「この人には勝ちたい/負けたくない」という相手が、みなさんにも一人くらいいますよね? 同級生とか、職場の同僚とか。「勝ちたい」と「負けたくない」。似たような言葉ですが、精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、どちらの姿勢でいるかによって、心のありようは大きく変わってくるのだそう。どういうことなのでしょうか?

ピークの裏側に潜むもの

前回「最高に「成功」している時期というのは、逆に最も大きな「失敗」の危機を作り出している」という法則の話をしました。

この法則は、あらゆるところで見られるんです。

勝利のピークを迎えている時こそ、その陰で、最も悲惨なピンチが芽を吹き出しているわけです。人間の栄枯盛衰、人間の運命も、やっぱりすべて同じことだと思う。そこに、例外はない。

つまりは昔、お釈迦様が「無常」とおっしゃった世の習いですよね。万物は有為転変、とどまるものはひとつもない。まさに鴨長明の随筆『方丈記』です。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。

河って僕らの眼にはいつも同じように見えるんですね。昨日も今日も、もしくは明日も。だけど、違うねん。一瞬たりとも同じ水は流れていない。利根川の美しい風景はいつも同じに見えるのに、実は秒単位で川の水がどんどん移り変わっている。

そんな両極端な面を、いつも携えているのが現実じゃないですか。変化が日常的に起こる場合には、あたかも何の変化もないように見える。

この「無常」って、理屈としては「なるほど」って皆さん思うでしょう。思想としては、おそらく一番の基本ですよね。ところがそれを本当に実感して、それに基づいて、自分の立ち振る舞いを決めていくというのは、よっぽどの修練が必要なんですよ。だから兼好法師だって鴨長明だって、繰り返し、戒めるように自分なりの言葉を書いてきたんだと思うんです。

「勝とう」より「負けない」という心構え

さて、ここで再び、前回の冒頭で紹介した『徒然草』の一節、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」に戻りますと――。

単純に言うと、こういうことですよ。「勝たん(勝とう)」というのは一点集中的でしょう。瞬間じゃないですか、「勝った!」という高揚は。ゴルフでいうと最後に球がホールに入る瞬間であったり。バトミントンやテニスだって、最後の一打で勝利を決めて「よっしゃあ!」とか。

「負けじ」というのはそうじゃなくて、常なる心構えなんですよ。一時の他人の大勝とか好調不調にまどわされない、自分が自分のペースで戦っていくための心のありようのことなんです。

負けたら、そこで終わりかもしれない。でも負けないうちは試合は続いていく。だけど「勝たん」の精神でいくと、勝つと同時にピークが訪れる。ピークがあると、必ず減退が始まる。あるいは減退そのものになる。ピークにとどまることはありえない。ピークのあとは、必ず墜落に向かうんですよ。

「頂点を避ける」生き方がいい

ちょっと余談めくかもしれませんが、たとえばこんな話もあるんです。

子育てについての話です。

幼い子供をあやしている時に、先進国の親は、とかく子供を頂点まで喜ばせてしまいがちなんですね。ガラガラを鳴らしても、子供が「キャーッ!」って喜ぶまであやし続ける。かわいい満面の笑顔を目にして、「ああ喜んだ、喜んだ」ってホッとする。でもすると、次には何が起こると思います? 

その子は、次にはむずかりだすんですよ。喜びの頂点に達したら、子供は「違う感情を持ちたい」ってなるわけ。

本質的に喜怒哀楽を繰り返すのが人間の感情で、「わ〜っ、かわいい。もっと笑って!」って周りの大人が盛り上がる頃には、子供はもう「喜びに飽きる」んです。そうすると泣きだしたり、むずかりだしたり、怒りだしたりする。

ところが、ある途上国ではね、子供がばーっと喜びだしたら――たとえばお母さんの乳房をもっとむしゃぶりつこうとしたら、ふっとそらすの。「ほら、ちょうちょだよ」とか言って、わざと。子供に喜びの頂点を味わわせないで、寸止めするわけ。で、またむしゃぶりつこうとすると、今度はガラガラをちょっと振ってみたり。

「頂点を避ける」。それによって子供は、ずっと機嫌が悪くならない。そこそこの上機嫌で、何時間でもあやし続けられる。その国では普通のお母さんとか乳母が、無意識でそういう子育てをやっているらしいんです。自然な文化の中で、人間の幸福な時間を長続きさせる知恵が伝承されている。

これはね、僕たち大人の普段の生活にも応用できる、人生のものすごく大切な知恵なんですよ。

「勝たん」より「負けじ」のほうが、良い状態が「長続き」する。

これをひとつの心構えとして気に留めておくだけで、けっこう動じない心が作られていくように思うんです。

たとえば会社の中の同期の仲間が、すごい業績を挙げて、優秀な人材としてスポットが当たっているように見えても、別に妬んだり、変にあせったりする必要はない。「あの人に比べたら今の私なんて」って腐ったり、メゲたりせずに、それよりも自分のやり方で地道に、着実に、自分のやるべきことを粛々とやっていけばいい。

そのほうが、実は長い目で見た時の「勝ち」とか「成功」につながる気がするんですよね。