職業はフリーライター。彼の生きてきた30年間を振り返ります(筆者撮影)

一般的に30歳は節目の年といわれている。今の30歳は1988年、1989年生まれ。景気のいい時代を知らない現在の30歳は、お金に関してどんな価値観を抱いているのか。大成功をした著名な人ばかり注目されがちだが、等身大の人にこそ共感が集まる時代でもある。30歳とお金の向き合い方について洗い出す連載、第9回目。

小学生の頃は明るい優等生タイプ

今回話を伺ったのは、フリーライター・編集者の恭平さん(仮名)。九州出身で父親は公務員、母親は専業主婦。年の離れた兄と姉がいて恭平さんは末っ子だ。公務員の家庭は割と裕福なのかと思いきや、バブルがはじけた影響で公務員のボーナスは削られ、かつ、兄と姉は大学に通っていたので、食べるのに困るほどではないが、それほど経済的な余裕を感じたことはなかったと語る。

「小学生の頃は明るくて学級委員長も任される、いわゆる優等生でした。勉強も好きで成績も良かったです。しつけが厳しい家庭だったので、当時流行っていたゲームは買ってもらえず、友達の家にゲームをやらせてもらいに行ったり、貯めたお年玉で周りよりもちょっと遅れてゲームを買ったりしていました。漫画も好きだったのですが、これは『月に1冊程度なら』という感覚で買ってもらえました」


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中学では剣道部に入部。そしてようやくお小遣いを月1000円もらい始めた。限られた額なのでつい貧乏性になり、貯めたお年玉と合わせてiPod miniを購入した。音楽が好きだったが、月1000円のお小遣いではCDを買えない。だから、レンタルしたものをデータ化し、iPod miniで楽しんだ。

高校は公立の進学校へ。高校に入るとお小遣いの額は月3000円に上がった。高校でも剣道部を続けたが、練習がハードなのと、先輩と後輩の縦社会に嫌気が差してしまった。そしてある日、勉強と部活の両立ができるのか、きちんとストレートで大学に入れるのか不安に陥り、剣道部を退部した。

「でも、うちの高校って9割の生徒が部活に入っていて、帰宅して1人で勉強に励むのが苦になっていき、結局また剣道部に戻りました。剣道部に居場所を求めていたんです。帰宅部時代はあまりのつらさから『人間って何?』といったタイトルの暗い本を読んでしまうまで病んでしまいました。今思うと、ギターでも買ってバンドを組めばよかったなと。ただ、ギターを買える環境でもなく……友達にギターを借りて文化祭でコピバンを1回こっきりやっただけでした」

高3で受験の時期がやってきた。経済状況を考えると国公立でないと難しい。教師からは「一度お前は都会に出たほうがいい、いろんな人に出会ったほうがいい」とアドバイスを受け、第1志望は東京の一橋大学に決めた。しかし、勉強の要領が悪く、ノイローゼ気味になってしまった。だんだん目指していた大学への合格が厳しくなり、前期を関西の国立大に下げて受験しても落ちてしまう。結果、関東の某国立大に後期で合格し、なんとか浪人生活をまぬがれた。

リーマンショックなどの不況は親すら予想していなく…

文系の大学へ進学すると理系よりも就職が不利になる場合がある。堅い家庭で育った恭平さんであるが、親は文系への進学をどう捉えていたのだろうか。

「親は受験のアドバイスはできるけど、なんせ公務員で会社員を経験していないので、社会のことになると鈍感なんですよね……。もちろんリーマンショックの波なんて読めるわけもなく、文系学生がこれからどんなことになるのか予想していなかったのだと思います。

それに、高2までは教師になりたかったんですが、高校教諭だった父から『先生だからといって教壇に立つばかりの世界じゃないぞ、もっと広い視野で職を決めたほうがいい』と諭されて。それで、興味もあった社会学系の学部に行って“やりたいこと探し”をすることにしました。親としても『まぁ、なんとかなるでしょう』という感じで送り出してくれましたね」

進学のため横浜で一人暮らしを始めた恭平さん。仕送りは毎月5万円、奨学金も月5万円もらっていたが、家賃が5万円だったので、とにかくバイトを掛け持ちして詰め込んだ。飲食店でバイトをして20万円稼いだ月もあった。堅い家庭から解放されたので、遊ぶお金とファッション、そして音楽にお金をつぎ込んだ。これだけバイトをしていると大学の勉強がおろそかになるのではないかと思ったところ、ギリギリで単位を取れる程度にうまく抑えたという。

「大学3年の夏は、思い切って90万円かけて世界一周旅行をしました。45日間で10カ国回りました。バイト代もつぎ込みましたが、実は甘い祖母から20万円カンパしてもらいました(笑)」

大学3年は就活が始まる時期でもある。恭平さんは「就活に力を入れてインターンとかやるより、世界旅行をしてそのネタを面接で話したほうがウケはいいかもしれないという甘い考えがあった」と語る。

恭平さんには「面白いことを発信したい」という思いがあった。その思いから出版社やメディア系企業を70社受けたが全滅。

「最初は小学館とか集英社とか、とにかく大手を受けていましたが、まぁ難しい。今思うと、そういう大手に受かった人たちって、『学生時代に同人誌を作りました』と、実際に面白いことをすでに発信していたんです。一方僕は、単純に世界を観光したことしか面接で話さない。旅行中の面白いエピソードをもっと語ればよかったのに、そこも要領が悪かったんでしょうね……」

大手が難しいとわかると、今度は小さな出版社や編集プロダクションを受け始めたが、それでも受からなかった。しかし、その最中に「ライター」という職業があることを知り、興味が湧いた。「あ、僕が発信したいことと一致する」と思った。それと同時期に既に活躍しているライターさんと知り合った。

しかし、親は恭平さんが就職をしない道を選ぶとは夢にも思っていない。

「まったく内定が出ない僕に、親は『大学を就職留年しなさい』と言ってきましたが、こっそり卒業しました。卒業後も夏までは就活を続けるけれども、それでも駄目だったらフリーターをしながらライター講座に通って、ライター関係の仕事に就こうと決めたんです。

卒業証書ももらった3月、親に卒業したことやフリーライターを目指すことを知らせると、『とにかく顔が見たいからすぐ帰ってこい』と実家に呼び出されました。怒られるというより、『フリーライターについてちょっとプレゼンしてみろ』という感じでした。

それで、『夏までは就活に専念してほしいから10万円援助する』と言われました。親戚にも周囲にもフリーライターなんていないですし、親としてもどう扱っていいかわからなかったようです。数年でライターとして芽が出なければとにかくどこでもいいから就職してくれと言われました」

ルームシェアするはずが42万円の借金を負うことに…

結局どこにも内定をもらえないまま、秋からライブハウスでバイトをしながらライター業の手伝いをすることに。フリーでのWeb記事の仕事が徐々に増えていき、1年後には月16万円ほど稼げるようになった。そんな矢先、中学の頃の同級生と再会した。

「めちゃくちゃ仲がよかったわけではないのですが、彼、ファッションモデルになっていて、『同じ夢を目指す者同士、ルームシェアしようぜ』という話になりました。ちょうど知人から都内に3Kで家賃13万6000円の部屋を紹介されたので、そこに2人で住むことにしました。1人当たりの家賃は6万8000円で、リフォームも自由。2年住めば家賃12万円に下げてくれるという、最高の条件でした」

しかし、引っ越しの10月1日を過ぎてもその友人がなかなか引っ越してこない。不安になって連絡すると「今、ちょうどコレクションシーズンで忙しい」と言われ、「でも、家賃だけは頼むぜ」と、最初の月だけは払ってもらった。でも、それから1カ月過ぎても引っ越してこない。「まだ来ないの?」「待ってて」の『引っ越すよ詐欺』は7カ月続き、彼は音信不通に。そのうち5カ月分の家賃は恭平さんが立て替え、このときばかりは親に「すまん、こういう状況で……」と説明し、42万円を借りた。

「部屋を解約するとき彼を何とか探し出してお金を返してもらう約束をしたのですが、結局1円も返ってきていません。シェアするはずの部屋に1人で住んでいた頃は、Webライターの仕事もうまくいっているとはいえませんでした。

ヒット記事を出すのにヒィヒィ言っていて、筆も遅いので取材と原稿で1日が終わっている。某編集部との連絡はチャットでのやり取りだったので、人と話すのはたまにある取材時とコンビニ店員と図書館の職員くらい。そしたら、どんどん病んでいって、人生で初めてストレス性のアトピーを発症しました。3Kの部屋でひたすら顔を引っ掻いたりはたいたりする癖がついてしまいました」

貯金はほぼゼロ、それでも結婚して親孝行したい

その後、3Kの部屋は解約。今は5万1000万円の部屋に住んで、某Web編集部でアルバイトをしながらフリーでも仕事を請け負っている。Web編集部のバイト代が月に手取り20万円、そして月によってフリーでも5万円ほど稼ぐ。貯金はほぼゼロだ。税金も滞納しており、今月は家賃も滞納してしまった。

「こないだ、念願だった同人誌を出したんです。著名なライターさんから寄稿していただき、いざ入稿!となったとき通帳にも財布にもお金がないんです。慌てて隣で酔っ払って寝ていた編集部員を起こして5万円を借り、印刷しました……。その5万円はちゃんともう返しましたよ!」

今後の恭平さんの目標はもっと稼ぐことだ。30代のうちに年収600万円を目指している。そして、そこには切ないワケがあった。

「実はちょっと前、彼女に浮気されて別れてしまったんです。浮気相手は安定した職の人でした。つまり、僕と生活をすることを考えるとお金の面で不安ということが根底にあったのだと思います。一緒に人生を歩める妻が欲しいし子育てもしたい。もし、子どもができなければ養子を取りたいです。そのためにももっとライターで稼ぎたいです。あと、親にさんざん迷惑をかけてきたので親孝行もしたい。

こないだ、62歳になる母が東京に遊びに来たので案内したのですが、自分の中では40歳くらいだった母の顔にシワやほうれい線が刻まれ、口角も下がっていて、『年を取っているぞ』と実感しました。それを見て以来、僕自身も鏡に向かって口角が下がっていないかチェックするようにしています。僕はきちんと年を取っているぞ、と意識しないといつの間にか40歳になって子どもも育てられなくなるかもしれない。母に子どもを見せて喜んでもらうためにもお金を増やしたいです」

筆者自身、ライターに興味のある人からフリーライターでどれくらい稼げるのか聞かれることがあるが「ピンきりです」としか言えない。今回の恭平さんの話は自分自身にも重なる部分があり、ひとごとではないと身が引き締まる思いだった。