評価が「大荒れ」になってしまった『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ですが、日本では「作品の姿勢を評価する」声も多くあります。それでも筆者個人が本作を支持できない理由も含めて、解説しましょう。(サムネイル画像は筆者撮影の劇場パンフレット)

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10月11日より『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開中です。

2019年に公開された『ジョーカー』はとてつもなく高い評価を得て、全世界累計の興行収入が10億ドルを超えた大ヒット作でしたが……残念ながら、今回の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の評価は賛否両論というよりも「大荒れ」。莫大な製作費に対して現時点での興行成績は厳しく、実際に見ればその理由も納得できてしまったのです。【動画】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の予告編を見る

見る前に知っておくべきこと

見る前に知っておくべきなのは、今作は完全に前作『ジョーカー』の「続き」となる物語で、前作を見ていることが前提の作りであること。前作を見ないまま、本作に挑むことはおすすめしません。

また、「簡潔な殺傷・流血の描写がみられる」という理由で日本ではPG12指定となっており、ごくわずかに性的な描写もあるのでご注意を。R15+指定だった前作に比べればショッキングさは控えめですが、完全に大人向けの作品であることは変わっていません。

前作から一転、評価も興行成績も大苦戦に

今作は、アメリカの批評サービスRotten Tomatoesでは批評家からの支持率が33%、オーディエンススコアが32%とかなり厳しいものになりました。日本では1週遅れの公開となったため、「絶賛の嵐だった、あの『ジョーカー』の続編が一転して酷評されている(評価が分かれている)」ことを事前に知り、身構えていた人も多いでしょう。

アメリカでは初登場1位を記録したものの、オープニング成績は約3767万ドルで、前作の約9620万ドルの4割に満たない数字となりました。しかも、公開2週目の週末の興行収入はわずか約705万ドルと、前週比はなんとマイナス81.3%。アメコミ映画史上でワースト1位の下降率となってしまったのです。前作の約5500万ドルから約2億ドルにまで増加した製作費の回収は、おそらくはできないでしょう。

日本では作品構造を踏まえて評価する声も

ネガティブな情報が多く拡散され、それがより厳しい興行面に影響している『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ですが、日本では「評価が分かれている理由は納得できるが、自分は支持をする」という意見のほか、「素直に楽しめた」という声も多く見かけます。事実、映画.comでは5点満点中3.2点、Filmarksでは3.5点(いずれも記事執筆時点)など、レビューサイトではそこまで低いスコアではありません。

前作に続き退廃的でリッチな画、主演のホアキン・フェニックスの演技力はもちろん、今回は大スターのレディー・ガガによる見事な歌唱も加わっているため、確実に高く評価できるポイントもあります。何より、後述する通り、毀誉褒貶(きよほうへん)を呼ぶ作品の構造そのもので、「前作の責任を取った」「誠実な続編を作った」作り手の姿勢を汲み取って支持をする人は少なくないのです。

ただ、筆者個人としては、作品の構造や作り手の意図を鑑みても、残念ながら本作をあまり評価できない、というのが正直なところです。もっと言えば、本作は前作の「補習」のような印象があり、それは「多くの人にとっては(少なくとも筆者は)見たくはないもの」と思ってしまったのです。

ここからは内容に踏み込みつつ、個人的に否定的な感想を持った理由を、解説していきましょう。決定的なネタバレには触れないように気を付けたつもりですが、予備知識なしで見たい人はご注意ください。なお、前作の内容にも一部触れています。

1:前作の「答え合わせ」ともいえる法廷劇に

本作は、「法廷劇」になっています。前作でアーサー・フレック=ジョーカーが起こした複数の殺人事件についての裁判が行われるのですが、このパートがよくも悪くも前作の「答え合わせ」のように思えてしまったのです。
前作では、「これは現実なのか? それとも妄想なのか?」と惑わされる場面が多くあり、それが主人公の精神状態を表すとともに、どれが現実で妄想なのかと翻弄(ほんろう)されつつも自主的に考えさせられる、スリリングな面白さがありました。

しかしながら、今作の裁判シーンでは、前作で面白かったポイントや、考えた上で“現実”だと思っていたことを、「こうだったんですよ」と懇切丁寧に説明されている印象が強く、それ自体が野暮だと思ってしまいました。通常の法廷劇の映画にある、論理的な推理や、証拠を提示した上での二転三転的な展開はほとんどなく(そもそも前作を見た時点で分かりきっているため)、単純に退屈に思えてしまったのです。

「アーサーとジョーカーは別人格なのか?」という議論も含めて、前作ではドラマとして展開したことを、今回は法廷という舞台で繰り返している、とも言えるでしょう。

もちろん、法廷劇でアーサー=ジョーカーの物語を語り直すことで、別の形で彼のアイデンティティーの揺らぎを示し、その悲哀もより強調されている、だからこそ続編の意義があったという肯定的な意見にも納得できます。

2:前作とは明確に異なるミュージカルのパート

今作の新機軸はミュージカル(音楽)のパートがあることです。悲劇的な物語で、法廷劇が展開し、さらに妄想の中で歌って踊ることから『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を連想する人も多いでしょう。作中で流れる楽曲『What the World Needs Now Is Love(世界は愛を求めている)』のタイトルと歌詞がストレートに愛の重要性を示しつつ、それが皮肉にも思えるなど、選曲それぞれにもこだわりを感じさせました。
ただし、そのミュージカルのパートでは物語がほぼストップしてしまうため、全体的なテンポがやや遅く、個人的にはそれも退屈さにつながってしまいました。どれが妄想か現実かをあいまいにする前作とは違って、(全てがそうだとも言い切れませんが)「ミュージカルのパートは妄想」だと区別しやすく、そこにメリハリを感じるという肯定的意見にも納得できる一方、やはり前作にあった“虚実がない交ぜになる面白さ”を感じにくかったのです。

余談ですが、ヒロインのリー・クインゼルを演じたレディー・ガガは、劇場パンフレットでこの映画を説明する時に、見る人の考え方に制限をかけてしまわないよう、ミュージカルという言葉を使わないよう気を遣っていることを語っています。確かに、ミュージカルという言葉に囚われ過ぎず、ガガの言う「サウンド、音楽、映画館での感覚が観客を登場人物の心の中と、監督の作り出す世界の中に連れて行ってくれる映画」の魅力を信じて、見に行ってみるのもいいでしょう。

3:「盛り上げない」「冷めさせる」とも捉えられる作劇

「法廷劇」「ミュージカル」という大きな特徴に加えて、作劇そのもののカタルシスを意図的に最小限にしている、もっと言えば「盛り上がらない」ようにしているとさえ思うポイントも多々ありました。筆者を含め、客観的には殺人者であるはずなのに神格化されてしまったジョーカーを、『ジョーカー』という映画そのものを含めて、「冷めさせる」ような作劇の意図を感じた人は多くいるようです。

冷めさせる理由として考えられるのは、前作に対して一部の層から「現実の暴力を誘発する恐れがある」といった声が上がり、アメリカでの公開時に警察と軍隊が警戒態勢を取ったほど、「危険」に思える内容だったからでしょう。

しかしながら、ワーナー・ブラザースが「ジョーカーというキャラクターもこの映画も、現実世界のいかなる暴力を肯定するものではない。ヒーローとして称える意図もない」と声明を出している通り、前作の劇中の描写からもジョーカーが絶対的に「正しくない」と受け取れる内容にはなっていたとも思うのです。
それでも今作の内容から、「トッド・フィリップス監督は、『ジョーカー』が世界中から熱狂的な支持を得たことに責任を感じていたのではないか」と、多くの人が解釈している「現象」そのものが、本作の大きな価値だと言えます。商業的には「観客が求めるもの」が重視されるはずの大作映画で、そのような作品を作り上げたことにも意義を感じます。

事実、劇場パンフレットの冒頭には、トッド・フィリップス監督による「2018年に『ジョーカー』を制作し始めた時点では、これほど大きな反響を世界中に呼ぶとは想像もしていなかった。ホアキン・フェニックスと私は続編について話したことはあったが、真剣に考えたことはなかった。アーサーの物語に対する観客の反応を見て、状況が一変した」から始まる言葉が記されています。やはり世間の反響や反応そのものが、今回の続編の内容に強い影響を与えたことは間違いありません。

一方で、「カタルシスを最小限にしている」「淡白」とも言える作劇が、結果的に映画としてのインパクトや面白みを大きく損ねてしまっているとも、個人的には思えてしまったのです。特に、ジョーカーのさらなる“悪者”としての活躍(ピカレスク・ロマン)を期待していた人にとっては、肩透かしに思えてしまうでしょう。

例えば、ジョーカーの大暴れを描き、その後に完膚(かんぷ)なきまでに倒される様など、もっとドラマティックに彼の“正しくなさ”を打ち出す方向性だってあり得たはずですし、その方が一般的な評価も高くなったとは思うのですが……そうしなかったのも、また意図的なのでしょう。

4:「フォリ・ア・ドゥ」が意味しているのは「2人狂い」だけど……

タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」は、フランス語で「2人狂い」という意味です。劇中パンフレットでは精神科医・作家の春日武彦が「共依存とは全く別に成立したもの」であることも含めて解説しているので、読んでみると理解しやすいでしょう。
その解説では、フォリ・ア・ドゥが「妄想をもった1人の人物から、親密な関係にあるもう1人ないしは複数の人物へ、その妄想が伝播(でんぱ)し共有される状態」であり、しかも「両者はともに、物理的ないし精神的に孤立した状況にあるのが通常」などとも記されています。なるほど、それは主人公アーサーとヒロインであるリーの関係および状態を、端的に指しているタイトルだと分かります。
しかしながら、「2人狂い」という字面のインパクトほどに2人が暴れて回ったりはせず(中盤のとある場面以外)、やはり「盛り上がらない」ように描いていることは、観客からネガティブな声が上がる原因でしょう。

リーのとある秘密の提示方法や、2人の関係の顛末(てんまつ)は、映画を見終わってみれば、タイトルにも沿った(あるいは裏切った)含蓄のあるものだと分かるのですが、やはり物足りなさを感じてしまう人も多いと思うのです。

まとめ:作品に否定的な立場でも、心から見てよかったシーンはある

総じて、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、全く新しい物語を提示した続編というよりも、前作と改めて徹底的に向き合った内容と言っていいでしょう。そこに作り手の生真面目さを感じる一方で、やはり多くの人が見たい内容ではなく、ストレートな映画としての面白みを感じにくい内容にもなってしまっていると、個人的には思えました。

端的に言えば、「ジョーカーは正しくない」ことなどを改めて説明する、前作のおさらいのような内容のため、例えば「すごくいい先生が『伝わっているか心配だから……』と、もう一度違う形で補習をしてくれたんだけど、やっぱり前の授業の時点で理解できたと思うし、そっちの方がはるかに面白かったよなあ」というように、気を遣いつつも苦言を呈したくなったのです。

また、作り手が現実への影響を鑑みて、メタフィクション的な構造を用意した続編(完結編)には、近年ではある種の「卒業」を促すような『シン・エヴァンゲリオン劇場版』や、1作目が陰謀論者のバイブルのようになっていたからこその「回答」とも捉えられる『マトリックス レザレクションズ』もありました。構造はもとより、前の作品から続くキャラクターの心理が繊細かつ丁寧に描かれていることも『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』とは共通しているので、それをもって評価する人もいるでしょう。

個人的に、心から見てよかったと思えたシーンもあります。それは法廷で、アーサーの友達であったゲイリーが涙ながらに、とある切ないことを告げるシーンです。前作でも印象的だった小人症の俳優リー・ギルの演技が素晴らしく、殺人という犯罪が親しい人に対してもいかに悪い影響を与えるのかが分かる、前作の「その先」を描く場面として、とても意義深いものでした。

結果として、筆者は本作には否定的な立場ではありますが、以上に挙げた要素を全てポジティブに受け取り、面白く感じられる人もいるでしょう。前作と併せて「考える」ことにも意義と価値がある作品だと思いますので、まずは鑑賞をしてから判断をしてみてほしいです。

この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「CINEMAS+」「女子SPA!」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。
(文:ヒナタカ)