5月特集 F1 セナから20年後の世界
川井一仁が語るセナpart1

 サンマリノGP決勝レースの事故で、アイルトン・セナがこの世を去った1994年から20年。当時を知るドライバー、ジャーナリストらに、F1への思い、セナへの思いを語ってもらう第2弾は、セナがF1デビューした当初から現場で取材を続け、長年F1中継のピットレポーターを務めるF1ジャーナリスト川井一仁氏。

 あの日、イモラの現場で何が起きたのか? そして、アイルトン・セナとは何だったのか?「川井ちゃん」が見た、カリスマの素顔とは――。

 最近、セナの没後20年ということで、いろいろな人から取材を受ける。だけど、不思議なことに、あの日の記憶はすごく「断片的」なんだ......。もちろん、あの日に限らず、20年も経てば、忘れてしまったことは多いのだと思うが、それだけじゃない。それはあの時「セナが死んだ」というショックと無縁じゃない気がする。

 今でも思い出すのは、あの年のイモラが妙に暖かかったということ。サーキットの横には川が流れていて、暖かな春の日の光が川面にキラキラと反射して、空にはタンポポの綿毛がフワフワと飛び交っていた......。「ああ、何だか桃源郷みたいな景色だな」と思った記憶がある。

 ところが、あの年のサンマリノGPは最初からイヤな感じの週末だった。まず、金曜日の予選でルーベンス・バリチェロの大事故があった......。ただ、酷いクラッシュの割にはルーベンスにケガはなかったし、その時はまだ、普通のアクシデントだと思っていた。ところが、土曜日の予選で今度はローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故が起きて......。雰囲気は最悪になった。

 何しろF1での死亡事故は、ジル・ヴィルヌーヴとリカルド・パレッティが亡くなった1982年以来、12年ぶりだった。しかも、セナはあの時、バリチェロの事故とラッツェンバーガーの事故のどちらも、自分で事故現場を見に行ったんだ。とくにラッツェンバーガーのアクシデントは悲惨な状況だったから、当然、セナも平常心ではいられなかったと思う。

 それで、やはり動揺したんだろう。いつもは金曜日と土曜日にやるセナのインタビューがすべてキャンセルになった......。だから、あの週末は、決勝まで一度も彼とゆっくり話ができなかったんだ。唯一、日曜日のレース前に、イモラの狭いパドックですれ違った時、「大丈夫?」って声をかけたら、セナが「ああ......」と、"心ここに在らず"という感じの、浮かない声で返事してくれてね......。それがおそらく、セナと交わした最後の言葉だったと思う。

 その後、いつものようにスターティンググリッドに行って、決勝レースが始まるんだけど、そこからの記憶は曖昧だ。スタート直後にペドロ・ラミーとJJレートの衝突事故が起きたせいでコースにセイフティカーが入って、4周目にレース再開......。で、セナの事故はその直後に起きたわけだけど、僕はちょうどその時、ウイリアムズのガレージにいた。セナの弟のレオナルドの横で、モニター画面を見ていたんだ。事故の瞬間、レオナルドが両手で口を覆いながら、凍りついた表情でモニターを見つめていたのを、今でもハッキリと憶えている。その後、彼が慌ててガレージを飛び出して行く姿も......。

 ところが、その後のレース展開は何も憶えていないんだ。思い出すのは、レースが終わって、セナのことを伝えないまま、5位入賞した右京(片山右京)にガレージ裏でインタビューしたことぐらい......。事故の後、フジテレビのレース中継は事故現場からのレポートに切り替わったし、自分はきっと最終コーナー側にあるメディカルセンターで、セナの容体を取材していたんだと思うけど、ともかく、そのあたりの記憶が完全に抜け落ちている......。

 憶えているのは、セナの映画(『アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ』)にも出てきたあのシーン、フジテレビの中継で三宅正治アナウンサーに僕がセナの死亡を伝えるメモを渡して、そうしたら、三宅さんが僕をカメラの前に無理やり引っ張りこんで......。

 ちなみに、後になってその時の映像を見て驚いたんだ。自分があんなに「シオシオ」な表情になっているとは思ってもいなかったから......。

 事故原因についてはセナの乗っていたウイリアムズのマシンのステアリングコラム(ハンドルと前輪を繋ぐシャフト部分)が折れたとか、セイフティカーが入って速度が落ちたせいで、タイヤの内圧が下がっていたからとか......、今でもいろいろな説があるけど、確実に言えるのは、あの年のイモラは路面コンディションが最悪だったということ。

 木曜日に今宮純さんと一緒にコースを歩いてみた時、路面の舗装があまりにボロボロで、これはまともにレースできる状態じゃないと思った。セナの事故が起きたタンブレロコーナーなんて、舗装の継ぎ目が1センチぐらいの段差になっていて、最悪の状態だったからね。

 マシントラブルが無くても、高速であの段差に乗っかって、マシンがボトミング(マシンの底部が路面に接触してしまう状態)を起こせば、そのままコントロール不能に陥る可能性は十分にあったと思う。今宮さんも同じ意見で、翌日にあったフジテレビの特別番組でも「あの路面が原因のひとつだと思う」と伝えようとしていたけど、日本のスタジオと話がうまく噛み合わなかった......。

 あの事故があった日の夕方、まだ日が沈む前に、僕と今宮さんと三宅さんでタンブレロコーナーの事故現場を見に行ったんだ。

 セナのマシンが激突したコンクリートウォールにはベッタリと、まるで「魚拓」みたいにウイリアムズのマシンの塗装が残っていて、あの、セナの黄色いヘルメットの後もハッキリと残っていたから、衝突の凄まじさが伝わってきた......。

 どこから潜り込んだのか、自転車に乗ったイタリア人の男の子もその場にいて、コンクリートウォールのヘルメットの跡がついた部分を指さしながら、「ホラ、頭が当たっている」と言っていたな......。その後、レース前に僕がベネトンの連中からもらったジョニー・ウォーカーの青ラベルを、三宅さんが壁に掛けて、「どうか、天国の本田宗一郎さんとふたりで、先に一杯やっていてください......」と、話しかけてね......。しばらくみんなで祈りを捧げた。

 それから2日後、日本に帰国してからも心の整理はまったくつかなかった。たぶん、自分でセナの死を受け入れられなかったんだと思う。セナは僕にとって唯一の「カリスマ」だったし、自分とほぼ同じ時期にF1の世界に飛び込んで、パドックで同じ時間を過ごしてきた「同級生」でもあったからね。そもそも、あのセナが死ぬなんて想像もしていなかった、そんなタイプじゃないと思っていた。

 あと、レース前、実際にタンブレロコーナーの舗装が酷い状態だったのを見ていて、自分はそれが事故原因だと思っていたから、そんなバカげた原因であのセナが死ぬなんて、到底、受け入れられなかったというのもあると思う。

 唯一できたのは「泣くこと」だけだった。何日かは、セナのことを思い出しては泣いていた......。

part2へ続く

プロフィール
川井一仁(かわい かずひと)
1960年埼玉県生まれ。モータースポーツジャーナリスト。日本でF1のテレビ中継が開始された1987年から、ピットレポーターとして活躍。
現在はフジテレビNEXTのF1中継のほか、「F1GPニュース」(フジテレビONE)のキャスターも務める。

川喜田研●インタビュー・構成 interview by Kawakita Ken