『総合教育技術』2012年06月号:特集01「叱って育てる」教育の復権・特集02多文化・多国籍化時代の学校づくり

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このままでいいのか?
蔓延する「ほめよ、叱るな」教育
「叱って育てる」教育の復権
教師向けの雑誌『総合教育技術』06月号の特集タイトルだ。

“子どもたちの将来、ひいてはこの国の未来のためにも、行き過ぎた「叱らない」教育を正し、悪循環を断ち切る必要がある。今こそ、教師たちは叱ることの真の意味を理解すべきであり、現代に即した「叱って育てる」教育が求められている。”
と、勇ましい巻頭提言ではじまる。

「現場教師ホンネ座談会」は、小学校教諭4人の座談。
ホンネ座談会だけあって、愚痴っぽい感じ満載である。

“私自身、若いときには机をひっくり返したり、ゴミ箱を投げたり、「いい加減にしろ」と怒鳴ったこともあります。若いときには勢いで叱ってもいいと思う。”
小学生相手に、机ひっくり返して怒鳴るのは「叱る」って範囲なの!? と驚きながら読む。同時に、いやいや、現場はたいへんなんだろうなとも思いながら。

“一つは泣く。「泣いたって終わらないんだよ。次どうする?」と続くので、泣いてくれると次の手が打ちやすいですね。”
とか、なかなか過激な発言が、わりとふつーの感じで出てくる。

“最近の子どもたちを見ていて思うのは、自意識過剰な子が多いということですね。「僕は何でもできるもん」「私は何でも知ってるもん」みたいな子が多いと思います。それで「それは違うだろう」とガツンと叱るとめげちゃうんです。打たれ弱いんですね。それから、プライドが高い。素直に事実を認めない。それがそのまま教員になって厄介な初任者になる(笑)。”

とはいえ、「叱る」というのは、ほんとうに難しいことだと思う。
ぼくも、いい年で、いい加減おとなだが、「叱る」ということが、うまくできる自信がない。だから叱ったりしない。叱られるのも嫌いだ。

こういった例もでてくる。

“その先生は毎日とにかくたくさん叱ったらしいんです。子どもたちはどうしたら叱られないかと考えて、何もしなければ叱られないと気づいて、積極的に何もしなくなってしまったと。結局は学級が崩壊寸前までいったそうです……。”

次のような声もある。
“不適切な行動をするから注意したのに、素直に聞き入れるどころか、『自分は間違っていない』と反論してくる。家に帰って保護者に訴え、保護者は『教師の指導が間違っている』と言いだす。叱ることの意味を社会全体であらためて考え直す必要があるのではないか」”

東北福祉大学特任教授の有田和正先生の紹介する事例も印象に残る。

小学4年生のときにいたずらを何回もして叱った子が、5年生になっても同じいたずらをくり返す。
そこで、放課後に残して、こう叱った。
“「君は4年生のときにこういういたずらを6回やっている。先生は4回以上したら叱ると約束したから4年生のときに叱ったが、5年生になってまた同じいたずらをくり返している。どうしてなんだ」”
先生は、子どもの、いいこと、悪いことを、細かく記録に残していたから、記録に基づいて、叱ることができたのだ。
ところが、叱られた子がこう答える。
“「先生の叱り方では、ぼくの逃げ場がありません」”
先生はショックを受ける。
“自分の教師としての資格を問われた気がしたのです。そして、記録をとってそれに従ってきっちり叱ることが、子どもの逃げ場をなくしていたのだと気づきました。子どもを叱るときには、言い訳もできて、逃げ場のある叱り方をしなければいけないということを、私はこのとき教わったのです。”
先生は、悪かった、と謝り、彼の前の前で、1年半の記録を全部破ってゴミ箱に捨てる。
すると、子どもはぽろぽろ泣く。
“「もう二度とこんないたずらをしません。先生の大事なノートを破らせて申し訳ない」”

また有田先生は、叱っても忘れ物が多い子どもには、別の子を教育係につけるという作戦をとる。
“そこで、私はクラス全員に「今日はみんなに聞いてほしいことがある。君たちも知っているように、N君はランドセルをよく忘れる。注意してもすぐ忘れるので困っている。そこでN君の教育係をつくろうと思う。N君の一番好きな女の子にやってもらおうと思うがいいか」というと、みんなが拍手をして賛成してくれました”

特集の後半には、「低学年」「中学年」「高学年」それぞれのケースの「叱る」指導のポイントの他に、けっこうな分量で「若手教師の叱り方」に誌面を割いている。

栃木県では「本気で子どもを叱ろう」という県民運動が行われているそうだ。

野口芳宏先生の言葉は厳しい。
“子どもに反抗されたくない、保護者から文句を言われたくないと考えるなら、何もしないのが一番いい、となる。それは教育の敗北だ。教育とは良く変えていくことだからである。そもそも自分の子どもの非を認めず、学校に謝罪を要求するような保護者を育てたのは、これまでの日本の学校教育なのだ。今教えている子どもたちが将来このような保護者にならないように、教師は熟慮すべきであろう”。


野口先生は、“大事なのはテクニックではなく、哲学を持つことであり、そのために教師たちが為すべきは『修養』である”と述べる。
もちろん、その通りだ。だが、「人格形成につとめろ」と言われても、茫漠として途方にくれてしまう。
「叱る」必要は、あるのだろうか? 「叱る」資格はあるのだろうか。あるとすれば、どうやって叱ればいいのか。教師だけでなく、すべての大人は一度考えてみる必要があるだろう。(米光一成)