帰島から1年 三宅村長に聞く(上)
「私の羽根に第一陣の村民を乗せて帰ります」─。火山活動による伊豆諸島・三宅島(東京都三宅村)への避難指示が4年半ぶりに解けた2005年2月1日の午後10時、東京の海の玄関口・竹芝桟橋。見送りに訪れた石原慎太郎都知事はじめ関係者に平野祐康村長はこう切り出すと、ふるさとを目指す村民62人とともに、三宅島行きの定期船に乗り込んでいった。
噴火前に約3800人だった村の人口は、現在2884人。65歳以上の高齢者が4割を占める。火山ガスの影響で、島面積の約半分にあたる地域での居住が制限されているため、島に帰らずに都内への“永住”を選んだ島民も少なくない。
火山ガス、火山灰、人口減、高齢化─。いまだ噴煙が立ち上がる島に帰り、数々の「波濤」を乗り越えて1年。改築した中学校の校舎に構える三宅村臨時庁舎に、復興に奔走(ほんそう)する平野村長を訪ねた。
執務室の窓の外には、1983年に噴火した際に地域一帯を巻き込んだ溶岩で埋め尽くされた風景が広がっている。記者を待ち受けていた村長の手元には、帰島した2月の欄が過密スケジュールで真っ黒に塗りつぶされた昨年の手帳があった。「よく来てくださいました」と笑顔で迎えられ、缶コーヒーを手渡されると、インタビューは始まった。
── まもなく帰島1年を迎えるが。
「この1年は早かった。私から帰島を呼びかけて、村民を「羽根」に乗せて、島に着地した。だけど、4年半離れたことで、個人住宅がかなりのダメージを受けていた。住民も、私自身も莫大なお金かかった。まさしく今が、苦労の一番のピーク。思ったより楽じゃなかった」
── 島の中核産業は観光だが、回復の兆しは。
「とりあえず手探りの中でやってみて、手応えを確かめた年だった。もともとあった空港が立入禁止区域にある。私が『観光』をアピールしても、『飛行機も飛ばない島なんかやだ』という若者も少なくない」
「空港の再開は年内、という手応えはある。今年が勝負の年。観光振興プランを作り、村民に閲覧させて、意見を集めているところ」
── 全島避難の解除、帰島はいつごろから検討し始めたのか。
「今だから言えるけど、避難したばかりの2001年の正月(笑)。村役場の職員だった当時、正月休みで暇があったので、ノートを買ってきて、自分なりに帰島計画を作った。帰りたい一心で。仕事始めに部下に『これで帰るから、あとは肉付けしろ』と渡すと、びっくりしてたけど。私は本気だった」
── その内容とは。
「1年後に帰る場合、2年後の場合…と5年分をそれぞれ想定した。それでも無理だったら廃村も視野に入れていた。文献や参考になる前例はないので、『天性の勘』で(笑)。過去にも噴火にあった経験から、目に焼き付けていた何かがあった。限られたメンバーでチームを作り、村長に提出した」
── 帰島の判断は適切だったか…(つづく)
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執務室の窓の外には、1983年に噴火した際に地域一帯を巻き込んだ溶岩で埋め尽くされた風景が広がっている。記者を待ち受けていた村長の手元には、帰島した2月の欄が過密スケジュールで真っ黒に塗りつぶされた昨年の手帳があった。「よく来てくださいました」と笑顔で迎えられ、缶コーヒーを手渡されると、インタビューは始まった。
── まもなく帰島1年を迎えるが。
「この1年は早かった。私から帰島を呼びかけて、村民を「羽根」に乗せて、島に着地した。だけど、4年半離れたことで、個人住宅がかなりのダメージを受けていた。住民も、私自身も莫大なお金かかった。まさしく今が、苦労の一番のピーク。思ったより楽じゃなかった」
── 島の中核産業は観光だが、回復の兆しは。
「とりあえず手探りの中でやってみて、手応えを確かめた年だった。もともとあった空港が立入禁止区域にある。私が『観光』をアピールしても、『飛行機も飛ばない島なんかやだ』という若者も少なくない」
「空港の再開は年内、という手応えはある。今年が勝負の年。観光振興プランを作り、村民に閲覧させて、意見を集めているところ」
── 全島避難の解除、帰島はいつごろから検討し始めたのか。
「今だから言えるけど、避難したばかりの2001年の正月(笑)。村役場の職員だった当時、正月休みで暇があったので、ノートを買ってきて、自分なりに帰島計画を作った。帰りたい一心で。仕事始めに部下に『これで帰るから、あとは肉付けしろ』と渡すと、びっくりしてたけど。私は本気だった」
── その内容とは。
「1年後に帰る場合、2年後の場合…と5年分をそれぞれ想定した。それでも無理だったら廃村も視野に入れていた。文献や参考になる前例はないので、『天性の勘』で(笑)。過去にも噴火にあった経験から、目に焼き付けていた何かがあった。限られたメンバーでチームを作り、村長に提出した」
── 帰島の判断は適切だったか…(つづく)
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