと思う」という発言も、頷けないことは無い。

しかし、一方で、「電車内での化粧を前提にスケジュールを組んでいる」という意見もあるとすれば、問題は別のところにあるのでは無いだろうか?

この熊田さんの発言は2016年11月4日放送のフジテレビ系情報番組「ノンストップ!」で飛び出した、という。

東急電鉄のマナー広告で、電車内での女性の化粧に対し「みっともない」という表現があり、それについての賛否両論があることについて議論が交わされた時の事で、 同番組調べで電車内の化粧は迷惑だと思うか、という20歳以上の男女1496人へのアンケート結果が示され、それによれば「迷惑」が46%、「迷惑だと思わない」が54%だった、というが、筆者には、実際のところ、この「みっともない」という表現が、どうしてアンケートの「迷惑」の数値に直接結びつくのか?がよく分からない。

率直に言って、筆者は、電車内での女性の化粧を「みっともない」とは思うが、別にそれが、直ちに「迷惑」だとも思わない。

他人が「みっともない」ことをしていても、それが私の面前で、これ見よがしに迫ってくるもので無い限り、別に私自身が「迷惑」を感ずることは無い。一頃、流行ったテレビ時代劇の渡世人、木枯らし紋次郎のセリフでは無いが、「あっしには、関わりのねぇことでござんす!」といったところなのだ。

従って、問題は、「その行為が迷惑か、迷惑では無いか?」ではなくて、何故?<電車内での女性の化粧が「みっともない」のか>の方にあるのだろう。

日本では、昔から、こうした<電車内での女性の化粧>のような行為を「みっともない」と感じて来た筈だ。その感情は、一体何処に由来するものだろう?

それは、日本で伝統的に引き継がれてきた、いわゆる「恥」乃至「羞恥心」の感覚を周囲に抱かせること乃至状態について、強く意識する文化の中にあるのでは無いか?

その考え方は、"知恵コレ"による次の記述中の、『集団の中での自己にいきなり焦点が当てられたりと言ったような場面で、この感情がでてくる。

この感情は、集団の中の自己を意識するようになって初めて生まれてくるものである。』というところにあり、更に『自分が社会的なルールや常識を知らないで、ルールに違反してしまったり、自分が望むだけの成果を上げられなかったりした場合に、自分が身の置き所がなくなり、自身の内にこみ上げてくる感情・情動のことと解され、これらは様々な面で、道徳や人道といった概念が引き合いに出され、自身の行動を適正化させていく。』とある。

もっと別な具体例を挙げれば、武士の世界では、忠義のために、自他共に認められるような成果を果たせなかったような場合、あるいは果たすべき義理を不本意にも欠いてしまったような場合には、その恥をそそぎ、名誉を保つため、命を懸けて(切腹して)償うことが、むしろ当然、と考えられて来た経緯がある。

それは、必ずしも武士の世界だけに限られなかった。婦女子の場合でも、特に武家社会の中の婦女子の場合には、他者との関係で「羞恥心」を強く意識するように、子供のうちから親に熱心に教え込まれて来た伝統がある。

別に、化粧自体が、昔から「みっともない」ものと考えられて来たわけでは無い。優れた浮世絵として今に伝わる作品の中にも女性の化粧をモチーフにしたものは少なくないし、こうした作品が人々にも愛されて、今に伝えられている。

問題は、飽くまで「公的な空間に極私的な、つまりプライベート空間を持ち込んで、無闇矢鱈に人目に晒すことについて、その当人は"恥ずかしくないのか"、そしてそんな状態を見せられた他者が、明らかな嫌悪感を示さないまでも、"みっともない"とか"見苦しい"とかという感情を抱いたりしては居ないだろうか?という相手の思念についての想像力の欠如、というところにあるのであろう。今の言い方では、「空気が読めない」と言うことになるのかも知れない。

前述のTさんは言う。「私は子供の頃から親に、人前で"恥ずかしいことをしてはいけない"と厳しく教えられて来た。」電車内の化粧も、当然これに当て嵌まる。更に、最近、よく見掛ける"若者たちが地面に、平気でべたっと座り込む"場景も同じで、昔なら親に激しく叱責されたことだろう、とも言っていた。

それらの点に対し、Tさんと同世代以下の親たちでも、そうした日本人の「"恥"を意識する心」を次第に失い、その点について、子供達に厳しく教えることをしなくなった。その結果が、今の「電車内の化粧」を容認する方向をもたらしたのであろう、という。

その考え方や体験は、昭和一桁世代に属する筆者の場合でも全く同様である。だから、「電車内の化粧」も昔ではあり得なかった光景だし、そういう行為自体を公共交通機関の中で臆面も無く実行する、という態度は、どうしても「見苦しい限りだ」と言うことになる。

しかし、良くも悪くも、人々の意識も、価値観も、判断基準など、あらゆる事態は変貌して行く。そして、それらの変容は誰にも如何ともし難いまま進行するだろうし、また、反面、そうしたことによって新しくなったり、進歩して行く事柄もあるわけだから、それはそれで仕方が無い。

結局のところ、要は自分の立ち位置を揺るがすこと無く、淡々と世の中の変化を眺め、受け入れるべきは、受け入れて行くということに、尽きるのであろう。

筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh