8万人収容のスタンドの一部(1万5千席)を仮設にする。屋根付け工事を後回しにする。先日、新国立競技場の建設規模を縮小する見直し計画が発表された。

 この2ヶ月前には「新国立競技場を、ハイテク技術のショーケースにする」との構想が打ち出されたばかりだというのに、だ。

 トイレに座れば、体温や血圧等、健康状態を測定してくれるーーとか、観客席にモニター画面を設置し、それを通して試合を多彩なカメラアングルで楽しめるーーとか、そのモニター画面を操作すれば、ドリンク等がデリバリーされるーーとか。

 いずれも、スタジアムが備えていなくてもいい、スポーツ観戦の本質から外れた枝葉末節の設備だ。液晶モニターは経年劣化するし、システム的にも、1、2年で新鮮さはなくなるまさに家電だ。恒久的な設備ではない。その役割はスマホやiPadでも十分こなせるにもかかわらず、メディアは「凄いですねー」と、それを胸を張るようにそのまま伝えた。五輪景気の渦の中に、身を投じようとした。

 そのタイミングで飛び込んできた今回の見直し計画。物作りを間違った順番で進めようとする、まさに本末転倒が、白日の下に晒された格好だ。天井をつけなければ、液晶モニターは雨ざらし。設置は見送りになるだろう。滑稽としか言いようがない。メディアも情けないが、建設の音頭を取る人たちはもっと情けない。

 建設コストが嵩むから。期限までに建設が間に合わない恐れがあるから。理由はそういう事らしいが、その欠如した計画性には驚くばかりだ。本体工事だけで約1700億円。解体や周辺工事も含めれば、2000億円に達しようという国の威信を懸けた国家プロジェクト。にもかかわらずこの有様だ。

 工期の遅れは、これまで外国から伝わってくる話だった。日本ならあり得ないと、それを怠け者のエピソードを聞くような、まさに上から目線で、うすら笑ったものだ。それがいま、自分たちの身に起ころうとしている。一転、ダメな国に成り下がろうとしている。この現実に、ショックを受けている人は多いと思う。

 しかし、スタジアム作りに関して言えば、日本はいまだ世界に胸を張れる満足なものを作ったためしがない。2002年W杯のために建てられたスタジアムがよい例だ。そうなってしまった理由は、よいスタジアムとは何か、そのあるべき姿、理想像について、語られてこなかったことにある。2002年のスタジアムにダメ出しした人は少ないのだ。語られるのは、せいぜい費用対効果の面に限られる。

 語るだけの知識を持つ人が少ないこともその一因。優れたスタジアムで観戦した経験を持った人もわずかに限られる。いいか、悪いか、評論できる人物の絶対数が足りていない。それをリードすべきメディアも、海外サッカーの試合結果や選手の活躍は大きく報じるが、スタジアムを初めとするその背景にまでは、積極的に迫ろうとしない。ネット社会、すなわち見出し社会になって、ますますその傾向は強まっている。いわゆる世界のスポーツ文化について語られる機会がほとんどないのが実情だ。

 スタジアムはそのド真ん中に位置している。その国のスポーツ文化のレベルは、スタジアムから推し量ることができるといっても言い過ぎではない。新国立競技場は、つまり、日本のスポーツの文化レベルそのものと言うことになる。

 一度建てられたスタジアムは、50年は存在する。取り壊せないものとなる。最悪のスタジアムは、延々、生き恥をさらすことになる。失敗は許されないものは、世の中に数多く存在するが、スタジアムはまさしくその筆頭。スタジアムほど建設に、細心の注意が求められるものもない。

 にもかかわらず、日本には、スポーツ文化のレベルアップに貢献していないコンクリートの塊が数え切れないほど点在する。チェックが甘いことをいいことに、時代の流れに逆行するものばかり建てられてきた。スポーツの進むべき方向を示唆するような進歩的なもの、画期的なもの、メッセージ性の高いスタジアムに遭遇することは滅多にない。