5月特集 F1 セナから20年後の世界

今宮純が語る「セナ前・セナ後――F1は20年でどう変わったのか?」(前編)

 1970年代からモータースポーツを取材し、1987年にフジテレビがF1の全戦テレビ中継を開始すると、分かりやすい解説でF1の魅力を多くの人に広めたジャーナリストの今宮純氏。長年、F1を取材してきた今宮氏が感じた、セナが生きていた時代と、セナを失った後の20年――。なぜ我々は、アイルトン・セナに魅せられたのか?

 信じられないかもしれないが、1984年、ブラジル人ルーキーの「アイルトン・セナ・ダ・シルバ」がデビューした当時のF1は、今よりずっと小さなスケールで、世界的にもこれほどポピュラーな存在ではなかった。だが、さまざまな面で大きな変容を遂げようとしていた時代でもあった。ワールドワイドな「テレビスポーツ」としてF1が急速に拡大してゆく......、そんな時代を誰よりも速く、「フルスピード」で駆け抜けたのがアイルトン・セナだ。

 テクノロジーの面では、ターボエンジン(過給機付きエンジン)隆盛の時代。日増しに激しさを増すエンジンパワー競争の中で、ポルシェ、ルノー、BMWなどの自動車メーカーが続々とエンジンサプライヤーとしてF1に参入してきた。日本のホンダが1969年以来、10数年間の沈黙を破ってF1に復帰したのは、セナがF1デビューする前年の1983年のこと。セナとホンダ......、ひとりのブラジル人天才ドライバーと、ニッポンの自動車メーカーの情熱が互いに共鳴し合い、後に数々の伝説を築いていくことになる。

 また、「セナのいた時代」は、F1がスポーツビジネスとして世界規模で目覚ましい成長を遂げた時期とも重なる。1985年〜1986年のJPSロータス、1987年のキャメル・ロータス、1988年〜1993年のマールボロ・マクラーレン、そして1994年のロスマンズ・ウイリアムズ......。セナのドライブした歴代F1マシンは、国際的なタバコ企業を中心とする巨大スポンサーによって彩られ、F1のマネーフローは急速に拡大していった。

 こうして、技術的にも、そして国際的なスポーツエンターテイメントとしても、F1グランプリが大きな変容を遂げながら世界規模で膨張していき、その時代の中心でシンボライズされた存在が、「アイルトン・セナ」だったと改めて思う。

 レーシングドライバーとしてのセナは、よく言われているように「完璧主義者」で、誰よりも烈しい勝利への執着心を持ったドライバーだった。ほんの一例を挙げよう。レース前に歩いてコースを下見するとき、セナは進行方向だけでなく、時には後ろ向きにコースを眺めながら自分のマシンがコーナーを脱出するラインをイメージしたり、視点をコックピットに近い位置に下げて微妙な路面のうねりやガードレールの切れ目などを熱心にチェックしていた。彼があまりにも時間をかけて入念にコースを下見するので、後から歩き始めた僕がコース上でセナを追い抜いてしまったこともあった。

 また、暑いメキシコのサーキットでコース下見中のセナに持っていたミネラルウォーターを差し出したら、「別に君を信用していないワケではないけれど......」と断られたことがあった。自分が100パーセント信頼できるモノ以外は口にしない。すべてに細心の注意を払い、決して妥協をしない。彼はそうした厳しさを常に持ち続けていたドライバーだった。

 そうしたセナの姿勢は、ホンダが持ち込んだデータ・テレメトリーシステム(※)など、技術面で急速な進化を見せていた当時のF1テクノロジーにもマッチした。

※データ・テレメトリーシステム=マシンやエンジンのデータを記録し、無線でピットに送信して解析するシステム。

 レーシングカーのメカニズムだけでなく、より速く走らせるための周辺環境や情報管理など、「レース・システム」が猛スピードで変化していく時代に、セナは人一倍の研究熱心さで適応した。天才性のなかに、彼自身の努力を僕は感じた。レーシングカートに乗っていた少年時代から、セッティングに関して「しつこい」ことで有名だったセナである。詳細なデータで自分の走りやマシンの変化を確認できる最新技術が、彼の「完璧主義」を大いに刺激したことは想像に難くない。

 F1エンジンに数々の技術革新をもたらした第2期ホンダ(※)と、完璧主義で革新技術を貪欲に活かし切ろうとしたセナ――。この両者が互いに響き合い、尊敬と信頼の絆で結ばれていったのは、ある意味、必然であったと言えるだろう。

※1964年〜1968年が第1期、1983年〜1992年が第2期、2000年〜2008年が第3期。

 僕自身、あのころは意識していなかったのだが、今、振り返ってみると、当時の日本人はこうしたセナのストイックな姿勢、生き方、言動、そしてホンダとの関係性などに、いわゆる「武士道」にも通じる一種の「サムライ」的な精神性を見出し、特別なシンパシーを感じたのではないかと思う。

 もちろん僕も含めて、日本人はホンモノの「侍」を見たことはない。ただ、ヘルメットという「兜(かぶと)」を被り、マクラーレンMP4という「鎧(よろい)」を身にまとい、「ホンダエンジン」という稀代の名刀でライバルたちを打ち破ってゆく武士......、そんなイメージを、日本のみならず、ブラジルや海外諸国の一般ファンがセナに重ねていたような気がする。

 そう考えると、1987年にロータス・ホンダと出会うまでのセナは、「腕の立つ一匹狼の浪人」だったと言えるかもしれない。そんな一匹狼のセナが「本田宗一郎」という城主のいるホンダ城に仕官し、サムライとして忠誠を誓い、「本丸」の鈴鹿はもちろん、世界を舞台に次々と名勝負を展開する......。相次ぐ決戦を見た日本のファンは、いつしかブラジル人のセナに「日の丸」を重ね、ホンダとセナの戦いに感情移入していったのではないだろうか。

 ルールなど知らない、メカニズムも詳しくない、それでも分かりやすいストーリーとその向こうに、「日の丸」の存在がなんとなく見えた。マニアではないごく一般の人たち、女性や子どもまで性別や年齢を超えた幅広い層の人たちが、「アイルトン・セナ」の魅力に惹きつけられていった。これがいわゆる、「F1ブーム」となった大きな要因だったのではないか。

 加えて、あの時代にはセナだけでなく、宿敵とも言うべきアラン・プロストやナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケなど、強烈な個性を持ったライバルたちが存在したことも大きい。コース上のドライバーだけでなく、当時のF1を統括していたFISA(※)や、その名物会長だったジャン・マリー・バレストルとのコース外での確執もまた、セナ主演の「F1大河ドラマ」にストーリー性を添えた。

※FISA=国際自動車スポーツ連盟。現在はFIA(国際自動車連盟)に吸収されている。

 僕は、レーシングドライバーが自分を表現する場所はコース上だと思っている。だが、宿命のライバルのプロストとの「舌戦(ぜっせん)」や、権力の象徴であるバレストルFISA会長とのやり取りで、セナはありったけの自己表現をした。常に自分に嘘をつかず、権力に果敢に立ち向かって行った姿勢もまた、アイルトン・セナというドライバーを特別な存在にした大きな理由だったと思う。今と比べれば、当時のドライバーは自由に発言していたが、その中でも特にセナはストレートに自己表現をする人だった。

 コース上はもちろん、マシンを降りても「戦う姿勢」が伝わってくる......、そんな生き方に、母国ブラジルや日本だけでなく、世界中でインスパイアされた人がたくさんいた。インターネット時代ではない、今よりはるかに情報量が少なかった時代に、ワンプレイで人々に強烈なメッセージを伝え、多くの国の幅広い層に支持されたアイルトン・セナ――。彼はF1ドライバーという枠を超えた、希代の「スーパースター」だった。

(後編に続く)

profile
今宮純(いまみや・じゅん)
1949年生まれ、神奈川県小田原市出身。大学時代からアルバイトを兼ねて自動車専門誌に記事を寄稿し、大学卒業後、フリーのモータースポーツジャーナリストとして活動を始める。1987年からフジテレビのF1中継で解説者として活躍。

川喜田研●構成・文 text by Kawakita Ken