コンセプチュアル思考〈第16回〉 概念の図化 =図解と図観=/村山 昇
◆図的な情報表現〜データの視覚化から概念の視覚化まで
概念をモデル化した図は、たとえシンプルな表現であっても、そこに深い意味やものの見方――すなわち「観」――を含んでいるものです。その点で、概念図は数値グラフや地図とは少し異なっています。そこで、概念図がいわゆる図的な情報表現の中でどんな位置づけになっているのか、それをまとめたのが下の図です。
図のヨコ軸は何を表現するかで、「データの視覚化」から「概念の視覚化」へと移り変わっていきます。タテ軸は表現の「簡素さ」「濃密さ」です。重要なのはヨコ軸のほうです。左側に置かれるものは、データを忠実に客観性をもって図に変換するものです。そこから右にいくにしたがい、抽象化や概念化の作業が入り、表現するものが物事の仕組みや本質の姿というものになります。そこにはどうしても図を起こす人の解釈や独自の観が入りはじめます。しかしその主観性は客観性を超えたところでのものであれば、実に強力な表現を生み出すことになります。
例えば、哲学者・九鬼周造が描き出した「いき(粋)」の構造の概念図(下図)。これはまさに客観を超えたところで九鬼が独自に観た「いきの構造」です。この図的表現の正しさは科学的には立証されえないものですが、ここには多くの人をうならせる鋭い洞察による解釈があります。
概念図が行き着くところには、宗教画の極みであるマンダラや禅画、抽象アートといった表現形式があります。時空を超えて残ってきたマンダラや抽象アートは、万人が理解しえないという意味では客観的ではありません。が、観ることのできる人が観れば、それはおおいなる真実を表現していて、人を引きつけてやまないものになります。概念図は人が内面にあらかじめ持っている何かを呼び覚ますところがあり、その点で情報伝達以上のはたらきをするものです。
◆図解と図観
昨今では情報を図化したものに総じて、「図解」とか「インフォグラフィックス(infographics)」といった言葉が当てられるようになりました。概念的モデル図も広くはその範疇に含まれるものです。しかし、本稿ではそこをもう一段細かくみたいと思います。すなわち、コンセプチュアル思考によって描く概念図は、図解的というよりも「図観」的といったほうが近いものです。図解と図観の違いを次のように考えるからです。
【図解】
・主にデータや情報を図化する
・図でやさしく事実を解く
・プレゼンテーション目的
万人へのわかりやすさ・インパクト・美的な見せ方を重要視する
・infographics=情報の図画
【図観】
・主に概念や本質を図化する
・図を通して本質を観る
・思考の深化目的
思考する者の腑に落ちる度合い・気づきの深さ・凝縮的な見せ方を重要視する
・ideographics=意味の図画
この両者の違いは、「よい表現」とはどんなものかの違いにもつながってきます。すなわち、「よい図解表現」というのは、だれもがわかりやすい図です。図を見る側に何か技術や教養といったものを要求しません。他方、「よい図観表現」というのは、必ずしも万人にわかりやすいとはかぎりません。先に紹介した九鬼周造の「いきの構造」図や、仏教が描くマンダラ・禅画はとても難解なもので、見る側にある程度の技術や教養を求めます。
複雑な事象が巧みにモデル化された図ほど、その人独自のやり方で裁断と凝縮が大胆に行われます。その裁断・凝縮された表現を、見る側は再び補ったり、解凍したり、引き伸ばしたりせねばなりませんが、そのための能力素地が必要になります。そのために、マンダラや禅画、抽象アートのように高度に意味が凝縮された表現ほど、ある人びとには荒唐無稽な絵と思われる一方、実に妙味のある表現だと言って感服する人も出てきます。
優れた概念図というのは、「less is more(より少ないことが、より多いこと)」です。図の作り手は物事の仕組みを「less」に凝縮する技を持っていなくてはなりません。そしてその図の読み手は「more」に咀嚼する目を持っていなくてはなりません。
そういった意味でコンセプチュアル思考が扱う「図観」は、万人へのわかりやすさを追求する図解とは異なっています。