国内で唯一の皇室専用駅「原宿駅宮廷ホーム」 大正天皇のために造られた専用駅だった
JR山手線原宿駅の近く、線路をはさんで明治神宮の向かいにあるプラットホームをご存じだろうか。国内で唯一の皇室専用駅、通称「原宿駅宮廷ホーム」である。「駅」といっても改札口があるわけではなく、一見、貨物駅かと見間違う人もいるようだ。創建は1925(大正14)年10月で、2024年で99年を迎える。大正天皇と密接な関係にあった専用駅の生い立ちを、ひも解くことにしよう。
※トップ画像は、SLが発着していたころの原宿駅宮廷ホーム。撮影時期不詳ながら、昭和30年代の撮影と思われる=写真/星山一男コレクション(筆者所蔵)
専用駅の必要性
大正天皇は、1924(大正13)年ころから歩行が困難な状況にあったという。とくに東京駅は、プラットホームが高架上にあり、エレベータやエスカレータのない時代である。側近侍従らは、大正天皇の両脇を抱えるようにして“階段の昇り降り”を行なっていたことを日誌に記し、「(東京駅は)至極不便」と書き残している。
こうしたことがきっかけとなり、1925(大正14)年6月には東京駅に代わる専用駅の建設を検討することになった。候補地は、皇居から近く、東海道、横須賀、東北の各線や天皇の専用車である御料車の車庫がある大崎駅へのアプローチに適した場所が条件とされた。そして、一番大切なこととされたのが、「民衆の眼に触れることがなく、静かな場所」ということだった。この条件に適した土地を探したところ、今の専用駅に辿(たど)りついたのであった。当時の原宿駅周辺は、1920(大正9)年に創建された明治神宮がたたずむ、閑静な住宅地という好立地だった。
突貫工事で建設
当時の宮内省は、鉄道省と協議の末、1925(大正14)年12月に予定していた沼津御用邸(静岡県沼津市)でのご静養に向かう列車から使用できるように、同年8月頃より建設工事に着手した。駅は「皇室専用駅」とわからないように、建物は簡素な造りとし、プラットホームの上屋も使い古したレールを使用するなど、できるだけ目立たないようにした。
外からは、敷地の中が見えないように周囲を塀と樹木により遮へいし、さらに駅の建物は内部が見えないように壁で囲んだ。ホームの全長は列車9両分が停車できる長さとし、建物には折畳式金属製大扉を備えた正面入口と、皇室用の御車寄(みくるまよせ)などを設け、屋根には、明かりとり用の天窓と、内部には皇族待合所と電話ボックスも備えられた。
そして、大正天皇のために特殊な「乗降装置」も用意された。当時のプラットホームは、現在のように車両とホームの床面がフラットではなかった。御料自動車も今とは異なり、クルマの床面は地面より63センチも高い位置にあった。この段差を解消するために大がかりな可動式ステージを設置したのであった。
大正天皇のご利用は一度だけ
完成した宮廷ホームは、正式には「原宿駅側部乗降場」といい、駅舎の建物は「原宿駅北部本屋」と呼ぶ。なぜ「本屋?」と思われた方もいるだろうが、これは「ほんや」と読む。駅の「基“本”となる位置」にある「建“屋”(たてや)」のことを指す鉄道用語で、さらに「北部」と冠されているのは、山手線の原宿駅よりも「北側にある」ことを意味する。完成当時から関係者の間では、“原宿皇室駅”や“原宿宮廷駅”と呼ばれていたが、いつのころからか現在のように、「原宿駅宮廷ホーム」と通称で呼ばれるようになった。
大正天皇はその后であった貞明皇后とともに、この真新しい駅舎から1925(大正)14年12月に沼津御用邸へと向かわれる予定だった。しかし、その直前に大正天皇が脳貧血で卒倒したため、あえなく中止された。翌1926(大正15)年4月にも再度計画されたが、回復が思わしくなくこれも見送られた。
同年7月になり、8月から葉山御用邸でご静養されることが決まり、8月15日に貞明皇后とともに、はじめて原宿駅宮廷ホームを利用した。車椅子姿の大正天皇は、御料自動車から御召(おめし)列車へと車椅子のまま乗り換えられ、乗り込まれた。お召列車(御料車)の車内では、“隣接する明治神宮”の方角を列車が出発したあともしばらくの間、見つめていたという。これが大正天皇の鉄道旅として、最後の“片道きっぷ”になってしまった。
文・写真/工藤直通 くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。