木村沙織・涙の引退報告 後編】

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 3月25日のVリーグオールースター戦に先立って行なわれた、木村沙織の引退報告会にはたくさんの報道陣が詰め掛けたが、全体の質問が終わった後で幸運にも1対1で話をすることができた。


オールスター戦後、ファンに最後の挨拶をする木村沙織 日本女子バレー史上初の五輪4大会出場を果たした偉大なるエースが、バレー人生を通して巡り会った指導者たちについて赤裸々に語ってくれた。

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――初めてバレーの指導を受けた監督は?

「もう(亡くなられて)いないんですけど、秋川JVC(東京・あきる野市)の監督だった土井垣泰明監督です。小学2年生から6年生まで指導を受けたんですが、レシーブを重視する監督でした。日本はレシーブが最も重要とされているので、最初に土井垣監督のもとで練習ができて本当によかったと思います」

――木村選手が長身なのにレシーブがうまいのは、この頃にその下地が作られたからなんですね。

「そうですね。基本練習が多くて、夏休みには普通の練習だけじゃなくて朝練もあったんです。朝5時くらいに家を出て、体育館ではアンダーパスやオーバーパスを何百回も延々とやりました。2人組になってパスをするんですけど、目標の回数を言われて、途中でボールを落としたら外の校庭走ってきてまたゼロからやり直し。でも、バレーは基本が大事なスポーツですし、そこで基本をたくさん体で覚えられたから、中学、高校につながったんだと思います」

――成徳学園(現在の下北沢成徳)の中学校に進学してから指導を受けた、安藤美純監督はどんな監督でしたか?

「安藤監督はすごく明るい監督で、大好きでした。小学生の時は都内の学校へ行けると思っていなかったんですが、安藤監督に声をかけてもらったおかげで成徳学園に進学することになって、日本一を目指せる環境に入れてもらえました。そこから高校までの6年間、安藤監督と小川良樹監督のもとでバレーを教わりました。高校の小川監督は『自主性』を重んじる方で、基本の練習のメニューは決まっているんですけど、メインは自主練で、自分で考えて練習するという感じでした」

――厳しい指導もなかった?

「監督が怒るというよりも、選手同士で言い合って高め合っていく感じでした。『プレーするのは選手。勝ちたいのは選手だろう?』というのが小川監督の印象ですね」

――その指導の雰囲気は、木村さんに合っているような気がします。

「自分でもそう思います(笑)。他の中学や高校ではスタイルがあって、それにはめていくチームもあるんですが、成徳にはありませんでした。『自由に、自分の動きたいようにやらせてもらったな』という印象があります」

――そうして実力をつけて高校2年生の時に春高を制し、全日本に選出されるわけですが、当時の監督である、柳本晶一監督にはどんな印象がありますか?

「その時期に代表に入れたのは、柳本さんが目にかけてくれたからだと思うので、それがなかったら今の自分はないと思います」

――バレー人生が変わった?

「そこまで言ってもいいかもしれません。その時にセッターやレフト、ライトにも入ることができて、いろんな経験をさせてもらっているうちに、『どうやったら監督の求めている選手像になれるのか』『どうやったら試合に出れるのか』を考えるようになりました。監督が求めているプレーでアピールしていこうと。

柳本さんにはいろんな場面でチャンスをもらいました。サーブだけ、サーブレシーブだけでも出場機会をもらうことができて、そこからだんだん試合に出られるようになったので、本当に感謝しています」

――そして、2003年のワールドカップと、2004年のアテネオリンピック最終予選で活躍し、「スーパー女子高生」として大ブレイクすることになります。

「その時は自分でもビックリしました。『え?』っていう感じで(笑)。高校3年生になってからは腰のヘルニアもあって思ったようなプレーができませんでしたが、それでも東レアローズに入ることができて、菅野(幸一郎)監督に出会うことができたのも大きかったです」

――木村さんは長らく菅野監督のもとでプレーしましたね。

「高校を卒業してからずっと、本当にお世話になった監督です。人柄がとても暖かくて、真面目で一生懸命。若い頃って、指導をされた時に『なんでそんなこと言われなきゃならないの?』とか思ったりするし、選手もいろんな選手がいるじゃないですか。それでも菅野さんは選手によって態度を変えることもなく、誰に対しても同じ温度で接して、『ここを目標にしてるから、みんな集まれ〜!!』といった感じの監督でした。ここまでついてこれたのは菅野さんだったからだと思うし、菅野さんのもとでバレーを本気でできて楽しかったです」


目を潤ませながら、笑顔でインタビューに答える木村――リオ五輪の後、すぐに引退するのではなく「もうワンシーズン東レでやろう」と思ったのは、菅野監督だったからというのも少し影響しているんでしょうか?

「ほぼそうですね。少しじゃないです。菅野さんだったから、『やろう』と思いました」

――全日本の柳本監督の後任で、リオ五輪まで指揮をとっていた眞鍋政義監督はどんな監督でしたか?

「どんな監督……。ちょっとひと言では表現できません(笑)。指導方法は、柳本さんからガラッと変わって、ひとつひとつのプレーがコーチ制になるなど新鮮でした。選手も、話をしっかり聞く人がいっぱいいましたから、いろんな会話が生まれて、チームの結束が深まったなという印象があります」

――眞鍋監督には、トルコリーグでプレーしている時に「代表のキャプテンに」と説得されたとのことですが、その他で印象に残っている言葉はありますか?

「ロンドンオリンピックの予選ラウンドの時に、『私が負けたらチームが負ける』と言われたのは印象に残っています。その言葉で、『頑張らなきゃ』と思いました。要所でかける言葉もそうですけど、眞鍋さんの勘がすごく冴えわたっているときは、『眞鍋さんについていけば勝てる』という雰囲気になりました。

テンさん(竹下佳江)と眞鍋さんのタッグは心強かったですね。その時キャプテンだった(荒木)絵里香さんもみんなを引っ張ってくれたんですが、全体を見て、チームを回してくれたのはテンさんで、私たちはついていくだけでした。そのタッグは本当に最強だったなと今でも思います」

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 最後に「あなたに一番影響を与えたのは、どの監督ですか?」と質問してみた。木村は少し考えてから一人の名前を挙げてくれたが、「他の監督さんたちもみんな大好きなので言わないでください」とつけ加えた。こういう優しさも、サオリンらしさのひとつかもしれない。

 木村自身は「指導者になることは、今は全く考えていません」とのことだったが、どんな形でもいいから、彼女の経験を活かす機会がくることを願っている。

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