5月特集 F1 セナから20年後の世界

今宮純が語る「セナ前・セナ後――F1は20年でどう変わったのか?」(後編)

 1994年5月1日、アイルトン・セナは34歳でこの世を去った。あれから20年――。セナなきF1界は、どのように変化していったのか。残された者に託された「次世代のF1」のあり方を、モータースポーツジャーナリストの今宮純氏が語る。

 1994年5月1日のアイルトン・セナについて、「虚ろな目をしていた」とか、「戦いたくなさそうだった」などと言う人がいるけれど、そうした見方は「後づけ」だと思っている。おそらく、あの日、セナの胸中にあったのは、「孤独」と「焦燥」というふたつの感情ではなかったろうか。

 前年、宿命のライバルであったアラン・プロストが4度目の世界チャンピオン獲得を果たすと、引退を表明。1991年には同じブラジル出身のネルソン・ピケが、そして1992年には悲願の初タイトル獲得を手にしたナイジェル・マンセルがそれぞれF1を去り(後に一時的に復帰)、1994年シーズンを迎えた歴代のワールドチャンピオンは、セナただひとり。それまで数々の名勝負を演じてきたライバルたちがF1から姿を消し、「そして誰もいなくなった」シーズンだった。

 34歳のセナが戦う相手は、当時25歳のミハエル・シューマッハやミカ・ハッキネンといった次の時代を彩る若手たち。いつしか追うのではなく、セナは「追われる立場」となっていた。孤独なチャンピオンに、心境の変化が少し感じられたような気がした。

 英・仏共同体の強力チーム、ウイリアムズ・ルノーに移籍したセナは、開幕戦ブラジルGPでスピン、続く第2戦パシフィックGPではアクシデントに巻き込まれ、2戦連続でリタイア。ハイテク化やルール制限、さらに燃料ピット給油が復活し、1994年シーズン序盤からまったく歯車が噛み合っていない状態に、セナはいろいろと悩んでいた。また、ニューシャシーFW16の感触も決してく良くはなく、アップデートをスタッフたちと検討する日々であった。

 そして、「事故」は起こった......。サンマリノGP決勝レース7周目、タンブレロコーナーをコースアウトし、時速219キロ(事故後の発表)でコンクリートウォールに激突。事故発生の瞬間はセナの最期を覚悟したものの、公式発表がなされるまでは彼の尊厳を鑑(かんが)み、スポーツ中継を全うする気持ちでいた。だが、現場でそのウォールにヘルメットの黄色の痕跡を見た自分は、立ちすくんだ。

 再開されたサンマリノGPは、ミハエル・シューマッハが開幕3連勝。その後はご存じのように、彼はセナなき1994年シーズンを席巻し、1995年もタイトルを連覇して「次の時代」を切り開いていった。しかし、あの事故の瞬間、セナの後ろを走っていたシューマッハは、セナ事故の核心に関しては多くを語らないままでいた。

 今年の正月、セナの特別番組を制作するために来日したブラジルのテレビ局から取材を受けた。日本のジャーナリストとして、「なぜ、セナは日本人に愛されたのか。その理由を答えて欲しい」という率直なテーマだった。彼らはその後、ヨーロッパに飛び、アラン・プロストやゲルハルト・ベルガー、デイモン・ヒルなど、セナとゆかりの深い人たちを取材する予定で、その中にはシューマッハも含まれていたという。

 だが、そのシューマッハは2013年12月29日に起きたスキー中の事故で意識不明の重体に陥ってしまい、結局、彼のインタビューが実現することはなかった。もし、ブラジルのテレビクルーが日本より先にヨーロッパで取材をしていたら、シューマッハはいったい、何を語ったのだろう?

 ただひとりのワールドチャンピオンとして新たな戦いを始めたばかりのセナと、彼を倒して「次の時代」を切り開こうとしていたシューマッハ......。タンブレロコーナーで起きた事故によって、我々は、「ふたりの時代の入れ替わり」を、最後まで見ることはできなかった。これは、シューマッハ自身にとっても悔いが残ったのではないだろうか。

 その後、ベネトンで2度のタイトルを獲得したシューマッハが、長い不振に喘いで「落ち目」にあったフェラーリへの移籍を決断したのは、セナのいないF1で、「名門フェラーリを立て直す」という新たな挑戦を自分に課したからだろう。ベネトンに留まっていれば、さらに多くのタイトルを手にしていたはずだ。だが、シューマッハは名門フェラーリを立て直すまでに5年を要し、2000年にようやく3冠目を果たすこととなった。このシューマッハの挑戦によって、「セナなきF1」は新たな時代へと移行していった。

 劣勢のフェラーリで奮闘するシューマッハと、マシン性能で勝るウイリアムズ・ルノー。この「人間」対「機械」の戦いが、1990年代後半のF1を支えた基本的な構図だった。それは、セナの死によってコース上で世代交代を実現できなかったシューマッハが、セナ後のF1界最大の主役として自覚を持ち、新たな自己証明を求めた「構図」にほかならない。

 2000年以降、復活した名門フェラーリで黄金時代を築き上げたシューマッハは、2006年にいったん引退するわけだが、その後、フェルナンド・アロンソやキミ・ライコネンといった新たな時代を担う才能が現れてくる。コース上でライバルを倒し、「世代交代」を実現するF1のダイナミズムは、しっかりと受け継がれている。

 しかしながら、これからアイルトン・セナのような、「多くの人たちの魂を揺さぶるスーパースター」が生れるかと問われれば、正直、それは難しいのかもしれない。

 ベッテルやアロンソやハミルトンが、セナと比べて、「個性がない」と言っているわけではない。だが、よりエンジニアリングの比重が高まった現代のF1では、マシン&パワーユニットの性能がレースを支配する部分が大きくなり、セナがいた時代と比べると、どうしてもドライバーの「表現領域」が狭まっている事実は否定できない。

 エネルギー回生システムなどを取り入れた複雑な未来志向パワーユニットや、タイヤ交換を含めた緻密なレース戦略など、多くの専門用語や入り組んだルールを解説していると、ときにコース上のプレイから離れて仕組みを「通訳」しなければならない場面がある。予備知識なくテレビを見た人たちが分からなくなるのを避けるため、レースはスポーツ中継というよりも、「F1講座番組」へと流れがちになるのだ。世界各国のテレビコメンテーターやジャーナリストは、最近のこの傾向について頭を悩ませている。コース上で素晴らしいオーバーテイクシーンが展開されても、複雑な仕組みを理解しないと、ドライバーの表現力や個性・魅力が見えにくくなるからだ。

 F1に限らずプロスポーツの世界では、インターネットなどによって情報が多様化し、その量は爆発的に増えた。それは、いいことだと思う。だがその反面、社会全体が昔のように、「大きなストーリーをみんなで共有する」という時代ではなくなりつつある。情報に対する価値観の違いや温度差は、セナがいた1990年代とは大きく異なってきている。

 たしかに、今でもスタードライバーは存在する。1990年代にはF1テレビ中継すらなかったスペインでは、アロンソひとりの出現によって状況は一変した。「おばちゃんまでがアロンソのタイヤチョイスに一喜一憂する」と聞いたことがある。また、イギリスではポップスター然としたハミルトンの女子ファンが急増し、中国はひとりもドライバーを輩出していないものの、北欧のライコネン人気が凄まじい。それぞれの国で、彼らはヒーローとして人気を集めている。

 日本はどうだろう。セナやホンダに「日の丸」を重ねて熱い声援を送っていた1990年代前半のように、今もそのような存在が勝ったり負けたりするレースを見せてくれたら......。そして日本人ドライバーがチャンピオン争いを繰り広げるようになれば、日本もスペインのように状況が一変するに違いない。

 最後に、「セナ没後20年」を語る上で、忘れてはならないことがある。それは、セナがF1界に携わるすべての者に託した、「遺言」だ。あの事故を契機に,F1スポーツの安全性向上の努力は絶え間なく続けられ、1994年5月1日以降、グランプリにおいては今日まで20年間、ドライバー死亡事故は一件もない。これはアイルトン・セナが残した尊い、「遺産」である――。

profile
今宮純(いまみや・じゅん)
1949年生まれ、神奈川県小田原市出身。大学時代からアルバイトを兼ねて自動車専門誌に記事を寄稿し、大学卒業後、フリーのモータースポーツジャーナリストとして活動を始める。1987年からフジテレビのF1中継で解説者として活躍。

川喜田研●構成・文 text by Kawakita Ken