日本人の遺体が見つかった…アメリカ同時多発テロ行方不明の夫「退職」の意味
2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ。8時46分と9時3分、飛行機2台がワールド・トレード・センタービルに突入し、日本人24名を含む3000人もの方が亡くなられ、6000人もの方々がけがを負ったと報じられた。
当時の富士銀行に勤務していた杉山陽一さんも、犠牲となったひとりだった。杉山の妻・晴美さんと庸一さんの間には3歳と1歳になる息子がおり、当時晴美さんはお腹に赤ちゃんがいた。
それから20年をむかえた2021年に晴美さんが「あの日から20年」という連載を行った。事件を目の当たりにした日、行方不明の夫を身重の姿で探す日々……。ずっと信じていたい、探したい、諦めたくないという思いを抱えながら、子どもたちと生きていかなければならない現実も伝えている。
事件から25年となる2026年の9月11日、連載第4回より再編集の上お届けするのは、事件から少し経て周囲が「亡くなった」と認定していく現実だ。前編では、愛する家族がアメリカ同時多発テロに巻き込まれ、行方不明のまま行われた銀行主催の「追悼ミサ」が開催された日のことをお伝えした。炭疽菌で再びテロの恐怖にも直面した晴美さん。後編では、テロ当日からひと月経ち、銀行もニューヨークの街も前に進もうとするなかでの様々な現実に直面したときのことをお送りする。
ニューヨーク市主催メモリアルサービス
【10月28日】
ニューヨーク市のメモリアルサービスの正式な案内状が、ジュリアーニ市長の名前で送られてきた。夫の両親とわたしの3名で、その式に参加した。場所はワールド・トレード・センター・ビルの事故現場の脇にある通り、チャーチ・ストリート。ここに細長く座席をおき、式は行われた。
わたしの座った席は、実際に式が進行するステージよりだいぶ後方。大きな電光掲示板に映る画面を見ながらの参加となった。すぐとなりにはワールド・トレード・センター・ビル崩壊にともなって焼け落ち、朽ち果てたビルの残骸がむなしく姿をさらしている。それだけでもなにか普通でない……いまだかつて体験したことのない異様な式典だった。
その座席につくまで、実際に瓦礫の山となった事故現場も通った。そしていまもたちこめる、これまでかいだことのない異臭も体験した。事件から2ヵ月近く経ってもなお煙がくすぶり、放水せねばならない現場。そこからは、飛行機の燃料のにおい、ビルが溶けるにおい、さまざまな化学的な異臭がゆらゆらと立ちのぼっている。
とにかくただごとではない、大変なことが本当に起こったのだなと、痛感。気がつくと、口がぽっかり開いた状態で、事故現場を見つめていた。
不思議と涙は出なかった。ただ、あの中に夫を含め多数の尊い命が、もがきながら救いを求めていまもなお叫んでいるのかと思うと、思わず手をあわせていた。
アメリカとこんなに深く関わるなんて
そんな惨状と似つかわしくない晴れ渡った青空のもと、式は1時間ばかり続いた。祈りの言葉や、アンドレア・ボッチェリの「アヴェ・マリア」や……。そして星条旗がアメリカ国歌をバックに上げられていく様を見た時、初めて涙が出た。
夫が、そしてわたしが、こういう形で、アメリカという国に関わりをもつことになるとは……。オリンピックやサミットや、そんな時によく耳にしていたこのアメリカ国歌の聞きなれたメロディ。そして日本にいてもどこにいても、つねに目にしていた有名すぎる星条旗。
一生忘れ得ぬ、わたしとアメリカがつながった瞬間であった。そして一生涯わたしは、このアメリカという国とある種離れられない関係をもってゆくのだなと……。
杉山陽一という人間の歴史をかえりみる時にもまた、このアメリカという国が、日本という祖国と同じくらい重みのある国になってしまったのだなと……。
つい1年前、アメリカについてなんの知識も興味も持たず、子供をブラブラぶらさげてこの地になりゆきで流され、生活を始めたばかりのひたすら呑気だったわたしは、涙なくしてこの歌を聞き、この旗が揚がるのを見ることはできなかったのだ。
そしてこの日、希望した家族にはひと家族にひとつ、事故現場の砂の入った壺と、大きなアメリカの星条旗が配られた。遺体が出なかった場合の遺骨代わりという意味もあるようだ。
事件からまだ1ヵ月半、日本人である我々は、事実が何ひとつわからない以上、この場にとどまっていたいと思う。前に進まなくても、この場にとどまっていたいのだ。しかし、ニューヨーク市だけは前に一歩進もうとしている。後ろ向きの人間はついていきづらい、このアメリカの環境。とにかくどんどん苦難は乗り越えて、後ろを長々ながめていないで、しっかり前を見て進んでいけ、と。そう、我々は自国、日本ではなく、異国アメリカで大きな事件に巻き込まれたのだ。そんなことを実感させられた一日でもあった。
ストレスをためないようにしてと言われても
【11月の日記から】
衝撃的な映像は、何度繰り返し見せられても、やはり信じられない。
夫の生存を信じ、活動すること1週間で、突然の大出血。いわゆる切迫流産と診断され即入院、そして退院後も絶対安静の日々。
テレビ画面で、行方不明となった愛する人の写真を貼りまくり、必死で捜索している被害者家族の映像を見るにつけ、なにもできずに家で寝ていなければならない自分がはがゆい。
けれど、いま一番大切なのはお腹の中の命を守ること。これはわたしにしかできないことと、ぐっとこらえ……さらにストレスは切迫流産には一番悪影響、とにかく悪いことは考えるなとの指示を出され……あの大事件からたかだか1週間で、頭の中を切り替えろとはもうそれは神業の域。むろん妊娠初期は、精神安定剤も、睡眠薬も使用不可。
ただ寝ているしかできないのに、いったいどうやって気分転換し、よく寝て食べて、いいこと考えて、精神安定させろというの?
ともすれば悪いことしか考えられなくなりそうな、気が狂っても不思議ではないような状況。ただただ天井を見つめるしかできない体、それでもわたしができたこと……それはいい方向へ、いい方向へ……自分を導いていくこと。少しでもいいことがあればそれを大切に……一筋の光も見逃すな! 明るい出口が見えてくる、よーし、あっちだ! 行け行けどんどん!
そうやって、わたしは約2ヵ月の絶対安静の時期を乗り越え、妊娠も安定。わたし自身の内面も安定。わたしが安定していれば、子供たちも安定。まわりのみんなも、一安心。最悪の状況をなんとか突破したのである。
行方不明者は「退職」に
【11月20日】
富士銀行員が日本人では初めて、ひとり遺体が確認されたという連絡を受けた。
自分の夫ではなかったが、電話でその話を聞いた瞬間心臓が凍りつきそうになった。全身から汗が噴き出たような感覚があった。亡くなった。亡くなった。頭の中にそんな言葉がぐるぐるまわってしまう。
23日、お通夜に出席することになった。悲しい事実に心よりご冥福をお祈りして来ようと思っている。
【11月21日】
いつのまにやら季節は秋から冬へと移っていた。お腹のほうはなんとか安定してくれたようで、ここ数週間、脱マグロ、人間らしい生活へと徐々にリハビリし、最近はすっかり平常の生活が可能になった。
これもひとえに、みなさんの励ましあってのこと。とにかく、「安静」「身体を大事に」というたくさんの声に支えられたからこそ、元来落ち着きのないわたしが、のんびり養生することができたのだと思う。
12月いっぱいで今回の行方不明者全員、有無を言わさず退職させられることになってしまった。このことについては、アメリカをも超える富士銀行の急進展。まあ銀行側は当然、ずっと以前から決定していたことであったのだろうが……。いずれは、と思ってはいたものの、実際この話をいただいたときは、え、もうですか? とややびっくりせざるを得なかった。
当然、お給料はストップ。現アメリカの家賃、アメリカでの医療に関わる保険、引っ越し費用を除くすべての補助もストップするので、事実上、家族がどのように粘ってみても、死亡を認めざるを得ないといった状況になった。
残されたものは生きていかなければならないし、ましてや子供を抱えた人間は子供を育てていかねばならないから、当然、現実的に生きていかざるを得ない。といったわけで、わたしたち家族が夫の死亡を事実と認め、各種手続きを進めてゆくことになった。
わたしとしては、こちらアメリカでの出産の希望を銀行側に提出していたため、12月いっぱいの退職ではあるが、来年7月まで、特別に家賃をカバーしてもらえることが決まった。ちなみに出産予定日は、来年3月27日。つまり予定通りの出産になれば、生後4カ月の状態で帰国ということになる。
アメリカの戦争もこのままいつまで長引くかわからないし、テロの危険もまだまだぬぐいきれない。炭疽菌騒ぎは、ここニュージャージーもまさに渦中である。帰国を早めるようにとご心配くださる方々も多数あったのだが、やはりせっかく安定した体調の中、引っ越し等で忙しくすることにも抵抗があったのと、やはりこのままでは帰れないという思い、わたしなりにアメリカという国との関わりをひと区切りつけたいという思い、様々な思いから、こちらでの出産を選択した。
