『偽善のすすめ 10代からの倫理学講座』パオロ・マッツァリーノ (著)/河出書房新社

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電車の中で座っていると、マタニティマークを付けた女性が私の前に立つ。当然席を譲るべきだと思うのだが、迷ってしまうときがある。というのも、以前、同様の状況で席を譲った時に断られたことがあるからだ。どうしよう、今回は断られないだろうか、と躊躇している間にタイミングを完全に見失い、一駅も二駅も過ぎてしまう。

そういう時、こう思う。「譲ったら譲ったで、周りの人から『偽善者』と思われないだろうか」と。しかし、妊婦さんが座れたら、それは妊婦さんにとって安全だし、良いことだと思う。そもそも『偽善』って誰に向けられた言葉なのだろう。そもそも『偽善』の意味とはなんだろう。大辞泉を開くと「うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為」と書かれてあった。私は善人らしく見せたかったのだろうか。でも誰に対して?

そう考えていた時に見つけたのが、河出書房新社より発売されている『偽善のすすめ 10代からの倫理学講座』だ。本書では『偽善』という言葉がどのように遣われてきたか、その歴史を掘り起こしながら、『偽善』が本当に悪いことであるのかを考えていく。

立ち食いそば屋兼古本屋を営む、謎の日系イタリア人パオロさんが中学生の豪太と亜美の質問に答えつつ、議論をしていく形式になっているため、難しいテーマながら、とても分かりやすくスラスラと読める。

ところで、世界で初めて『偽善者』と人を批判したのは誰だかご存じだろうか。本書によると、正解はイエス・キリストだそうだ。それほど昔から『偽善者』という言葉で人が批判され、批判してきたということに驚く。しかし、日本にはもともと『偽善』という言葉はなく、江戸末期から明治の初め頃に『ヒポクリシー(hypocrisy)』の翻訳語として遣われはじめ、だんだんと人々の間に定着していったとのこと。

この『ヒポクリシー』、語源はギリシャ語の『演技』だそうだ。そう考えると、『電車の中で席を譲る自分』という演技をすること、家族や友人の前とは違う、『公共の場での自分』を演じることはおかしいことではないのではないだろうかと思える。本書ではそれについて、このように説明している。「人はだれでもなんらかの役割を演じているんです。いろんな化けの皮を、とっかえひっかえかぶりながら生きているんです。(中略)そういう切り替えを、意識せずにみんなやっています」

電車の中で妊婦さんに席を譲ろうとする時、「周りから『偽善者』と思われていないだろうか」と、譲ろうとする気持ちを持ちつつも、周りの目を気にしてしまう。しかし、その気持ちは行動に移さない限り人には伝わらない。自分が周りの目を気にすることよりも、妊婦さんが席に座るかどうか選択できることが重要だと思う。ただ、「良いことをしなきゃ!」と常に思っていると、それが重荷となり、疲れてしまうかもしれない。それについて、本書には「月に一度でも年に一度でもいい。それでもゼロよりは絶対まし」と書かれている。

難しいテーマではあるが、読み進めていくうちに、『偽善』という言葉に振り回されていた自分に気がつくことが出来た。著者のパオロ・マッツァリーノさんへ、どんな人にこの本を読んでもらいたいか聞いてみたところ、「すでに本書を読んだ数名のかたが口々に、これを中高生のときに読んでたら、もっとラクに生きられたと思う、といってます。ですから、やはりいまの現役中高生に読んでもらいたい」とのこと。

『偽善』という言葉に悪いイメージがつきまとっているが、『偽善』は悪いものではないのかもしれない。自分の行動に自信が持てなくなった時、迷いが出た時は、本書を読んで『偽善』の観念を考えてみてはいかがだろう。
(薄井恭子/boox)