東急東横線自由が丘駅の高架下を横切る遊歩道はかつては川だった。つまり駅は周囲より低い場所にある(筆者撮影)

東京周辺の地形と駅名の関連性を調べていて、2つの面白いことに気づいた。

自由が丘駅(東急)は丘(高い所)ではなくむしろ谷(低い所)に立地している。梅ヶ丘駅(小田急)も丘の下に位置している。○○丘駅というふうに「丘」の付く駅の多くは丘の上どころか谷底にあったりする。

山と丘が私鉄にあってJRにない

そんなこと、とっくに気づいているという方もいるかもしれないが、もう1つ奇妙な事実を見つけた。これには大発見した気分になってしまった。以下のことである。

都内の私鉄の駅には、「山」の付く駅が数多くある。代官山駅、御嶽山駅、大岡山駅、武蔵小山駅(以上東急)、八幡山駅、千歳烏山駅、浜田山駅、久我山駅(以上京王)、京王・小田急永山駅、萩山駅(西武)、大山駅(東武)などである。

奇妙なことにこれらはすべて私鉄の駅で、JRの東京都内の駅には「山」が付く駅が1つもないのである。

山だけではない。都内のJRには、「丘」が付く駅もない。さらにいえば富士見台駅のように「台」の付く駅もない。いったいこれはどうしたことだろう。

都内のJR線が平坦地を走っていて私鉄が丘のある凸凹地形の台地を走っているというのなら、理由はわかる。だがそうではない。JR中央線は小田急や京王と同じく、規模は小さいながら凸凹の多い地形の武蔵野台地を走っているし、JR青梅線に至っては奥多摩の山間部へと分け入っていく。

都内に限らず東京近郊に範囲を広げてみても、JR駅で「山」の付く駅は、南武線に津田山駅、横浜線に中山駅、根岸線に山手駅、武蔵野線に南流山駅、総武本線に下総中山駅が存在するくらいである。

この2つの謎に迫っていこう。

以下の単語は、明るい未来を示すような印象がある。

・希望、ゆめ、光、自由、ふれあい、緑

次の単語はどうだろう。

・梅、桜、藤、百合、つつじ、ユーカリ、ひばり

植物や鳥の名前だ。上記は都内だけでなくその近隣も含めてだが、希望ヶ丘駅、ゆめが丘駅(以上相鉄)、都築ふれあいの丘駅(横浜市営地下鉄)、藤が丘駅(東急)、百合ヶ丘駅(小田急)、ひばりヶ丘駅(西武)など私鉄の「丘」の付く駅の一部である。

「山」が付く駅名は

一方私鉄の「山」の付く駅を同様に抜き出すと

・代官、御嶽、大岡、武蔵小、八幡、千歳烏、浜田、久我、永、萩、大

と歴史を感じそうな漢字が並ぶこととなる。

「丘」の付く駅はそのほとんどがイメージ優先で、その土地と駅名の関連性が薄い。あえて例外を挙げれば百合ヶ丘駅に関して、付近の団地建設の際、協力した地主が100人以上に上り、「百」人が力を「合」わせたからこそできた団地という意味で、百合丘団地と名付けられたことにちなむなどだろうか。

不動産業も営む私鉄が沿線のイメージアップのため「心地いい響きの単語」+環境のいい印象の「丘」=駅名としたわけである。

具体例として自由が丘駅を見てみよう。同駅は東急東横線が高架、大井町線がその下の地表に敷設されて両線がクロスしている。高架の東横線ホーム下を遊歩道が横切っている。これは現在暗渠となってしまったが、かつての九品仏川の跡である。

九品仏川は、同駅西側の九品仏浄真寺付近を源流として、隣の緑が丘駅付近で、現在も流れのある呑川へと注いでいた。自由が丘駅は「丘」どころか正真正銘、九品仏川の「谷」に立地しているのである。

ただし地形を無視したまったくでたらめな命名とはいえない。この点が東急の奥深さともいえるのだが、駅の北側、自由が丘1〜3丁目あたりには台地が広がっている。


大岡山駅付近から低地の自由が丘方面(画面奧)のビル群を望む (筆者撮影)

これらの丘を見上げる場所に駅はあり、駅の乗降客の多くはこうした丘に住む人だったり、そこを訪れる人だったりする。そのため「丘」という名に違和感を抱きにくい。

歴史も追っておこう。結論から先に言えば、丘でない地に○○丘駅と名付けるのは、「東急(前身会社)の発明」と思われるのだ。

自由が丘駅の成り立ち

自由が丘駅は東京横浜電鉄(現東急東横線)の駅として1927(昭和2)年に開業した。このときは九品仏前駅という名だった。1929(昭和4)年、九品仏浄真寺にもっと近い地に目黒蒲田電鉄(現東急大井町線)が駅を設けた。こちらが以後九品仏駅を名乗り、それまでの九品仏前駅は駅名変更を迫られる形となった。

このとき、東京横浜電鉄が目をつけたのは、駅の北側に創立される私立自由ヶ丘学園(現自由ヶ丘学園高等学校)だった。これにちなんで同年、自由ヶ丘駅(1966<昭和41>年より自由が丘)に改称した。

町名が変更されるのはそれより後で、1932(昭和7)年、目黒区成立時に、荏原郡碑衾町大字衾から自由ヶ丘に改められている。

東京周辺で「丘」の付く駅は自由が丘駅が最初だが、「岡」の付く駅では、上福岡駅(1914<大正3>年、東武東上線)、旗ヶ岡駅(1927<昭和2年>、東急池上線、1951<昭和26>年に旗の台駅に改称)、藤岡駅(1929<昭和4>年、東武日光線)がある。最初に登場する上福岡駅は、開業当初の福岡村にちなむもので、もともとの村名を駅名にした。
 
 一方、丘駅は、自由ヶ丘の好評に倣ってか、狭山ヶ丘駅(1933<昭和8>年、西武池袋線)、緑ヶ丘駅(1933<昭和8>年、東急大井町線、1966<昭和41>年緑が丘に改称)、富士見ヶ丘駅(1933<昭和8>年、京王井の頭線)、梅ヶ丘駅(1934<昭和9>年、小田急小田原線)、聖蹟桜ヶ丘駅(1937<昭和12>年、京王本線)と戦前に続々と生まれてくる。

自由が丘以外で谷にある「丘」駅として主なものを挙げれば、緑が丘駅(呑川)、梅ヶ丘駅(目黒川支流北沢川)、つつじヶ丘駅(野川支流入間川)、富士見ヶ丘駅(神田川)などがある。

聖蹟桜ヶ丘駅も、南側に閑静な住宅地が広がる桜ケ丘の高台があるものの、駅自体は多摩川と大栗川に挟まれた低地に位置している。昭和30年頃まで周囲は一面の田んぼだった。田んぼの中にぽつんと丘の名が付く駅があったのである(1937<昭和12>年に関戸駅から改名)。

「山」駅のほうはといえば、代官山駅、大岡山駅は丘の上付近にあるが、久我山駅のように谷(神田川)に位置するものなどまちまちだ。御嶽山駅、八幡山駅は、「神社仏閣に添える語」としての「山」の名を冠している。


代官山駅から中目黒駅方面(画面奧)へ向かう東横線(筆者撮影)

ところで宅地など沿線開発と鉄道敷設をセットにしたビジネスモデルは、阪急グループ創始者の小林一三によるもので、五島慶太率いる現在の東急グループは小林一三の手法に学んだとされている。

○○丘駅といった名付け方も東急は阪急の真似をしたのだろうか。

阪急で〇〇丘駅が誕生

1916(大正5)年、阪急宝塚本線(当時は箕面有馬電気軌道)に雲雀丘(ひばりがおか)駅が開業する。自由ヶ丘駅より15年近く早く、東京の私鉄に先立つ○○丘駅の誕生である。

ところがその後ほかに○○丘駅はなかなか現れてこない。現存する駅では京阪神周辺に限ると、京阪の星ヶ丘駅、JR東海道本線の千里丘駅などが1938(昭和13)年に開業している。自由ヶ丘駅より後の開業なのである。

雲雀丘(兵庫県宝塚市)は、明治30年代から御影、住吉など阪神間の高級住宅地を開発してきた阿部元太郎が手がけた高級住宅地で1915(大正4)年から開発が始められた。山並みを背後にして田園地帯の平地を望む丘の中腹に立地していて、まさに○○丘の名にふさわしい。

付近には1910(明治43)年、現阪急宝塚本線の線路が開通していたが、住宅地の出現に併せて雲雀丘駅が設置された。同駅は1961(昭和36)年、隣の花屋敷駅と統合され、現在は雲雀丘花屋敷駅となっている。

ということは谷にある駅に臆面もなく○○丘駅と名付けたのは自由ヶ丘駅が最初と思われる。東京周辺や関西以外の全国的に検証したわけではないが、少なくともこの点においては、現東急は現阪急の例に倣ったわけではない。その後の○○丘駅の多数誕生を考えると、自由ヶ丘駅は○○丘駅ブームの立役者といえよう。

第2の問題の都内のJR駅に「山」駅がない謎について。これは恥ずかしながら、はっきりとしたことはわからない。「駅名に山の名を付けてはならない」といった規則があったのなら話は早いのだが、寡聞にしてそうしたものの存在を知らない。

以下、あくまで想像である。

都内の現JR路線は明治時代にその多くが敷かれ、現在の私鉄路線は一部を除き大正時代以降に敷かれていく。

明治時代くらいまで、国有鉄道も私鉄もともに○○山駅という名を付けるのを避けていたように思われる。

例えば京浜東北線の王子駅(1883<明治16>年開業)は、駅のすぐ隣に「飛鳥山」があり、ホームからも緑に囲まれたその姿がよく見える。飛鳥山駅としてもよかったはずだがそうしていない。


日暮里駅そばの道灌山(画面奥)(筆者撮影)

同じく田端駅(1896<明治29>年開業)は、駅西側に高台が続いているが、そこは江戸時代「道灌山」と呼ばれ親しまれていた。田端よりよっぽど知られた地名だったが、道灌山駅とはしなかった。

さらに言えば、隣の西日暮里駅は1971(昭和46年)の開業だが、ここも道灌山駅という名がふさわしいにもかかわらず、西日暮里という没個性的な名を付けられてしまった。

なぜ○○山駅と命名しない?

なぜ○○山駅という名を避けていたのか。推測に推測を重ねれば、車両や線路建設技術が低い段階では、急勾配となる山間部、トンネルや切り通しなどが必要となる山や丘は鉄道にとって邪魔物だったため、山と付けるのを忌み嫌ったのかもしれない。

また例えば戦前昭和、新聞やラジオで皇室関連のニュースの際、皇居や宮中といった言葉をわざとそのまま使わず「大内山」と言ったり、前述のように山が寺社に添える語だったりするように、「山」には高貴で畏れ多いイメージが存在した。これらも関係したかもしれない。

理由はわからないが、○○山駅という名を付けなかったという事実だけは厳然と存在する。

地形と駅名の関連を検討していくと、都心とその西側が意外と起伏に富んでいることに気づくとともに、「山」や「丘」に対する日本人の自然観の時代による変化にまで思いが及ぶ。