多くの人が誤解している、「日本人は空気を読む」は本当なのか

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

世界中で酷似しているBSJ現象

BSJ論も、日本社会にそれがどのような意味をもつのか、ということは当然、問われるとおもいます。おそらく、これからそれは、調査などによってあきらかにされていくでしょう。

日本についての独立の考察も必要ではないかと最初にはおもいましたが、しかし日本での反応をみていくうちに、それを性急にやるよりもまず、やるべきことがある、と痛感しました。

というのも、そもそもBSJの宇宙の存在を捉え、えがきだすことを可能にしている理論的かまえや歴史認識、さらにはこの分析の作業の土台にある世界の人々のおびただしい経験を十分に汲み取らないで、さあ日本はどうだという感じであわててしまうと、そこにみいださねばならない多くのことが犠牲になるとおもわれるからです。

それに、『ブルシット・ジョブ』の反響がここまであったということは、たとえイギリスやオランダとおなじような数字として結果に表現されなくても、この現象のなにがしかは日本にも深く作用していると、最小限いえるとおもいます。

それ以上にここで強調しておきたいのは、訳語でも苦労を強いられたような、さまざまな企業慣行や組織編成の差異などがあるにもかかわらず、そこにみられる、おどろくほどの類似です。

まず、先ほども述べたように、BSJには「あざむき」の次元がつきまとうという点です。そこであげられた多数の人の報告には、その微妙な空気の読みあいとそれがまねく疲弊が告げられています。

わたし自身、日本の文化は「空気の文化」であるという「常識」には、妥当な部分がないわけではないけれども、しかしそれ以上に誤解を招きやすいと感じていました。

というのも、それこそたとえば欧米の映画やTVドラマをみていると、「気まずい」とか「つい失言をした」、だれかが一人だけ「浮いている」といった空気感を微妙な間や表情で表現する場面が、日本の現代のそれら(みずからの気持ちをしばしば絶叫して表現する)より、量的にもはるかに多く、質的にもすぐれたかたちであらわれるのです。

逆に、もしなにも予備知識のない、どちらの文化にも属さない人間が、おなじ現代のTVドラマをみて、こうした登場人物の表現だけで比較してみたら、もしかすると日本社会では「空気を読む」という作法が乏しいのではないか、と感じるかもしれません。

「日本は特別」なのか

ここからいえるのは、少なくとも「空気を読む」のが日本独特であると考えすぎるのは禁物だということです(その裏にはまた「日本人は繊細である」というある種の独善性も透けてみえることが多々あります)。

それとおなじく、BSJ論では、労働のための労働、モラルとしての労働、そして苦痛がなければ労働ではないといった倒錯が、北部ヨーロッパから生まれ、BSJの増殖の文脈となっているとされています。

こうした倒錯も、日本にかなり独特のものとみなされていますが、『ブルシット・ジョブ』を読むとけっしてそうではないことがわかります。もちろん、こうしたモラルの倒錯性について、日本がなにか根深いものをもっていることはいえるとはおもいます。しかし、まずは、「日本は特別」という観念が、それを批判する側にすら過剰に浸透しているのではないか、とうたがったほうがいいとおもいます。

そもそも、こうしたじぶんたちは特殊ではないか、ということを感じていることそのものが日本だけのものではありません。中国における労働運動のウェブマガジンが、こんなふうにグレーバーに聞いているからです。「中国の人々の多数にとって、犠牲を払って家族を養うことは、より広い社会的利益に貢献することとおなじくらい重要なことです。どうおもいますか」。これに対して、グレーバーはつぎのように応じています。

中国での話は、わたしがヨーロッパやアメリカで経験したことと大きく異なる点はありません。有給雇用、とくに賃労働は、長いあいだ、ライフサイクル現象の一部と考えられてきました。それは、大人になるための方法を学ぶやり方であり、そしてまた実際に家族の面倒をみられる大人になるための手段を身につけることだったのです。じぶんの仕事は無意味だという人に話を聞いても、ほとんどの場合、家族のため、あるいは将来の家族のためにやっているという答えが返ってくるでしょう。しかし、同時に、子どもたちに快適さや機会を確保する唯一の方法が、一日に100回も穴を掘って埋めることだと知って、それによって少しもおかしくならない人は、世界にはいないとおもいます

おそらく、これはのちにみる人類社会の「基盤的次元」へのグレーバーというより人類学の確信に由来するのではないか、ともおもわれますが。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病