「行かせてください!」広野功が野球生命をかけた因縁・堀内恒夫との対戦と心の整理がついた長嶋茂雄の引退試合
野球に愛され、野球に翻弄された男、広野功さん。
板東英二や稲尾和久、川上哲治、王貞治、長嶋茂雄、星野仙一ら日本球界に名を刻む猛者たちと現役時代に対峙(たいじ)した。中でも堀内恒夫とは、広野がプロ野球選手になったときからの因縁だった。
そんな広野が引退を決意したきっかけも堀内だったという。
沼澤典史さんの著書『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)から、堀内との因縁と長嶋茂雄さんの引退試合の奇跡を一部抜粋・再編集して紹介する。
互いが意識し合うライバルだった
広野が引退を決意したきっかけは堀内恒夫との対戦だ。広野と堀内には、さまざまな因縁があった。
広野はプロ1年目に、堀内から逆転サヨナラ満塁本塁打を放った。広野と堀内は、年齢は違えどドラフト一期生の同期である。
広野の母も「堀内君に負けないように」と再三手紙を出して、発破をかけていたという。
一方の堀内も広野が巨人へ入団した際、顔を見るなり「これでやっと厄祓いができた」と言ったというから、お互い意識し合うライバルであったのだ。
「僕はプロ入り直後に怪我をした右肩がずっと痛かったんです。試合後はアイシングして朝起きたらゆっくり動かす日々でした。かなり体はしんどかったし、実際の成績を見てもここまでかなと。
ただ、最後に堀内が投げているときにもう一度、代打で出たいと思ったんですよ。堀内と最後の勝負をして、自分の野球人生に見切りをつけようと思ったわけです。打てても打てなくても辞めようと」
そのチャンスはシーズン早々に実現した。1974年5月12日の巨人戦。1対1で迎えた延長11回裏に、中日は満塁の場面を作ったのだ。巨人のマウンドには堀内。相変わらずふてぶてしい様子で立っている。
ベンチ裏のスイングスペースから、その様子を見ていた広野は「ここしかない」と悟った。そして、すぐに打撃コーチだった徳武定祐に直訴した。
「代打、行かせてください!」
首脳陣に選手みずから出場を直訴するのは通常ではありえない。それは彼らの起用法に異を唱えることを意味する失礼なふるまいだからだ。
しかし、この絶好の機会を前に広野はそうせざるを得なかった。
「俺からそんなことを監督に言えるわけがない。自分で監督に言え!」
徳武は、広野の一世一代の進言を袖にする。
「選手がこんなにお願いしているのに、無碍に扱うのはどうなんだと腹が立ちましたよ。なんなんだこの人はと。こんなコーチにはならないと、後年、指導者になってからは心に決めていましたね。それで、僕は監督のウォーリー与那嶺(要)に『野球生命を賭ける打席です。行かせてください!』と頭を下げたんです」
広野の意気込みを買った与那嶺は「オーケー!広野行け!」と送り出した。
「二軍に行くときは引退を決意していた」
演出家で古典演劇評論家である戸部銀作は、逆転サヨナラ満塁本塁打を2本打った広野に、かつてこう言ったことがあった。
「広野君、君は他の人が絶対やれないことを2度もやったんだよ。もう一度打ったら、その時には新聞記者を集めて記者会見をしなさい。今日限りで引退します。神様のお告げがあったから、僕は『逆転満塁サヨナラ本塁打教』の教祖様になりますと言いなさい」
戸部に冗談混じりに言われていた広野だったが、みずからのけじめとしてこの場面を待っていたのである。
「真っ直ぐが来て、弾き返したんです。人生でも指折りの会心の当たりだったんですが、ライトライナーでアウトです。これで、自分の野球人生に悔いはないとスッキリしました。
試合後、与那嶺さんに『明日からファームに行ってまいります』と言い、二軍に行ったんです。二軍に行くときには、引退を決意していました。ただ、二軍の選手のお手本になるように練習はしっかりしていましたよ」
広野が引退を表明した後、中日は20年ぶりの優勝を果たした。
10月12日の大洋とのダブルヘッダーに連勝して中日が優勝を決めると、同日V10を阻止された巨人の長嶋茂雄が引退を表明。
中日の優勝が霞むほどの衝撃が日本中に走ったのだった。
これにより、翌13日、後楽園球場での中日との今季最終戦ダブルヘッダーが、長嶋茂雄の引退試合となるはずだった。しかし、これまた広野へ不思議な巡り合わせが回ってくる。
予定変更で長嶋の引退試合に出場
この試合、球界のスターである長嶋最後の花道であるから、当然中日もフルメンバーで臨む予定だった。
しかし、13日はあいにくの雨となり、試合は14日にスライド。この順延によって本来出場するはずではなかった広野が、長嶋の引退試合に出場することになるのだ。
「14日は中日が名古屋で優勝パレードをする予定だったのです。これは道路を封鎖したりするから、日程を動かせない。主力メンバーは、当然パレードに参加しなければならんのです。だから実は、長嶋さんの引退試合は主力メンバーや与那嶺監督は出ていないのです。僕は主力ではないから、パレードには出ない。だから、14日の試合に出場することができたわけ」
広野は14日ダブルヘッダーの第二試合目、長嶋茂雄最後の試合に五番・一塁でフル出場した。
「最後の打席は、なんとか長嶋さんのいる三塁に打ちたいと思って、捕手の吉田孝司に『外角の真っ直ぐを頼む』と言ったんですが、結果はセカンドゴロでした。ただ、途中でサードフライは打てたので、花は添えられたかなと。あと、長嶋さんの最後の打席は併殺打なんですが、そのボールは一塁の僕が受けました」
これが広野にとっても現役最後の試合であった。巨人に移籍した頃、長嶋は広野をたいそう可愛がったという。
長嶋は六大学で対戦経験がある広野の長兄のことを覚えており、移籍当初「君が孜の弟か」と声をかけてくれたのがきかっけだ。
長嶋の妻・亜希子の弟が広野の慶應大野球部時代の3つ後輩という縁もあった。長嶋は遠征の際に広野を食事に誘うなど、2人は多くの時間をともにした仲だった。
長嶋の影に隠れてひっそりと退いた
このように世話になった長嶋に向け、広野は試合前に電報を打っている。
「僕も長嶋さんと一緒に小さな引退試合をやらせてもらいます」
広野の心の整理がついた。
「我が巨人軍は永久に不滅です」
こう語る長嶋の背後に見えるスコアボードには、広野の名前も映し出されている。ミスターの影に隠れ、広野もひっそりと現役を退いたのだ。
長嶋最後の打席は、同じく勇退する川上監督が特別に一塁コーチャーズボックスに入っていた。巨人時代、広野に目をかけ、餞別までくれた川上は一塁を守る広野に対して、「お前もおつかれさん」と声をかけたのだった。
こうして稀代の満塁男は、通算689試合に出場し、440安打、78本塁打、打率2割3分9厘という成績を残し、9年の現役生活に幕を下ろしたのである。
沼澤典史
ノンフィクションライター。過去に篠塚和典、高橋慶彦、武田一浩、谷繁元信などのプロ野球OBへの取材記事多数。プロ・アマ問わず野球関係の記事を『NumberWEB』に寄稿